いつかどこかで見た映画 ショートver. 『ウォーターワールド』(1995年・アメリカ)
“Waterworld”
監督:ケヴィン・レイノルズ 製作・出演:ケヴィン・コスナー 脚本:ピーター・レイダー、デイヴィッド・トゥーヒー 撮影:ディーン・セムラー 出演:デニス・ホッパー、ジーン・トリプルホーン、ティナ・マジョリーノ、マイケル・ジェッター、ジェラード・ マーフィー、R・D・コール、キム・コーツ、ジョン・フレック、ロバート・ジョイ、ジャック・ブラック、ジョン・トールス=ベイ、 ジットー・カザン、ゼイクス・モカエ、サブ・シモノ
ときとして、時代錯誤は美しい。ある種の映画を見たとき、ぼくはいつもそんな思いにとらわれる。たとえばクリント・イーストウッド監督の、我が道をゆくというかもはや〈孤高〉の作品たち(……最近作の『マディソン郡の橋』にしても、あのメリル・ストリープのヒロインをほとんど「アンナ・マニャーニ」のように撮りえただけでもう“偉大”だ)や、マイケル・チミノ、ジョン・ミリアスといった監督たちのどこか悲壮感すらただよう〈反時代性〉を、ぼくは心から愛する。そして、『スターゲイト』などの大時代[アナクロ]なSF冒険映画を撮り続けるローランド・エメリッヒに、これからもエールをおくり続けたいと思う。MTVさながらの映像[イメージ]の洪水とスピード感で観客の快感原則を刺激するだけの作品、時代の風潮やそのときどきの価値観に媚びまくった小賢しい作品、そういった〈現代的〉なるものには背を向けた彼らの作品にこそ、映画本来の感動が、こう言ってよければ「映画の生命(いのち)」が脈打っているにちがいないからである。
ケヴィン・レイノルズもまた、ぼくにとってそんな〈反時代的〉な映画を撮り続ける“麗しきドン・キホーテ”のひとりだ。ただ、そこにはある留保がつけられるだろう。というのもこの監督、そのシンプルなストーリーと端正なヴィジュアルのいかにも正統派風の構築ぶりに比して、語り口そのものは奇妙なくらい“オブセッショナル”なところがある。だがそれを、いかにも現代的な軽さや「新しさ」だと受けとめられ、評価されているフシがあるかのようなのだ。
今なお掛け値なしの大傑作だと信じて疑わない『モアイの謎』にしても、では古典的な三角関係をめぐる純愛ドラマという枠組みをぶっ壊してまで、南海の孤島に現れた巨大な流氷のエピソードを強引にもってくる必要性がどこにあったのか(確かに“画”としてのスペクタクル性はあったとしても、だ)。
あるいは『ロビン・フッド』にしても、アラン・リックマン扮する冷酷かつ狡猾な悪代官を後半いきなり「ギャグ(!)」の担い手にしてしまい、観客をあ然とさせた意図はなんだったのか(……少なくともぼくは、その豹変ぶりにギャフンとなった)。それまでのロマンあふれる歴史ドラマから一転して、ほとんどスラップスティック調のアクション・コメディと化した後半のクライマックス場面は実に楽しい。が、本当にそれはこの映画が最初から“意図したもの”だったんだろうか?
そういう不可解な自己破壊的「強迫的衝動[オブセッション]」を自作に持ち込まずにはいないレイノルズ監督のあやうさというか“アブナさ”は、前述のように現代的というか「ポストモダン」的なものとしてとらえ評価するもまた、じゅうぶん可能なのである。
が、今回『ウォーターワールド』を見て確信しましたね。ケヴィン・レイノルズはむしろそういう変な部分、アブナイところにこそ“本領”があったのである。しかもそれらは決してポストモダンなどといった〈現代的〉なものではなく、まったくこの監督自身の持ち味[パーソナリティ]もしくはオリジナリティなのだった。
前作『モアイの謎』でキャリアの“頂点”をきわめた後(……もちろんそれは、この映画が興行的批評的に成功したか否かとは関係なく、彼がついに「撮りたい映画を撮りたいように撮った」ということだ)、どうやらレイノルズは思いっきり“したい放題”を決め込んだのだろう。すでにご覧になられた方々ならご承知のとおり、一見するとこの映画は、いかにも主演と製作を兼ねたケヴィン・コスナー好みのエコロジカルなメッセージ性をたたえたSF冒険映画である。
地球の温暖化によって地上の大半は海に没し、わずかな人類が海上に建造された人工の島(というか、要塞)でほそぼそと生きのびている未来世界。そこで唯一残された伝説の陸地「ドライランド」の秘密をにぎる少女をめぐって、コスナー扮する流れ者の主人公は無法者一味と死闘を繰りひろげる。そうして彼らにとっての“約束の地”をめざすといった筋[プロット]そのものは、まさに西部劇のヴァリエーションといってよい。おそらくコスナーも、本作が『ダンス・ウィズ・ウルブズ』のSF版として完成するものと目論んでいたはずだ。
ところが監督のレイノルズは、この総製作費1億7500万ドルという空前の超大作を、まるでロジャー・コーマンの『ワイルド・エンジェル』に代表される、暴走族のバイカーたちが暴れまわるという1960年代に流行ったB・C級の“モーターサイクルもの”映画と同じノリで撮ってしまったのである! それが確信犯的なものでなければ、デニス・ホッパーを起用してわざわざ『続・地獄の天使』(これも典型的なB級バイク映画だ)でホッパーが演じたイカレた首領役を「再現」させるわけがない。
おまけにホッパーたちの一味はバイクならぬ“水上バイク”を乗りまわし、砦(=要塞)を襲うインディアンよろしく要塞めいた水上都市に攻め入るのだが、このあたりほとんど『マッドマックス2』そのまんま。そういえばこの『ウォーターワールド』の撮影監督は、『マッドマックス』シリーズを手がけてきたディーン・セムラーそのひとなのだった。そして、言うまでもなく『マッドマックス2』もまた西部劇テイストの近未来SFであり、“モーターサイクルもの”映画に他ならない。
さらにホッパーたち水上バイク一味の名称が「スモーカー」で、それは全員がヘヴィースモーカーだから(笑)というセンスなど、いっそ“痛快”ですらある。
莫大な予算を使って“ド”B級映画をつくるという試みは、たとえばジェームズ・キャメロンが『トゥルーライズ』でやろうとして果たせなかったものだ(……『殺人魚フライング・キラー』や『ターミネーター』といった映画から出発しながら、キャメロンは「B級映画」的な感覚を徹底的に持ち合わせていない)。それを大胆不敵にもあっさりとやってのけたケヴィン・レイノルズは、やはり途方もない野郎[カントク]である。
(1995年8月記)
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