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いつかどこかで見た映画 その151 『浜の朝日の嘘つきどもと』(2021年・日本)

監督・脚本:タナダユキ 撮影:増田優治 編集:宮島竜治 出演:高畑充希、大久保佳代子、柳家喬太郎、甲本雅裕、佐野弘樹、神尾佑、大和田伸也、六平直政、斉藤暁、竹原ピストル、光石研、吉行和子

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 映画館を舞台にした映画と聞いて、たぶん多くの方が思い浮かべるのは『ニュー・シネマ・パラダイス』だろうか。ジュゼッペ・トルナトーレ監督によるあのイタリア映画は、シチリアの田舎町にある映画館(その名も「パラダイス」)を舞台に、名優フィリップ・ノワレ演じる映写技師を慕う少年トトの成長物語だった。トゥーマッチすぎるくらいの映画愛にあふれたラストシーンは、ちょっとズルイ気がしながらもやっぱり泣かされたものです。
 あるいは、フランク・ダラボン監督がジム・キャリー主演で撮った『マジェスティック』も、事故で記憶をなくした脚本家が小さな町の映画館(こちらの館名は「ザ・マジェスティック」)の再建にはげむ姿を描く。ハリウッドの赤狩り時代を背景としながらも、最後はフランク・キャプラの映画のようにしみじみと幸福感にひたれるいい作品だったと思う。
 少し古いところでは、ピーター・ボグダノヴィッチ監督が1971年に撮った『ラスト・ショー』。テキサスの寂れた町で繰りひろげられる“閉塞”を絵に描いたような青春群像劇のなかで、若者たちの数少ないたまり場である映画館(確か「ロイヤル」という館名だった)もまた、時代に取り残されていく町と人々の象徴的な存在として印象深い。そして館主が死んでいよいよ閉館を迎える、その“最終上映[ラスト・ショー]”作品がハワード・ホークスの名作『赤い河』。牛の大群をひきいた大移動の旅に出発する場面が映しだされ、それをこれから町を出る主人公が見ているのにはグッときた。
 一風変わったところでは、ロバート・イングランドが主演した『シアター・ナイトメア』なんていうのはどうだろう。デジタル化のあおりを食って今は映画館のポップコーン売場に追いやられている初老の映写技師が、勤めているシネコン(劇場名は……何だっけ?)を舞台とした「スリラー映画」の撮影を計画し、巻き込まれた若者カップルを恐怖と絶望のどん底に突き落とすといったもの。イングランドが主演した『エルム街の悪夢』シリーズなどへの目くばせがあったりするのも楽しいB級映画だったけれど、「映画上映のデジタル化」を背景としているあたりがなかなかに“皮肉”がきいているではないか。
 日本映画では、やはり記憶に新しいのが大林宣彦監督の『海辺の映画館 キネマの玉手箱』。尾道に1軒だけ残る映画館(「瀬戸内キネマ」)が閉館となり、最後のオールナイト上映で映画を見ていた3人の青年が、バスター・キートンの『忍術キートン(キートンの探偵学入門)』やシュワルツェネッガー主演作『ラスト・アクション・ヒーロー』よろしく上映中の映画のなかに入り込んでしまう。その奇想天外な展開のなかで、「映画で歴史は変えられないが、観客は未来を変えることができる」と文字どおり最後のメッセージ(本作が大林監督の遺作となった)をおくる監督の心意気は、じゅうぶんすぎるくらい伝わってきたものだ。
 そういえば山田洋次監督にも、徳島の映画館(実在する「脇町劇場(オデオン座)」)を舞台とする『虹をつかむ男』という作品があった。ここで西田敏行が演じる映画館主かっちゃんは度はずれた“映画狂[バカ]”ぶりなんだが、その“ナイーブさ”たるやもはや微笑ましいという以上に見ているこっちが気恥ずかしくなってしまう。が、そんな主人公に不思議な説得力をもたらすところが、「西田敏行」という役者の凄さだと実感させられたものだ。結局、第2作の『虹をつかむ男 南国奮斗篇』以降シリーズ化されなかったが。
