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いつかどこかで見た映画 その13 『ホーリー・モーターズ』(2012年・フランス=ドイツ)

“Holy Motors”
監督・脚本:レオス・カラックス 出演:ドニ・ラヴァン、エディット・スコブ、エヴァ・メンデス、カイリー・ミノーグ、ミシェル・ピコリ、ズラータ

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 映画と演劇の最も大きな違いとは、何だろう。ーーなどと、そんなことをあらためて問うなんて、やはりバカげているだろうか。映画はフィルム(またはデジタル)で撮影された映像がスクリーン(あるいはモニター画面)に映し出され、演劇は舞台上で生身の役者たちによって演じられることで成立する。そこで同じように「劇[ドラマ]」が繰り広げられるものであっても、このふたつは根底的に異なるものだ、と。
 たとえば、チェーホフの戯曲『ワーニャ伯父さん』が舞台で上演され、それをそっくりそのまま撮影した作品があったとする(……というか、テレビの舞台中継はもちろん、そんな“舞台の映像化”というのは、映画の黎明期から今日の「シネマ歌舞伎」にいたるまで、いわばありふれたものだが)。そしてスクリーンに映し出されたその作品は、なるほど舞台と同じ役者がワーニャやソーニャを演じ、同じ背景や小道具などとともに物語が進行しても、もはやすでに演劇ではなく「映画」でしかないのである。
 なぜなら演劇の場合、役者が突然演技を中断し、「こんなお芝居にはガマンできない!」と宣言して『ワーニャ伯父さん』という舞台(=世界)から降板することができる(まあ、そんな怖れを知らぬ役者が、どれだけいるのかは知らないけれど……)。しかし映画では、その映像が上映されるたびにワーニャはワーニャとして、ソーニャはソーニャとして毎回寸分違わぬ台詞や表情、行為[アクション]を繰り返し続けるのだ、永遠に! 
 そう、映像のなかの人物たちにもはや“その人物以外の誰か”になるという選択というか「自由」は、存在しない。『ダイハード』のジョン・マクレーン警部がある日の上映中、突然「俺はブルース・ウィリスに戻る!」と宣言して映画内の世界から“遁走”することなど、現実的にあり得ないのだ。撮影現場ではブルース・ウィリスという男優が演じた“彼”は、『ダイハード』として完成した映画にあって、「ジョン・マクレーン警部」であることを永久に反復することしかできない。とどのつまり「映画に撮られる」とは、「映画に囚われる」ことなのである。
 映画のなかの住人たちに、その役回りから逃れる「自由」はない。金輪際あり得ない。ーーなどと、そろそろ当たり前のことを何クドクドと書いているんだ! という非難の声も聞こえてきそうだ(すみません……)。が、レオス・カラックス監督による、前作『ポーラX』から13年ぶりの長編となる『ホーリー・モーターズ』を見終わって興奮さめやらぬなかでまず思ったのが、そういった「映画のなかの〈彼ら〉」のことなのだった。もし、映画に囚われた〈彼ら〉にも生活というか「人生(!)」というものがあったなら、その“舞台裏”を描いたものこそ、この映画じゃないか……。
 もともと一筋縄ではいかないのがカラックスの作品の常だけれど、これほど奇妙というかキテレツな映画もそうあるもんじゃない。『ホーリー・モーターズ』で描かれるのは、謎の依頼[アポ]によって次から次へと「別人」に姿を変えては、それぞれの人生(の断片)を演じる男の1日。そして本作を見るぼくたちは、いったいこの主人公が、なぜいくつもの「他人の人生」を演じるのか何も知らされないまま、彼を乗せて走る白のストレッチリムジンとともにパリの街を彷徨することになるのだ。
 監督であるレオス・カラックス自身が登場する不思議な冒頭にはじまって(……犬が寝そべるベッドから起き出すカラックス。窓からは航空機が着陸する夜の空港が見える。彼は部屋の壁に、見知らぬ扉があるのを探り当てる。その向こうは、カモメの鳴き声と汽笛が鳴り響く映画館のなか。そこを埋めつくす「顔」のない観客たち……)、カラックス作品の常連(というか、カラックスの“分身[アルターエゴ]”である)ドニ・ラヴァン扮するひとりの男が、家族に見送られながら豪邸(まるで、ジャック・タチの『ぼくの伯父さん』や『プレイタイム』などを想起させるユニークな外観!)を後にする。そして、上品な初老の女性運転手(エディット・スコブ)が運転する巨大な白のリムジンに乗り込み、「本日のアポは9件です、オスカー様」と告げられる。
 こうしてオスカーと呼ばれる男は、まるで衣装部屋のようなリムジン内で特殊メイクやかつら、衣装をとっかえひっかえしつつ、路上で物乞いする老婆、工場のような巨大スタジオ(これもジャック・タチか、カラックスの『汚れた血』を思い出させる)でのCGアニメ用モーションキャプチャーのモデル、カラックスがオムニバス映画『Tokyo!』の一編として撮った短編に登場する地下街の怪人物メルド(この映画での彼は、エヴァ・メンデス扮するモデルを撮影現場から略奪する、『ノートルダムのせむし男』や『キング・コング』的な役割を与えられている)、思春期の娘の父親、アコーディオン奏者、非情な殺し屋、愛する姪に見守られながら死にゆく老人、平凡な家庭人(……だがその妻と娘は、二本足で立つ犬のような類人猿なのである!)といった別人へと変装(=変奏)しながら、次々と「アポ」をこなし続けるのだ。まるで、社会派ドラマ、CGアニメ、ホームドラマ、暗黒街もの、メロドラマ、大島渚の『マックス・モン・アムール』(!)などといった、様々な映画を“横断”するかのように。
