いつかどこかで見た映画 その168 『シャドウ・オブ・ヴァンパイア』(2000年・アメリカ=イギリス=ルクセンブルク)
“Shadow of the Vampire”
監督:E・エリアス・マーハイジ 脚本:スティーヴン・カッツ 製作:ニコラス・ケイジ、ノーマン・ゴライトリー、ジェフ・レヴァイン 撮影:ルー・ボーグ 出演:ジョン・マルコヴィッチ、ウィレム・デフォー、ケイリー・エルウィス、ウド・キアー、キャサリン・マコーミック、エディー・イザード、アデン・ジレット、ミュラー・ロナン・ヴィバート
(この文章は、2001年8月に書かれたものです。)
うーむ、『シャドウ・オブ・ヴァンパイア』ねぇ……。原題・邦題ともに“吸血鬼の影”という本作。このタイトルだけでホラー映画や小説のファンなら「?」といぶかしみ、何かウサンくさいぞと思うんじゃあるまいか。
なぜなら、吸血鬼に“影”がないのはこのジャンルにおける「お約束」であるからだ。それをわざわざタイトルにうたうなど、作り手側はよっぽど無知なのか、わざと狙ったがゆえの確信犯なのか。しかもこれは、『カリガリ博士』や『ドクトル・マブゼ』などと並んでドイツ表現主義映画の代表作といわれる古典的名作『吸血鬼ノスフェラトゥ』をめぐる──というか、ダシ(!)にした映画なのである。この『ノスフェラトゥ』、実はブラム・ストーカーのあまりにも有名な小説『吸血鬼ドラキュラ』の筋[プロット]をそっくりいただいたという、いわくつきなもの(……ストーカーから映画化権を得られず、ならばとドラキュラ伯爵を「オルロック伯爵」と名前だけ変えて製作したという)。吸血鬼は鏡に映らないし、影がないとは、まさにストーカーの小説が普及させたものだった。ならばなおのこと、“吸血鬼の影[シャドウ・オブ・ヴァンパイア]”とは何事ぞ。
だが、ここでいう「ヴァンパイア」とは『吸血鬼ノスフェラトゥ』という作品自体をさすのであり、「シャドウ」とは、あの名作の文字どおり“陰(かげ)”部分の謂であると思いいたるとき、ぼくたち観客はようやくこのタイトルの意味に、そしてこの作品の意図するところに気づかされるだろう。『シャドウ・オブ・ヴァンパイア』は『吸血鬼ノスフェラトゥ』の“陰画[ネガ]”であり、虚実ないまぜのまさしくポストモダンなメタフィクションをめざしたものだったのだと。
それにしても、まったくなんという設定! 『ノスフェラトゥ』で吸血鬼を演じたマックス・シュレックが、実はホンモノの吸血鬼だったなんてね! しかも監督のF・W・ムルナウが彼に約束した報酬は、なんと主演女優の血! その他、主要な登場人物のほとんどが『ノスフェラトゥ』にかかわった実在のスタッフ・キャストでありながら、彼らを麻薬中毒者だっただの、あげくは平気で殺したりするだのといった恐れを知らぬ傍若無人ぶり! と、感嘆符の「!」を連発しなければ収まりがつかない奇天烈さなのだ。パロディというより、もはやこれは“アナザーワールド・アナザーヒストリー”を描く「歴史改変もの」のひとつ、と言ったほうがいいだろうか。
この、“もし『吸血鬼ノスフェラトゥ』が本物の吸血鬼を起用して撮られた映画だったとしたら”という発想からはじまったこの映画。およそこんな内容だ。
1921年、ドイツの天才監督ムルナウが新作『ノスフェラトゥ』の撮影にはいる。ロケ地は、ドイツを離れたチェコの古城。そこで、吸血鬼オルロック伯爵役の俳優マックス・シュレックとはじめて対面したスタッフとキャストの面々は、彼のあまりの異様さに仰天する。撮影中を吸血鬼のメーキャップと衣裳のままで通すというシュレック。実は彼こそ本物の吸血鬼であり、「完璧」を求めるムルナウによって発見され、雇われたのだった。契約条件は、撮影終了までスタッフ・キャストを“毒牙”にかけないこと。そのかわり無事に映画が完成したら、報酬としてヒロインを演じる主演女優グレタ・シュレーダーの血を存分に吸ってよい……(ムルナウ、鬼畜かあんた!)
