いつかどこかで見た映画 その174 『ゴーストブック おばけずかん』(2022年・日本)
監督・脚本・VFX:山崎貴 原作:斉藤洋、宮本えつよし 撮影:柴崎幸三 編集:宮島竜治 出演:城桧吏、柴崎楓雅、サニーマックレンドン、吉村文香、神木隆之介、新垣結衣、鈴木杏、遠藤雄弥、釘宮理恵(声の出演)、杉田智和(同)、下野紘(同)、大塚明夫(同)、田中泯(同)
映画館によってはいまだ上映中のところもあるという大ヒット・ロングラン中(2022年8月当時)の『シン・ウルトラマン』は、それこそリアルタイムで『ウルトラQ』の初回放送からウルトラ・シリーズを見てきたものとして、確かにある感慨を禁じえなかった。「空想特撮シリーズ」と銘打たれた『ウルトラQ』から『ウルトラマン』(……ちなみに、続く『ウルトラセブン』からは、この「空想特撮シリーズ」の文字がタイトルからなくなっているのは周知のとおり)を、小学1年生から2年生にかけてのぼくもまた熱狂しながら毎週欠かさず視聴していたものだ。
そんなシリーズに登場する怪獣や異星人、ドラマ設定を文字どおり“再構築[リブート]”しながら(……しかし、まさか『Q』に登場する怪獣たちから物語がはじまるとは、思いもよらなかった。ああゴメスよ、ペギラよ、マンモスフラワーよ!)、なぜか日本にのみ出現する怪獣ならぬ「禍威獣」や宇宙人ならぬ「外星人」、対する科学特捜隊(科特隊)ならぬ「禍威獣特設対策室(禍特対)」チームとウルトラマンによる対決を、「空想特撮映画」として現代の劇場スクリーンによみがえらせた。それは、企画・脚本・総監修の庵野秀明や監督の樋口真嗣といった作り手たちの「ウルトラマン愛」に、同じ「新人類[オタク]」世代として思わず胸を熱くする瞬間に事欠かないものなのだった。
ただ、作品ポスターやチラシに使われている惹句[コピー]の、「空想と浪漫。そして、友情。」だけはどうなんだろう。「空想と浪漫」はいい、けれど「友情」とは? もちろんそれが、ウルトラマンと人間たちとのあいだに生まれた「きずな」をさすものだろうことはわかる。が、最後には自らを犠牲にしてまで地球を救おうとするウルトラマンにあるのは、もうひとりの「光の星」の使者であるゾフィならぬ「ゾーフィ」が言うように人間への「愛」に他ならないのではないか。ウルトラマンは、そこまで「人間が好きになった」のである。
ウルトラマンと「友情」について言うなら、やはり「ウルトラ5つの誓い」を思いだすべきだろう。それは『帰ってきたウルトラマン』の最終話のなかで、登場人物のひとりである少年とウルトラマンとのあいだでとり交わされた“誓い”だ。ーー初代ウルトラマンと同じく最強の宇宙恐竜ゼットンと対決し、いよいよ地球を去るときがきたウルトラマン。宇宙に飛びたつその姿を追いながら少年は、あらためてふたりのあいだの“約束”をとなえる。
「一つ、腹ぺこのまま学校へ行かぬこと。一つ、天気のいい日に布団を干すこと。一つ、道を歩く時には車に気をつけること。一つ、他人の力を頼りにしないこと。一つ、土の上を裸足で走りまわって遊ぶこと。」
……それを大人たちは、あまりに子どもじみているというか素朴[プリミティブ]すぎると笑うだろうか。しかし、これこそを真の「友情」の光景と言わずしてなんと言うべきか。『帰ってきたウルトラマン』を見る子どもたちはこのとき、きっと本気でこの誓いを宇宙から来たヒーローととり交わそうとしている。真に利他的な「友情」が生まれ育まれるのは、そういった子どもたち“だけ”が持ち得る〈倫理〉ゆえなのだ。そしてウルトラマンとは、そんな子どもたちにとっての「友情」の対象に他ならなかった。
いっぽう『シン・ウルトラマン』のウルトラマンは、長澤まさみ扮する同僚と相棒[バディ]を組み、さらには人間の無力さに打ちひしがれる仲間に「宇宙の原理」を解く方程式をあたえても、「腹ぺこのまま学校へ行かぬこと」などとは決して言わないだろう。この映画のウルトラマンが向きあっているのは、もはや子どもたちではなく、大人たち、というか「大きなお友だち」なのだから。
