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いつかどこかで見た映画 その159 『焼け跡クロニクル』(2022年・日本)

監督・撮影・編集:原まおり 監督・撮影・編集・音楽:原將人 製作:原正孝(原將人) プロデューサー:有吉 司 出演:原將人、原まみや、原かりん、原 鼓卯、原まおり、佐藤眞理子 

 火事というのは、とにかく怖ろしい。それは命にかかわるし、助かったとしても、やけどを負ったり煙を吸い込んで肺を痛めたりするかもしれない。衣食を含めた“生活の場”を一瞬にして失うことになるし、もし延焼など近隣に被害をもたらしたとなれば、その責任問題や補償など背負い込むことになるのだから。
 だから『焼け跡クロニクル』という映画のなかで、自宅が火事に見舞われた一家の妻が、やけどを負って病院にいる夫との電話でまず「火災保険」のことを何度も確認する姿は、実に切実なものとして映る。そう、災害でとりあえず家族が助かったら、次に考えることは“明日からの生活”だろう。そのためのよすがというか保証するものとしてあるのが、この「保険」というやつなのだ。
 その日、彼女は火事の報を受けて、すぐに仕事先からタクシーで自宅へと急ぐ。まだ消火活動中のあわただしい現場で、消防隊員から状況説明を受け、3人の子供たちの無事を確認して、ひとまず家族は地元の公民館に身を寄せることになる。生命に別状はないものの、やけどを負い病院に運ばれた夫の安否を気遣いながらも、「ミイラ男みたいだった」という大学生の長男の誇張的表現にややオーバー(?)に驚いてみせる彼女。さらに髪の毛も焦げていたと聞かされ、「ハゲた?」と訊く。
 思わず笑ってしまうやりとりだが、何より彼女の、子供たちの前で明るくふるまうその母親としての「強さ」に感動させられる(長男はともかく、双子の姉妹はまだ5歳なのだ)。そうして翌日、ようやく連絡がとれた夫との電話のなかで、火災保険のことを何度も確認するのである。
 しかしそんな彼女の気丈さとともに、あらためて観客はもうひとつの“事実”に思いいたるのだ。そう、ぼくたちがここまで見てきた映像ーー自宅の火事現場から公民館での家族の避難生活までの、そのすべてが当事者であるこの女性によって撮られたものであることに。
 彼女は、自分たちの家が火事に罹災するという過酷な現実に直面しながらも、その「現実」そのものにカメラを向け続けた。妻そして母親として家族や火災保険の心配をするいっぽうで、自宅周辺の騒然とする光景を、消防隊員とのやりとりを、焼けだされた後の公民館での子供たちを、病院から戻ったやけどの跡も痛々しい夫を等々、そういった火事直後からの日々をスマートフォンによってとにかく撮影し続けたのである。
 こうしてその映像は、彼女の一家を突然おそった災難の「記録=記憶」であると同時に、ひとりの映画作家が誕生するまでの「記録=記念」となったのだ。
 女性の名前は、原まおり。夫である映画監督の原將人は、妻であるまおりさんが《スマホで現場の模様を撮っていると聞き、これは本当に救われた思いがした》という(引用は作品HP内の監督声明文より。以下同)。火事の第一発見者である原監督は、子供たちを家の外に連れ出したあとで、しかし《今編集中の作品を消滅させてしまっていいのかという強い思いが込み上げ、(中略)私は再び煙の充満する家の中に飛び込んでいった》。それで新作データの入ったパソコンとハードディスクだけはなんとか持ち出したものの、自身は顔や首筋、腕にやけどを負って、病院に緊急搬送されてしまう。
《その日は、軟膏を塗られ、包帯にグルグル巻きにされ、酸素ボンベを口にあてがって一晩を過ごした。ああ、ポケットのスマホで撮っておけばよかった。子供たちには直接火を見せないでよかった。いつか映画で見た焼け野にハモニカが流れる映像。やはりスマホで撮っておくべきだった……妄想は真夜中の緊急病院を駆け巡り、とてもとても長い夜を過ごすことになった。》ーーだが、その「撮っておけばよかった」「撮っておくべきだった」と悔やんでも悔やみきれない映像を、妻のまおりさんが撮っていたのである。
 その後も彼女は10日間にわたって、避難先での生活や子供たちの世話に追われながら、そんな自分たち家族にカメラを向け続ける。そこには火事の当日、避難所で長男や双子の姉妹たちと手を重ねて、「何があってもがんばるよ。オーッ!」と声をあげるひと幕がある。火事の翌日にはもう退院させられた原監督(その年の夏は猛暑が続き、熱中症の患者で病院のベッドの空きがなかったからだというのだが……)の、包帯だらけの顔や腕も痛々しい病院の寝間着姿で火事の現場検証に立ち会う様子がある。実家から駆けつけた、まおりさんの母親がいる。そして新たに買った炊飯器でご飯を炊き、みんなでラジオ体操をするという少しずつ平穏な生活をとり戻していく家族の姿がある。
 そういった「非日常における日常」の風景のなか、母の向けるカメラを意識することなく、避難所での暮らしを楽しんでいるかのような無邪気にすごす双子の姉妹。そしてこちらはカメラ(=母)の眼を少しばかり迷惑そうにしながら、それでも妹たちの面倒をみたり父親のやけど跡に薬を塗ったりしてくれる長男の、こんな状況下にあって彼なりにマイペースをつらぬこうとする健気でたのもしい存在感といった、子供たちの映像がほほえましくも感動的だ。それぞれに「非日常」的な現実を受けとめつつも自分たちなりに生きていこうとする、その姿こそが“希望”そのものなのだなと、見ているわれわれにもそう思えてくるのである。