とまあ、以上が者が物語の導入部分。なぜか撮影スタッフ全員が科学者みたく白衣姿で、ゴーグルを着用しているムルナウ監督の撮影現場風景にはじまって(これは史実に基づくらしい)、異形のシュレックがはじめて姿を現すまでの展開はすこぶる快調だ。映画史上に名高い作品の“舞台裏もの[バックステージ]”的な面白さ、ミステリアスな「事件」への予感に満ちた雰囲気描写[アトモスフィア]の巧みさ。ムルナウがいかがわしいキャバレーに足を運び、娼婦を買うなどといった一見あらずもがなの場面も、本物の吸血鬼を相手にする撮影への不安や、女優の生命を犠牲にすることへの自責の念をまぎらわせるためだったのだと後にわかるなど、実に周到である。劇場用映画としてはこれが脚本デビュー作となるスティーヴン・カッツのシナリオは、単に意表を突いたアイデア勝負だけに終わらない技アリの見事さと言えるだろう。
さて、このシュレック、それまでカエルやネズミの血をすすってなんとか生きながらえてきたらしい。だものだから、久しぶりに人間の──しかも美女の生き血が味わえると有頂天。「生け贄」である女優グレタの写真をなでまわし、舌なめずりしつつ“演技(!)”にはげむ。だがそこは吸血鬼の性(さが)、手はじめにキャメラマンを手にかけ(というか、牙にかけ)、ムルナウを激怒させる。代わりのキャメラマンを探しにムルナウがドイツに戻っているあいだにも、次々と怪死をとげていくスタッフたち。そんななか、プロデューサーと脚本家がシュレックと酒を飲みながら、かれの見事な吸血鬼へのなりきりぶりに(あたりまえだ……)、彼こそ完璧なるスタニスラフスキー・システム(……とは、「俳優の内面的体験を通して人間生活の真実を表現しようとする」演技手法のひとつ。以上『日本語大辞典』より)の体現者だと感心する滑稽なひと幕をはさみつつ、撮影隊の一行は、とある島でのラストシーンの撮影へとどうにかこぎつける。
このあたりまでくると、本作はいよいよホラーというよりも笑える狂騒劇[ドタバタ]へと傾斜していく。シュレックはもはやハリウッドの大スター以上に横暴だし、彼を抑えきれないムルナウは麻薬におぼれるしまつ。自分の運命を知らない主演女優のグレタもまた、モルヒネ中毒で演技もろくにできない。すべてに八方ふさがりのなか、シュレックの正体をついに知ったスタッフたちとともに、ムルナウは一計を案じる。それは、ラストシーンの撮影に乗してシュレックを本当に葬り去ろうというものだ。
ちなみに『吸血鬼ノスフェラトゥ』のラストとは、こんな場面である。──街に災厄をもたらした吸血鬼オルロック伯爵を倒すため、美しき乙女ニーナはわが身を彼に与える。彼女を愛していた伯爵は朝が来たのも忘れて彼女の血を吸い続け、とうとう朝日を浴びて消滅してしまう。
ああ、この映画は『ノスフェラトゥ』の“偽の”ドキュメンタリー・ドラマなんだから、つまりはここでのシュレックも“そういう最期”を遂げてしまうってわけか。などと早合点されることのなきように。本作は、そういった予想を超えるある驚くべき展開をむかえつつ、大団円となる。ほとんど「ここまでやるか?」と、思わず絶句する凄絶さなのである。もちろんこればかりはここで明かすことができないので、ぜひ実際にご覧になって、口をあんぐりとさせていただきたい。