 その西田敏行といえば、こちらはテレビだが市川森一脚本の『港町純情シネマ』というドラマ作品があった。千葉の銚子にある港町の映画館「港シネマ」(ロケは実在した映画館「銚子セントラル」)で、館主の父親にだまされて故郷に呼び戻され、支配人のつもりが映写技師を命じられる主人公。西田演じる彼が、上映する映画の登場人物にすぐ感情移入というか“同化”してなりきってしまうあたり、『虹をつかむ男』のかっちゃんそのままだ。というより、山田洋次はこのドラマから着想を得たのではあるまいか。
 ……とまあ、思いつくままに作品名(と、そこに登場する映画館名)を並べてみた。他にも、次の上映までのあいだ観客に芸や歌を披露する「幕間芸人」を主人公にした佐々部清監督の『カーテンコール』など、まだまだ“映画館を舞台にした映画”はあることだろう。そして、ここにあげた洋の東西いずれの作品でも「映画館」とは“失われゆく過去や、時代に取り残される人々”の象徴であり、やがて消え去ってしまうものたちの哀感と郷愁[ノスタルジー]をたたえた存在なのだった。
 だが、そんなたそがれゆく映画館と「映画(館)ファン」たちに対して「バカヤロー、まだ始まっちゃいねえよ!」と威勢よく啖呵を切る作品が現れたのだ。そう、タナダユキ監督の『浜の朝日の嘘つきどもと』のなかで、閉館を決意した映画館主にむかって高畑充希演じる主人公が、あの北野武監督『キッズ・リターン』の有名なセリフを言い放つのである。
 映画の舞台となるのは、福島県南相馬で100年近い歴史があるという実在の映画館「朝日座」。その誰もいない館内の映写室で、館主の森田保造(柳家喬太郎)はひとり古いサイレント映画を上映している。作品はD・W・グリフィスの『東への道』で、この映画館を建てた保造の祖父が最初に上映したものだった。そのフィルムを“処分”することで、閉館することの未練を断ち切ろうとしていたのだ。
 そして一斗缶で焼こうとしたそのとき、いきなり水をかけて火を消しフィルムを奪い取る女が現れる。「茂木莉子」と名のる彼女は、ある人との約束で朝日座を立て直すために東京からやって来たと言う。すでに建物の解体と跡地の買い手が決まっていると保造が説明しても(……ここで『キッズ・リターン』のあのセリフが登場するわけだ)、莉子は不動産屋の岡本貞雄(甲本雅裕)のところへ乗り込んで、買い手と話をつけさせろと一歩も引かない。
 この「茂木莉子」という、いかにもウソくさい名前(実際、切符売り場を見てとっさに思いついた“偽名”なのだが)の女なんだが、とにかく口が悪い。初対面の保造に対していきなりジジィ呼ばわりだし、つられて保造もどんどん口調が乱暴になっていく(……このあたり、柳家喬太郎の落語家ならではの“口跡”が素晴らしい)。だが映画の知識は豊富で、それもそのはず、彼女は東京の映画配給会社に勤めていた。しかしコロナ禍で会社は倒産し、それもあって、ある“約束”をはたすために朝日座を訪れてきたのだ。
 その“約束”とは何か。ここから映画は、窓口で「受付(もぎり)」をする一方、クラウドファンディングの立ち上げやマスコミを使っての宣伝など朝日座存続のために奔走する莉子の姿とともに、彼女の「過去」の姿をも映しだす。そしてそこにいるのは、東日本大震災によって家族のきずなが失われ、傷つき途方にくれた少女だった。
 彼女の本名は、浜野あさひ。福島県の郡山で高校1年生のときに震災が起き、タクシー会社勤務の父親・巳喜男(光石研)は自身で会社を興した。それは、誰もが二の足を踏む汚染地域へ除染作業員を運ぶためだったが、やがて震災で莫大な利益を上げたとうわさが広まり、あさひも友人たちがみんな離れてしまう。しかも父は仕事で家庭を顧みず、情緒不安定となった母親は幼い長男ばかりを溺愛。そんな、家にも学校にも居場所のなくなったあさひに声をかけてくれたのが、数学教師の田中茉莉子(大久保佳代子)だった。