そう、庵野秀明や樋口真嗣らこの映画の作り手たちにとって、そういう“子どもだまし”な「友情」よりも“大人だまし”な「空想と浪漫」こそがここでめざされている。幼稚[プリミティブ]な〈倫理〉なんぞではなく、自分(=大人)たちが納得できる「論理[ロジック]」に裏打ちされた世界観の(再)構築こそがここでのすべてなのである。
もちろん、それはそれでひとつの創造的な“聡明さ”であり、事実その映画は大ヒットしているわけだ。前述のとおりぼくだって思わず何度も胸を熱くしたのだし、なにも文句をつける筋合いはない。
が、どこかで「これはぼくの知っている「ウルトラマン」ではない……」という一抹の“さびしさ”を感じたことも事実だ。はたして「子どもたち」は、『シン・ウルトラマン』のウルトラマンに対して“畏怖の念”を持ち得ても、この宇宙から来た巨人(=大人)に“友愛の念”を抱けるだろうか、と。
たぶん「空想と浪漫。そして、友情。」を謳うべきだったのは、『ゴーストブック おばけずかん』のほうではあるまいか。なぜならこの映画は、奇想天外な「空想と浪漫[ファンタジー]」であると同時に、どこまでも子どもたち“だけ”の〈倫理〉で成立している「友情」のドラマであり、その意味において完全無欠の“少年少女向け[ジュブナイル]”作品であるからだ(……もっともこちらのほうは、「空想と浪漫」というより「喧騒と混乱」と言いかえたほうがよさそうな“にぎやかさ”だが)。
原作は、小学生たちのあいだで大人気だという全33冊の童話シリーズ。「おばけ」をひとりずつ(というか、一体ずつ?)紹介してその“対処法”を解説する、タイトルどおり図鑑形式の内容らしい(すみません、未読なので)。それを映画のほうは、ある願いごとをしたことで「おばけの世界」に迷いこんだ、4人の少年少女とひとりの先生が繰りひろげる冒険ドラマに仕立てあげている。
……小学校の帰りに、願いごとがかなうと教えられた古い祠(ほこら)へと向かう一樹(城桧吏)、太一(柴崎楓雅)、サニー(サニー・マックレンドン)。その夜、一樹が目を覚ますと、枕もとに白い布をかぶった小さなおばけが現れる。おばけは、「昼間の願いをかなえたいか? 命がけの試練になるぞ」と言う。驚きながらも「命をかける」と同意した一樹に、「祠の近くにある古本屋で、おばけずかんを手に入れろ」と言いのこして消えるおばけ。
翌朝、太一やサニーも同じおばけの“夢”を見たと知った3人は、ふたたびその祠の場所に行く。と、そこには昨日までなかったはずの古本屋が、本当に建っていた。
3人はおそるおそるなかへ入るが、その姿を臨時教員として一樹たちのクラスの担任になったばかりの瑤子先生(新垣結衣)が目撃する。注意しようとすると、いきなり空間に“穴”が開いて瑤子先生自身と一樹たちが飛び出してきたではないか。わけがわからないまま、先生も古本屋に入って行く。
店内には、居眠りしている見るからに怪しい店主(神木隆之介)がひとり。一樹たちがおばけずかんを見つけて手にしたとき、店主が、「ルールを説明するよ」と声をかけてくる。3人は驚いて逃げだすが、「あんたたち待ちなさい!」と追いかけてきたのは瑤子先生だった。
迷路のような店内からようやく外へ出たものの、一樹はおばけずかんを持ってきてしまった。しかし瑤子先生も出てきたので、しかたなく自転車で逃げる3人。だが、一樹が家に帰ると家族がだれもいない。家のなかの様子もあきらかに変だ。
そこへ、太一とサニーがあわててやって来る。街にはだれもいないこと、スマホもまったく使えないことにあせる3人。外へ出ると確かに人の気配がなく、家やビルはことごとく変形し、看板の文字もデタラメで読めない。さらには道路に置かれているカラーコーンが空を飛ぶ光景にぼう然となりながら、とにかくただひとりの大人である瑤子先生の家を訪ねることにする。
そのとき、彼らの前にひとりの少女が現れる。それは3人の同級生である湊(吉村文香)だった。彼女がここにいるはずがないと思うものの、「気がついたら、この世界に来ていた」という湊の様子から「あれは本物の湊だ」と確認し、再会を喜ぶ一樹たち……。
と、ここまでが序盤。こうして「おばけの世界」に迷いこんでしまった4人の小学生と、仕事がないのでとりあえず臨時教師になったという瑤子先生は、ある「願いごと」をかなえるためにおばけたちと立ち向かうことになるのだ。
