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いつかどこかで見た映画 その137 『乙女のレシピ』(2014年・日本)

監督:三原光尋 脚本:小森まき 撮影:吉田剛毅 音楽:遠藤浩二 出演:金澤美穂、城戸愛莉、秋月三佳、渡辺恵伶奈、優希美青、布袋涼太、齋藤絵美、齋賀正和、朝倉亮子、三浦友加、赤間麻里子、徳井優

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 かなり以前だが、朝日新聞で大阪芸大出身の映画監督をめぐる記事が掲載されたことがあった。調べてみると、それは2008年7月3日付の夕刊で、見出しは《映画に「ゲイダイ」旋風 大阪芸大出身監督が台頭》というもの。今でも朝日新聞のデジタルサイトで読むことができる。(http://www.asahi.com/showbiz/movie/TKY200807030202.html)
 その冒頭部分を引いてみると、《映画界に「ゲイダイ」旋風が吹き荒れている。橋口亮輔に山下敦広、熊切和嘉……。オリジナリティーあふれる作風で知られる彼らは、いずれも大阪芸術大で学んだ経験を持つ。メジャー作品とは一線を画し、映画祭などで高い評価を受ける「ゲイダイ」の監督たち。先輩の活躍に刺激されてか、若手の台頭も著しい。》続けて橋口監督の『ぐるりのこと。』や山下監督の活躍ぶりを取りあげ、本田隆一や石井裕也らを今後の注目すべき才能として紹介。そして、こうした大阪芸大から数多くの新人監督が輩出する環境を整えたのは、映画監督の中島貞夫だという。
《教授に就任した87年以来、今春に退くまで「大学のスタジオ化」を唱えてきた。「カリキュラムに押し込めるのではなく、エロや暴力がテーマでも、長くかかっても、自由に作らせた」。卒業制作を「名刺代わり」と全力投球させた。「完成したら、海外を含めて映画祭のコンペに出すよう指導しました」》。そうした方針が、若い映画監督の登場を後押ししたのだと。
 ……同じ大学から多くの才能が現れたということなら、たとえば黒沢清、周防正行、塩田明彦、青山真治、万田邦敏などというそうそうたる名前が並ぶ立教大学がまず思い浮かぶ。特に映像系の学科を設けていないはずの立教大で、なぜこのような現代日本映画界を担う監督たちが次々と育っていったのか? そこに同大学で映画ゼミを開講していた「蓮實重彦」の存在があったことは、彼ら監督たちが口をそろえて証言する通りだ。ーーかつての立教大で、黒沢清たちが蓮實氏による過激な「映画の見方」に接して映画に“覚醒”したように、大芸大での山下敦弘や石井裕也たちは、中島貞夫の徹底した実践主義(というより、むしろ“現場主義”)によって自らの道を拓いていった。そういった中島氏による教育こそを称揚する記事の主旨に、当時も今もまったく異論はない。さすが中島監督、これもまた日本映画界への見事な貢献ぶりじゃないかと、ぼくも心から敬意を表する次第だ。
 ……けれど、実を言うとぼくがこの何年も前の新聞記事のことをしつこくおぼえていたのは、そういうことじゃないんである。最初にこの記事を目にした時、ぼくは驚き、呆れ、悲しくなってしまった。なぜならそこには、同じ大阪芸大出身の映画監督である「三原光尋」という名前が、ついに一度も記されていなかったからだ!
 そこに、ぼくが監督本人のことを多少なりとも知っているという、個人的な心情がはたらいていることは認めよう。が、この記事が出た時点で三原監督は、すでに『ヒロイン』や『村の写真集』などの商業映画を発表しており、中谷美紀・藤竜也主演作『しあわせのかおり』の公開を迎えようとしている時期だったはずだ。いわば、山下監督や熊切監督らにとっても橋口亮輔と並ぶ先輩であり、現代の日本映画界における中堅監督として活躍する先達のひとりなのである。
 しかるに記事内でまったく“無視”されたのは、書き手の単なる無知ゆえのことか。あるいは、三原光尋が中島監督の薫陶を受ける前に卒業していたからか、とも考えてみたが、ならば、どうして庵野秀明(しかも中退!)の名前はあるのか? ……まあ、結局のところ三原監督の映画が《オリジナリティーあふれる作風》でもなく、《メジャー作品とは一線を画し、映画祭などで高い評価を受ける》わけでもないから、ということなんだろう(……ゆえに、この記事を書いた高橋昌宏という朝日新聞の記者氏は、三原監督の『風の王国』がグランプリを受賞した福岡アジア映画祭や、『村の写真集』がグランプリと主演男優賞をダブル受賞した上海国際映画祭などを、「映画祭」として認めていないということになる。いやはや、なんという素晴らしき見識ぶり!)。
 なるほど、確かに三原監督の作品は、山下敦弘ならその独特のオフビート感や、熊切監督なら“人間の〈業〉”への執拗なまなざしといったような「オリジナリティー」からほど遠いように見える。青春ものからコメディ、ホラーにいたるまで多彩な題材をこなしながら、そこに一貫した「作家性」を見出すことはむずかしい。いや、もっとやっかいなのは、三原監督の過剰な“サービス精神”こそが彼の作家的な「本質」だととられていることで、かえって作品そのものが見えにくくなっていることではあるまいか。