 学校内で“自殺未遂”の生徒と増村保造監督『青空娘』のDVDを見て、「どうせ100年後にはあんたなんか死んでるんだから」とこともなげに言ったり、映画がスクリーンに映しだされる仕組みを説明して、「残像現象よ。映画の半分は暗闇を見ているってこと。半分は暗闇を見ながら感動したり笑ったりしているって、だから映画好きにはネクラが多いのかもね」と笑う田中先生。
 その後あさひは母と弟の3人で東京へ引っ越したものの、高3の夏休み前に学校を辞めて郡山まで家出してきたときも、先生は平然と迎え入れる。そうしてはじまったひと夏の共同生活のなかで、次々と男に惚れてはフラれ、そのたびに『喜劇 女の泣きどころ』(瀬川昌治監督の隠れた傑作!)を見ながら泣きじゃくるこの男運と口は悪いがタフで映画好きな田中先生によって、あさひはようやく自分自身の人生とむきあうことができたのだ。
 やがて26歳になったあさひに、めずらしく田中先生と8年も関係が続いているベトナム人バオ君(佐野弘樹)から連絡がはいる。それは、先生が乳がんで余命がいくばくもないというものだった。急いで病院を訪れたあさひだが、ベッドに横たわっているものの、そこには以前と変わらない先生の姿が。それからも仕事のあいまに病院へと通い続けるあさひに田中先生は、ある日「お願いがあるのよ」と頼みごとをする。それは渡橋から男を追って(!)南相馬に移り住んでいたころ、彼女がよく通った映画館の朝日座を立て直してほしいというものだった。
 つまり田中先生は、朝日座館主の森田保造による上映プログラムがあまりにも「ひどい(笑)」から、自分の代わりとなってあさひに手助けしてやってほしいというわけだ(……確かに、テオ・アンゲロプロス監督の『永遠と一日』と佐藤純彌監督の怪作『北京原人』の2本立てというのは、観客にとってとまどうばかりだろう)。かつて先生は、上映作品をめぐって保造に「よく聞けオッサン」と説教していた。それを今度は、あさひが茂木莉子として「よく聞けジジィ」と受け継ぐ。ーーなるほど、これは失われゆく「映画(館)愛」をしみじみ感傷にひたりながらなつかしむんじゃなく、「バカヤロー、まだ始まっちゃいねえよ!」とそんな野郎どものケツをたたく女たちの物語だったのだ。
 正直言うとこの映画、なぜ登場人物たちの台詞が“標準語”なのか(……主人公の莉子と保造にいたっては、ちゃきちゃきの“東京下町ことば”なのだ。まあ、その高畑充希と柳家喬太郎による会話の応酬こそが本作の魅力のひとつなんだが)、しかもコロナ禍で映画館を閉じるといいつつ街の誰もマスクをしていないことに、どこか釈然としなかったのも確かだ。が、後ろむきのノスタルジーをあくまで拒否しつつ「映画(館)愛」をうたうこの映画を前に、そんなことは些末なイチャモンでしかないだろう(と、思うことにする)。
 そう、田中先生の「タフでなければ生きていけない、優しくなければ生きている資格がない」という生きざまこそ、こんな時代のすべての「映画(館)ファン」が、ひいてはわれわれの誰もが学ばねばならないものだと監督のタナダユキはここで高らかに宣言する。そして本作は、ひとりの迷える女の子がそんな“精神[ガッツ]”こそを先生から学び継承することで浜野あさひから茂木莉子となるまでの、「真の教育」とは何であるかを描いたまさにハードボイルドな「教育映画」に他ならないのだ。
 この素晴らしき田中先生を見事に演じきった大久保佳代子に、ぜひとも映画賞を!

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