かつてぼくは『SPACE BATTLESHIP ヤマト』評で、《山崎貴の映画は、ある意味すべて「リメイク」だ》と書いたことがある。その監督作品は、つねにおびただしい映画やコミック、TVゲームなどからの「引用」に満ちあふれ、全編どこかで見たシーンのオンパレードだ、と。
《だがそこには、“自分が大好きな作品や、キャラクターや、設定をこの手で再現[リメイク]するんだ!”という作り手である山崎監督の高揚感が、画面から伝わってくるかのようだ。山崎監督が本当に「リメイク」しようとしているのは、そういった作品たちから彼が受けた感動や興奮といった“情動[エモーション]”そのものなのである。》
この映画でも、おばけたちを「図鑑」のなかに閉じ込める(=捕獲する)といった設定や、怪しい古本屋内の迷宮めいた美術[ビジュアル]に『ハリー・ポッター』や『ファンタスティック・ビースト』シリーズ的な雰囲気がただよう。そもそも3人の少年とひとりの少女、そこにひとりの大人を加えた主人公たちの人物配置は、自身の監督デビュー作『ジュブナイル』そのままなのである(……ちなみに、その『ジュブナイル』で主人公の祐介とヒロインの岬を演じた遠藤雄弥と鈴木杏が、一樹の両親役でカメオ出演している)。
また主人公の一樹は「いつき」と読むが、『ジュブナイル』が岩井俊二監督の『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』へのひそかなという以上にあからさまな“変奏[オマージュ]”であったことを思うとき、「いつき」という名前にも岩井監督の『Love Letter』へのめくばせが感じられたりもする。さらに、映画の最後に瑤子先生が流すひと粒の涙は、谷口正晃監督による仲里依紗主演版『時をかける少女』そのものじゃないか! ──等々、本作においてもそこに、いくつもの作品タイトルや作者からの引用や着想[モチーフ]を見出すことができるに違いない。
しかしそれ以上にこの最新作は、山崎貴監督が先に書いた「子どもたちの〈倫理〉」にどこまでも忠実な映画の作り手であること、それがどれだけ貴重というか“尊い”ものであるか、あらためて教えてくれるものとしてあるだろう。それは、この作品が「友情」をメインテーマにするものだからということもある。が、それ以上に彼らが一丸となっておばけという「他者」と出会うことのなかで、あらためて“この世界で真に大切なものは何か”に気づいていく「成長物語」としてあるからだ。
そのとき「成長」とは、決して“大人になる”という意味ではない。彼らは一丸となって困難と立ち向かい、そのなかで自分たちの「友情」をあらためて確認し誓い合う、彼らは子どもままに、その〈倫理〉をきたえあげていくのである。さらに、そんな子どもたちによって新垣結衣が素晴らしくチャーミングに演じる「ダメな大人」の瑤子先生もまた、いつしか忘れていた大事な〈もの〉を思いだす──取り戻していくのだ。
……そしてクライマックスで、子どもたちに協力していっしょに「最後にして最強のおばけ」と戦うおばけたち。それは、“つかまえたおばけは一度だけ命令にしたがう”というルールによるものだが、その“一度だけ”の命令にしたがった後も、彼らは自らすすんで子どもたちとともに戦うのである。
この場面に、ぼくという観客は感動する。まるでそれは、「一つ、困っている仲間は何があっても助けること。」という“友情の誓い”を、おばけたちがそれこそ命がけではたそうとしているに他ならないからだ。
そう、山崎貴監督はこれまでも「ウルトラ5つの誓い」のような映画ばかりを撮ってきた。その最新にして最も美しい“精華[エッセンス]”のような本作を、子どもたちはもちろん、ぼくという「大人」もまた愛さずにはいられない。この映画を見ることは、自分の内なる子どもの〈倫理〉を何度でも取り戻すことなのであり、たぶんそれは(ぼくたちにとって)きっととても大切なことなのである。
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