 ……2018年7月、京都西陣の原將人監督一家が住む古い一軒家を襲った火事。『焼け跡クロニクル』は、おそらく漏電による出火だろうとされたその災難によって、文字どおり“焼けだされた”家族の映像による「記録」としてある。
 その映像を撮ったまおりさんーーいや、本作は原將人監督と彼女との共同監督作なのだから、ここから「原まおり監督」と明記しようーーは、家族にカメラを向けたことをこう振りかえる。《それは、現実をとらえて撮影し、記録することで、被災してしまった事実と向き合いたかったからです。(中略)これから長い人生を生きていく子供達のためにも、どうしても負けたくありませんでした。現実をしっかり受け止めることが、その先の困難を乗り越えるためのパワーになる。そう信じて、カメラを回しました》。
 そしてその「記録」は、家族が火事という災難を乗り越えた「記憶」として残るものでなければならない……。そんな強い“想い”こそが、そこに家族の極私的な「記録」[ドキュメント]であることを超えて見る者の心を揺さぶらずにはいない、エモーショナルな〈作品〉[ドキュメンタリー]としての強度と普遍性をもたらしたのではあるまいか。
 いっぽうでぼくたちは、そんな原まおり監督にどうしても『20世紀ノスタルジア』のヒロインを重ね合わせてしまう。あの映画もまた、ひとりの女性の「撮る」という行為によってもたらされた“救済”を描くものであったからだ。
 そこで広末涼子が演じる高校生の女の子は、ニューヨークからの転校生である男の子と出会う。彼は「宇宙人」のチュンセと名のり、地球の調査のため様々な風景をヴィデオカメラで撮っているという。女の子もまた「宇宙人」のポウセとなって、彼といっしょにヴィデオカメラを手にする。もっとも彼女にとっての「撮る」行為は、男の子への〈愛〉ゆえにほかならない。
 だが男の子は、調査の結果「この地球はまもなく滅亡する」と結論づける。それを「星」に報告するため姿を消した男の子に対して、女の子は、「それでも地球は、私たちは滅びたりしない」ことを伝えるために、あらためて自然を、街を、そこに生きる猫や花や身近な人々を、自分たちの作品のラストシーンにするべくカメラで撮り続けるのだ。そのことが、「地球の滅亡」と、男の子への〈愛〉を“救う”と信じて。
 そして最後、女の子と男の子のあいだに双子の赤ちゃんが生まれたことを「星」に報告するふたり。そこに「2体の人形」を映しだして、映画は終わる。
 実はこの『焼け跡クロニクル』でも、やはり「2体の人形」が登場する。それは双子の姉妹が生まれたときに、まおり監督の父親が贈ってくれた日本人形なのだが、全焼した家のなかでこの人形たちだけはほぼ無傷で残っていたのだ。
 ……この、ある意味「奇跡的」な場面で、『焼け跡クロニクル』という作品がここでもまた『20世紀ノスタルジア』を“反復”していることに、ぼくという観客は思わず息をのむ。もはやこれは、広末涼子主演によるあの劇映画[フィクション]のリメイク、あるいは「記録映画[ドキュメンタリー]ヴァージョン」というべきものではないか、と。
 そう、本物の「宇宙人」にほかならない原將人は、自分が撮った映画のとおり「地球人」の女性である原まおりと出会って、長男を、さらに双子の「星の子」を授かる(……ポウセとチュンセとは、宮沢賢治の童話に登場する「双子の星」たちの名前なのだった)。こうして家族となった「宇宙人」たちは、旅を続けながらこの地上の様々な風景や日々の営みをカメラにおさめ、そこから『MI・TA・RI』や『双子暦記・私小説』などの作品が生まれた。だから火事という災難に直面し、「宇宙人」は大やけどを負いながら、それを妻がカメラで「撮る」のはこの家族にとって“必然”だったのである(……そしてもちろん、ここでいう「宇宙人」とは「映画作家」と同義に他ならない)。
 ともあれ、このようにして原將人は、妻によって撮られた映像に「救われ」、賢治の双子の星たちがさそりや大烏(おおがらす)の傷を治したように、双子の娘たちの天使的存在に「癒され」、この家族をどうにか地上につなぎとめているかのような長男の手を借りて、少しずつ日常を「とり戻す」。『20世紀ノスタルジア』で、地球(=日常)が滅びることなく男の子も「救われた」ように、彼もまた救われたのだ。
 そういえばこの映画は、原まおり監督によるこんなナレーションではじまる。「残骸になったとしても、フィルムは映画作家としての原(將人)の肉体の一部なのだ」。……残骸になったフィルム、それは、家の焼け跡から掘り出されたものだ。その映像が作品のなかで、ときおり挿入[インサート]される。幼い長男の姿が映っているそれは、熱で溶けたり変色している。
 だが映画が進むにつれて、その8ミリフィルムの映像は少しずつ色を、動きをとり戻していくかのようなのだ。それとともに、あたかも彼自身がそのフィルムそのものであるかのような(「全身映画作家」!)大やけどで皮膚が焼けただれた原將人監督もまた、“快復”していく。そうして最後に映しだされるのは、やはり8ミリフィルムによる息をのむほど「美しい」この地上の風景なのである。
 原將人監督の映画は、これまでも8ミリ、16ミリ、ヴィデオ、デジタルとさまざまな映像メディアを往還しながら映画を撮ってきた。それは、作品を創造(=完成)するというより“生成する”というにふさわしい、常に未来に開かれた「未完成」ゆえのみずみずしさを感じさせるものだった。原まおりという共同監督を得た『焼け跡クロニクル』は、その新たな、そして最も美しく“生成”された精華なのである。

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