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いつかどこかで見た映画 その129 『ワンダーウーマン 1984』(2020年・アメリカ)

“Wonder Woman 1984”

監督・脚本:パティ・ジェンキンス 脚本:ジェフ・ジョンズ、デイヴィッド・キャラハム 撮影:マシュー・ジェンセン 音楽:ハンス・ジマー 出演:ガル・ガドット、ペドロ・パスカル、クリス・パイン、クリステン・ウィグ、ロビン・ライト、コニー・ニールセン、ガブリエラ・ワイルド、クリストファー・ポラーハ、アムール・ワケド、ラヴィ・パテル

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 リチャード・ドナー監督の『スーパーマン』といえば、いうまでもなく現在の「スーパーヒーローもの」映画の“原点”となった名作だ。1978年に製作されたあの作品こそ、それまではせいぜい安物雑誌[パルプ・マガジン]や子ども向けTVシリーズのなかの「コミック・ヒーロー」だったスーパーマンを、真の「アメリカン・ヒーロー神話」として見事に再生させたのだった。
 ……映画の冒頭、原作コミック本を読んでいる少年の姿が、セピア調のモノクロ・スタンダードサイズの画面に映しだされる。と、それがいきなりカラー・ワイドサイズにひろがり、そこにジョン・ウィリアムズの音楽とともにタイトルやキャスト・スタッフ名が宇宙空間のかなたから次々と現れるという、あの心おどる素晴らしいオープニング。そこから語られる、故郷クリプトン星から「孤児」として地球にやって来た出生の秘密や、養父母のもと「クラーク・ケント」として中西部の片田舎で過ごす青春時代をへて(……そこでの、あたかもアンドリュー・ワイエスの絵画のような郷愁あふれる映像の美しさ!)、いよいよスーパーマンとして“覚醒”する誕生物語は、確かにひとつの「神話」としての格調と魅惑に満ち満ちていた。
 そんな『スーパーマン』に熱狂した少年のひとりが、のちのブライアン・シンガー監督だ。『X-メン』シリーズの成功により一躍ヒットメイカーとして認められた彼は、シリーズ新作の監督オファーを蹴ってまで『スーパーマン・リターンズ』を選ぶ。そしてその作品は、まさしくドナー監督による『スーパーマン』への“愛”とリスペクトにあふれたものだったのである(……もっとも、作品的な評価は高かったものの、映画会社から興行的に「失敗作」とされたシンガー監督。彼自身もまた、「少しノスタルジックかつロマンティックで、みんなが期待していた映画ではなかった。特にサマーシーズンにおいてはね」と認めてはいる。一方で、「大好きなリチャード・ドナー作品をめざした」自作の出来にはそれでも「満足」を表明しているのだが。ーー以上、引用は『ボイシス・フロム・クリプトン』サイト記事より)。
 さらにもうひとり、ドナー監督の『スーパーマン』に熱狂したこちらは少女がいる。やがて映画監督となった彼女は、女性が主人公のスーパーヒーロー映画『ワンダーウーマン』を大成功に導く。そう、パティ・ジェンキンスその人だ。
 あるインタビューのなかで、ジェンキンス監督はリチャード・ドナーの『スーパーマン』について、「私にとって原点の映画」と言う。「私はこれをティーンの頃、つまり80年代に観て大きな影響を受け、いつかこんな映画を作りたいと思っていた」と。その言葉どおりジェンキンス監督の『ワンダーウーマン 1984』は、前作を受け継いだシリーズ第2作でありながら、ドナー監督の『スーパーマン』へのこれまた“愛”とリスペクトにあふれた作品なのである。(以上、引用はネットサイト『シネモア』所収わたなべまき氏によるインタビュー記事より)
 ……第1作目では、主要な舞台となるのが第1次世界大戦下におけるヨーロッパ戦線だった。そして今回は、それから70年近くたった1984年のアメリカだ。
 前作の泥土と灰色がかった陰鬱[ダーク]な背景(=世界)から一転して、そこはカラフルでポップな色彩と音楽(デュラン・デュラン! ザ・カーズ!)に彩られた「ザッツ・80s」な世界。ダイアナ(ガル・ガドット)は首都ワシントンのスミソニアン博物館で考古学者として働きながら、「ワンダーウーマン」という正体を隠して街を犯罪から守る日々をおくっている。
 しかし彼女は、いまだに前作で戦死したスティーブ(クリス・パイン)のことを想い続けていた。容姿ともに華やかで有能なキャリア・ウーマンとして周囲から一目置かれるダイアナだが、彼女自身は何10年ものあいだ最愛の人を亡くした“喪失感”を抱きながら孤独に生きてきたのだ。
 そんなある日、ダイアナは新任したばかりの研究員バーバラ(クリスティン・ウィグ)と親しくなる。彼女はFBIから依頼された宝石や古美術品の鑑定を受け持ち、同席したダイアナは依頼品のひとつに気をとめる。鉄環にはまったその石の造形物[オブジェ]にはラテン語が刻まれており、それは「願いをかなえる」と読めた。冗談半分にバーバラから、「あなたなら何を願うの?」と訊ねられるダイアナ。