 ……繰り返そう、三原監督はこれまで青春映画をはじめ、コメディやホラーなど様々なジャンルの作品を撮ってきた。けれど、そのコメディにしろホラーにしろ、そこには“これはコメディなのだから、出来る限り笑いを盛り込まなければならない”だの、“ホラーであるからにはもっとどぎつく、扇情的な見せ場を設けなければならない”だのといった、作り手の「サーヴィス精神」ゆえの義務感(!)こそが透けて見えるのである(……もちろん、それもまた「商業映画[エンターテインメント]」への三原監督らしいオトシマエというか、彼の“誠実さ”の表れではあるのだとぼくは思うのだけれど)。そこから、時にコテコテとも称される「コメディ」や「ホラー」が創り出され、見る側は、むしろそれこそが三原監督の「らしさ」なのだとみなしてきた……
 だが、弱小野球部でバッテリーを組む男子高校生コンビを主人公にした自主映画時代の代表作『風の王国』や、『しあわせのかおり』などを見るにつけ、そういった(良くも悪くもの)「サーヴィス精神」とは無縁のところに三原監督の映画の真の魅力というか「本質[エッセンス]」があるのだと、ぼくは確信するものだ。ーーそう、ぼくという観客が三原作品に魅了されるもの、それは日本というよりも「アジア」へと開かれた“風景”であり、それが喚起する汎アジア的ともいうべき“郷愁”なのである。
 ……というようなことを、三原監督の2014年作『乙女のレシピ』を見終わって、ある感慨とともに考えていた次第。もっとも、見る前は不満がなかったわけじゃない。この1時間足らずの、しかも女子高校生たちが主人公という映画に対し、“おいおい、もういい加減「女子高生」や「青春映画」からも卒業すればいいのに”という失望があったことを認めよう。もはや『しあわせのかおり』という映画を撮ったのだから(……『村の写真集』の評価にはいささか留保をつけるぼくも、中谷美紀と藤竜也の名演にも支えられたあの作品は文句なしの秀作だったと今なお確信している)、いくら「地方創生」だか何だかの行政的かつ商業的要請があったとしても、すでにさんざん撮ってきた同じような「青春映画」を、もはやまた“再生産”しなくてもいいじゃないか、と。
 実際のところ『乙女のレシピ』は、『真夏のビタミン』や『栄養成分表示』、『あしたはきっと…』などといった過去の三原作品における、女子高生立ちを主人公にした一連の作品をただちに連想させる。脚本は別人(小森まき)となっているが、突然の「ミュージカル場面」を含め、ここにあるのは、これまでもさんざん披瀝してきた三原監督の「趣味[テイスト](!)」以外の何物でもないだろう。
 ーー山形県鶴岡市の高校で、料理コンテストの優勝と副賞のハワイ旅行をめざす4人の料理部員たち。明日に迫ったコンテストを前に、テーマである「炊き込みご飯」のレシピが給食のおばちゃんチームとかぶっていることを知ってしまう。しかも優勝しなければ廃部にすると校長先生から宣告され、ますます窮地に立たされる4人。さあ、彼女たちは、明日までに新たなレシピを考えることができるのか……?
 といったストーリーや、“らしい”といえばらしいギャグの数々(もっとも、突然のハワイ場面は脱力[トホホ]ものだが、時代劇のチャンバラ場面はなかなかの堂に入った演出ぶりなのだ、これが。そういったあたり、三原監督の確かな映画的素養を感じさせられはする)には微苦笑を誘われつつ、舞台となる庄内地方の山里風景が映し出される時、ぼくは思わずハッとしてしまう。そこにあるのは、単なる東北の「田舎」という表象を超えてある、まさしく「アジア」的な風景に他ならなかったからだ。
 そう、三原監督の映画は、その最良の部分において「アジア」的“風景”を現出させる。『風の王国』や『あしたはきっと…』における京都の山里も、『村の写真集』の四国の山村も、あるいは『しあわせのかおり』における金沢の河口の街並みも、それらは日本的という以上に中国や香港、とりわけ台湾映画のように見られ、撮られていたのではなかっただろうか。そして、候孝賢[ホウ・シャオシェン]監督の『恋恋風塵』や『童年往事』から『百年恋歌』にいたるまでの作品が、人々の人生をあたかも“風景”として描くように、三原作品もここぞという時に人々を“風景のなかの一点描”として映し出すのだ。その上で、たとえば楊徳昌[エドワード・ヤン]監督の『恋愛時代』や『カップルズ』が、悲劇的かつ喜劇的な騒動[トラブル]の果てにあれよあれよと(たとえどんなにほろ苦いものであれ、ともかく)ハッピーエンドを迎えたように、三原作品もまたドタバタというかコテコテな展開の果てに、(少しだけ感傷的にすぎ気恥ずかしくもあるけれど)爽やかなな幕切れが待っているのである。
 この三原光尋ヴァージョンの『桜の園』とも言うべき56分の小品は、まさしく“学芸会に毛の生えたような(!)”といった常套句こそがふさわしい。しかし、軽やかなワイプ処理で料理場面をリズミカルに描き出すあたりのテクニックは、たとえ“学芸会”であっても素直に感歎できないか。そして古い木造校舎の外観や、庄内の田園風景、とりわけラスト近くの自転車に乗った少女たちをとらえたカメラには、これこそが「映画」だという充実感がありはしなかっただろうか。ーーそこに“風景”がある時、三原作品は確かに「映画」を現出させる。いくら予算とスタッフを揃えても、ついにはワンカットたりとも「映画」ではないようなシロモノが横行する日本映画にあって、これは真に評価に値するものであるとぼくは本気で信じるものだ。
 ……三原監督、今度は本当に台湾で映画を撮らないかな。

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