と、『シャドウ・オブ・ヴァンパイア』は、つまるところ伝説的な作品とその監督の、まさに“伝説”こそを茶化してみせた、ある意味で実に不埒きわまりないシロモノだ。そこにはムルナウ監督への敬意[リスペクト]というより、徹底してドライな“対象化への意思(?)”だけがある。それでいてこの映画が決して不快じゃないのは、前述のとおり単なる安っぽいパロディに堕さない〈芸〉があるからあろう──脚本に、演出に、なにより役者たちに! そう、本作における最大の“見せ場[スペクタクル]”こそ、ムルナウ役のジョン・マルコヴィッチと、シュレックに扮したウィレム・デフォーによる丁々発止の競演ぶりに他ならない。この映画のなかの両者は、それぞれが「演技すること」の悦楽にたっぷりとひたっているかのようだ。かたや創作のためなら悪魔に良心をも手渡す「天才映画監督」を、いっぽうは醜悪な容貌に邪悪さと滑稽さを漂わせた意外にもチャーミング(!)な「悪魔」を、それこそ乗りに乗って演じているのである。その熱気と充実感は、画面からもじゅうぶんすぎるほど伝わってくる。まったく、こんなにも精彩を放つウィレム・デフォーを映画で見るのは久しくなかったし、ここまで嬉々として演技に淫しているマルコヴィッチを「アメリカ映画」で見るなどかつてなかったんじゃないだろうか。
製作者のひとりニコラス・ケイジ(そう、あのニコラス・ケイジだ)は、《この映画で僕らが達成したものを、誇りに思っている。(中略)『シャドウ・オブ・ヴァンパイア』は独創だ。演技は傑出しているし(デフォーのシュレックほど目を奪う吸血鬼は初めてだ)、一切妥協がない》とコメントしている(引用は映画パンフより)。ここでの「僕ら」とは、もちろんケイジ自身と、マルコヴィッチ、デフォーのことに相違あるまい。ニコラス・ケイジは、同じ役者仲間として尊敬するふたりのために、「一切妥協がない」演技を披露できる“場”としてこの映画を製作した。本作が映画の撮影現場を背景としていながら「舞台劇」的な趣が強いのは、あくまで「役者中心」の作品であることからの“必然”だったのだ。だからこそ、それまで前衛的な舞台演出を手がけてきたという新鋭E・エリアス・マーハイジ(さらに彼は、自主製作で『BEGOTTEN』という摩訶不思議な“恐怖映画”を撮っている)を起用し、そもそもスティーヴン・カッツの脚本自体が演劇的な色合いの濃い、明らかにゲーテの『ファウスト』を意識したものではないか。
それだけに、彼らの快(怪?)演は文句なしに素晴らしい。映画、ひいては〈芸術〉の創造における人間の「業」の深さという主題もかすむほどの、劇の展開とともにヒートアップしていくその演技合戦に、ニコラス・ケイジも驚喜したことだろう。もっとも、それが「役者による役者のための映画」という自己完結的というか“内輪受け”めいた印象をあたえることになったのも、また事実なのだけれども。
最後に余談をひとつ。『吸血鬼ノスフェラトゥ』は、1979年にヴェルナー・ヘルツォーク監督によって再映画化されている。そこでノスフェラトゥことオルロック伯爵を演じたのは、ヘルツォーク映画の“顔”であるクラウス・キンスキー。彼を破滅にみちびくヒロインがイザベル・アジャーニという豪華キャストによる大作だった。
だのに意外と見ている人間が少なく、ヘルツォーク=キンスキー作品としては語られることが多くないとしたら(大阪では今年(2001年)3月にシネ・ヌーヴォで催されたヘルツォークの特集上映でも、この映画はラインナップされていなかった)、それは単にこの映画が“駄作”だったからだ。 ただ、もしヘルツォークがイザベル・アジャーニではなくナターシャ・キンスキーをキャスティングしていたとしたら……とは、ぼくが長年にわたって抱き続けてきた妄執[オブセッション]である。──もし、クラウスとの父娘共演を本作で果たしていたなら、それはかつてない背徳性と危険なオーラを作品にもたらしたのではあるまいか、と。
まあ、そのあたりがヘルツォークの「限界」と言ってしまえばそれまでなんだが(なにをエラソーに! とはごもっとも……)、それにしても惜しい。といまだ未練たらたらな観客は、やはり倒錯しているんだろう。
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