 一方、誰からも相手にされないと劣等感を抱くバーバラは、洗練された身ごなしでミステリアスな、自分のような者にも親身になってくれるダイアナに魅せられてしまう。それは、夜道で酔っぱらいの男にからまれた自分をダイアナが救ってくれたことで、もはや彼女への“羨望”へと膨れあがるのだった。ひとり博物館に戻り、「ダイアナのようになりたい」と思うバーバラ。そのまま研究室で朝を迎えた彼女は、自分の様子がどこかいつもと違うことに気づく。
 そんなダイアナとバーバラの前に現れたのが、石油投資ビジネス会社の経営者マックス(ペドロ・パスカル)だ。テレビ出演など派手なメディア戦術で知られるマックスだが、詐欺まがいの彼の事業はすでに破綻していた。出資者から返金を求められ、窮地におちいったマックスは“謎の石”をねらっていた。すでに彼はその石の「力[パワー]」を知っていたのである。
 博物館にて催されたパーティーで、言葉たくみにバーバラから石のありかを聞き出したマックスは、ついに盗み出すことに成功。彼に不審を抱くダイアナは、姿を消した彼を追う。と、彼女にひとりの男が声をかけてくる。それは、かつてスティーブがダイアナにかけた言葉だ。驚くダイアナの目に映ったのは、「かつてのまま」の最愛の人の姿に他ならなかった。
 こうして“再会”したダイアナとスティーブは、願いをかなえる石のパワーと文字通り「一体化」したマックスを追跡する。そのあいだにもマックスは、人々の「願いをかなえる」ことで代償として得た自己の利益と野心を増大させ続け、ついには世界を破滅寸前にまでおとしいれてしまうだろう。それをとめるには、石そのもの(つまりはマックス自身)を“破壊”するか、願いを取り消させるしかない。だが、それを阻止するために立ちはだかるのが、今やダイアナと同等の能力を誇示するバーバラだったのだ。
 前作のラストで、ダイアナはこう“独白[モノローグ]”する。「かつて私は世界を救おうとした。そしてどんな人間にも光と影が同居していると知った。人々の善と悪の戦いは続いている。でも愛があれば、その戦いに勝てる。だから私は戦い続ける」と。
 だが今回のダイアナは、「善と悪」以上にいっそう複雑な「欲望」との戦いに直面する(……だからこそ本作の時代設定は、高度資本主義がピークを迎えようとする「1984年」でなければならなかった)。それはマックスやバーバラとの対決だけを意味するのではなく、彼女自身もまた「スティーブをふたたび失いたくない」という想い(=欲望)と“葛藤”するのである。
 では、彼女はその「戦い」をどう戦うんだろうか? ーー実はこの映画の冒頭で、ダイアナがまだ幼い頃のあるエピソードが語られる。それは故郷の島で開催された女闘士[アマゾネス]の競技大会で、屈強な大人の女たちにまじって出場するまだ小娘のダイアナ。しかし彼女は順調に競技をクリアして、快調にトップを走っている。が、途中で落馬してしまい、もはや棄権かというところでダイアナは、近道をみつけて逃げた馬に追いつく。そして見事に優勝かというゴール直前、叔母で教育係のアンティオペ将軍(ロビン・ライト)に馬から引きずり降ろされるのだ。
 抗議するダイアナに、アンティオペは勝利することだけではなく「真実と向きあう」ことの大切さを説く。それを達成できた者こそが、真に称えられる勇者なのだと。
 ……実はずっと“負け犬”の人生をおくり、ひとり息子だけが生きがいのマックス。そしてバーバラも、ホームレスの老人に親しく声をかける不器用だがやさしい人間だった。偽りの“力[パワー]”を得て自分を見失ったそんな彼らに、ふたたび「真実」へと目を向けさせること。その前にダイアナ自身が、最愛のスティーブとふたたび出会えた幸福を“断念”することこそ「真実と向きあう」ことだと受け入れなければならない。その葛藤の果ての決断(……そして、それをダイアナに促したスティーブの“男気”!)をへて、彼女はついに真の「勇者[ヒーロー]」として走り出し、ついには文字通り“空を飛ぶ”のである。このダイアナの「疾走」こそ本作のハイライトであり、最も感動的なシーンに違いないだろう。
 そしてぼくという観客は、前作に引き続き「ヒーロー」としてのさらなる成長物語を目撃したことの感銘に心からの喝采を贈りたいと思う。と同時に、特に映画の前半のショッピングモール場面でワンダーウーマン姿のダイアナが、強盗グループを一網打尽にする活躍を見ながらそこにリチャード・ドナー監督の『スーパーマン』を想起せずにはいられなかった。さらに、あのドナー作品でスーパーマンは地球の自転を逆回転させて時間を過去へと「巻き戻す」のだが、それと“ほとんど「同じ」”展開をぼくたちはこの『ワンダーウーマン1984』で目撃することになるのである……! 
 ややもすれば超人的なパワーと、スーパーヒーローであることの自らの「存在理由」を“懐疑”したり、あるいはヒーローのアンチテーゼとしての「悪」を“哲学”したりする昨今の『スーパーマン』や『バットマン』シリーズ。だがパティ・ジェンキンス監督は、(「DCユニバース」という一連の“物語世界[サーガ]”に位置づけられながら)そういった方向性にハッキリと背を向けている。そして、「愛と信念」を疑うことのない者こそが真のスーパーヒーローなのだと高らかに“宣言”するのだ。
 そのとき、同じくリチャード・ドナー監督の『スーパーマン』をこよなく愛する者のひとりとして、どちらがより魅力的で「面白い」のかは言うまでもないだろう。

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