 前述のように、どうしてこのオスカーという男が、何のために“誰か”を演じ続けているのか、この映画はあかそうとしない。どこかで目にした紹介記事のように、《これは「技術の進歩によって小型軽量化されたカメラが、もはや人の目には見えない存在となった」未来の物語らしい。いや、もしかするとこの「世界」そのものが、まるで幽霊のような観客たちで満員の「映画館」で上映されている“劇中劇”ではないか?》と、見ているわれわれは翻弄され、途方に暮れるかもしれない(ただ、それでいてこの謎めいた映画から、ぼくたちは一瞬たりとも目が離せないのだ……)。ならばこちらも、勝手に“解釈”させていただこう。そう、これは“「映画[フィルム]のなかの人物たち」の世界を描いた物語”なのだ、と。
 ーー〈彼ら〉は1本の映画のなかで、常に同じ人物を、同じ台詞を、同じ行動を、永遠に繰り返し続ける。その1本のフィルムのなかでマクレーン警部はテロリストの親玉ハンスを撃ち殺し、ハンスは高層ビルから落下し続けるのだ。そう、何回も何回も。だが、そんな彼らにも「マクレーン警部」や「ハンス」としてだけじゃない意思や人生があったとしたら? 『アルマゲドン』の油田技師や『ハリー・ポッター』のスネイプ先生もまた、〈彼ら〉が「アポ」をこなした結果として存在するのだとしたら? ……そうなのだ、生身のブルース・ウィリスやアラン・リックマンが撮影現場で彼らを「演じた」からではなく、そうやって“撮られた”彼らの〈映像=分身[イメージ]〉こそがマクレーンやハンスを登場させ得たのだーーというのが、この映画なのである。
 いくらなんでも、あまりに突飛というか妄想が過ぎるだろうか。けれど一方、映画のはじまりと終わり、そして途中にも挿入された19世紀の生理学者エチエンヌ=ジュール・マレーによる「連続写真[クロノフォトグラフィ]」とは、まさにそういった永遠に同じひとつの行為を繰り返し続ける“〈彼ら〉そのもの”として映し出されていたはずだ。映画の起源のひとつでもある、マレーの「連続写真」によって撮られた=囚われた〈彼ら〉。だが、そんな〈彼ら〉もまた、映画の世界において“自分たちの人生”を生きている……。
 「アポ」をこなしながら、リムジン内でだんだんと疲弊していくオスカー(……ところで、この白くて横長のリムジンとは、上映前のスクリーンの比喩ではあるまいか? オスカーをはじめ〈彼ら〉がリムジンのドアを開ける(=開幕)その時、「映画」がはじまるのだ)。彼は、かつて同じ映画で愛し合った女ジーン(カイリー・ミノーグ)と偶然再会し、廃墟の百貨店内でひととき昔を語り合う。彼女は、いま演じている女がまもなく「最期」を迎えるという。そして別れた後、オスカーは廃墟の屋上から飛び降りた彼女の死体を発見する。だが、ぼくたちはすでにオスカーが三回も“死んだ”のに、次の「アポ」のためにそのつど“生きかえった”ことを知っている。たぶん彼女もまたこの後、白いリムジンに乗り込んで次の「アポ」をこなすのだろう。〈彼ら〉は死ぬことがない、ジョン・ウェインはすでに“この世”の人ではないが、『駅馬車』のなかの「リンゴ・キッド」は、上映されるたび“そこ”に存在する。イメージは常に「不死」なのだ……。
 繰り返そう、これは、「映画のなかの住人たち」についての映画である。永遠に同じ顔を、行為を、台詞を反復し続ける〈彼ら〉が、実は「映画」と「映画」のあいだにそれぞれの人生を生き、喜怒哀楽を重ねていたという、ある意味で人形やゲームのキャラたちの日常と冒険を描く『トイ・ストーリー』や『シュガーラッシュ』などにも通じる「ファンタジー」なのである(……たとえばエンド・タイトル前のエピローグなど、まさに「ディズニー的」な光景ではなかっただろうか。もっとも、そこでリムジンたちによって交わされるのは、無邪気さからほど遠い「映画と観客」をめぐる苦い認識ばかりなんだが)。
 映画に「撮られた=囚われた者」たちの人生。〈彼ら〉は、今日も明日も白いリムジン(=スクリーン)のなかで変装しながら、別の人生(=映画)を変奏し続けるだろう。だが、結局何のために? ーーオスカーは本作のなかで、上司らしい男(ミシェル・ピコリ)に言う。「行為の美しさがあるから、この仕事を続けていける」のだと。すると上司の男は、「美しさは見る者の瞳のなかにある」と答える。フィルムのなかで〈彼ら〉が繰り広げる「行為の美しさ」こそ、「観客」が映画に求めるものだ。それを承知しているからこそ、オスカーは「行為(=依頼[アポ])」を永遠に繰り返し続けていくだろう。映画が消滅する、その日まで。
 ……やれやれ、おまえのこの文章こそが支離滅裂でワケがわからないって? 「糞[メルド]! 」。

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