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いつかどこかで見た映画 その61 『花と雨』(2019年・日本)

監督・脚本:土屋貴史 脚本:堀江貴大 出演:笠松将、大西礼芳、岡本智礼、中村織央、光根恭平、花沢将人、サンディー海、木村圭作、紗羅マリー、西原誠吾、飯田基祐、つみきみほ、松尾貴史、高岡蒼佑、MAX

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 この「ポリティカル・コレクトネス(政治的的な正しさ)」にうるさいご時世にあって、もはや「処女作」という表現もあまり目や耳にすることがなくなったようだ。どのジャンルであれ、昨今では「デビュー作」や「第1作」といった穏当な表現が選ばれ、いまだこの語彙に“固執”するのは年配者か、よほど旧弊な頑固者くらいではあるまいか(とは、ちと言いすぎかもだが……)。
 そもそも、作者が男性であっても「処女作」というのはなぜ? と、確かに疑問に思うところではあるだろう。これが船ではじめて大海原にくり出す「処女航海」や人類未到の地をさす「処女地」となれば、手つかずの世界や場所を“征服する”という、どこか「男性原理的」なニュアンスを含むものとしてわからなくもない(……この期におよんで「女を征服する」などとのたまうマッチョイズムというか反ポリコレ野郎なんぞ、それこそ絶滅危惧種だと思いますが)。が、文学やら映画やらの分野ではじめて世に問うた作品を「処女作」というのは、まあ、語源的にはいろいろ根拠やら意味があるんだろうけど、やっぱり今ひとつよくわからない。もしかして、これも“無垢で初々しい”ことに価値を見出すという、一種の「処女信仰」なんだろうか……。
 などと、例によっておまえは何が言いたいんだという声が聞こえてきそうだが、それというのも、ひさびさにガツンとくる「監督デビュー作品」と出会って、ああ、そういえば「処女作にはその作家のすべてがある」というけど、この映画はまさにそういった熱量[パッション]がみなぎっているじゃないか!……といたく感じ入ったからだ。ぼくたちが「処女作」に求めるのは、新鮮さであり、思いがけない刺激であり、何よりあらたな才能を見出す喜びであるとするなら、土屋貴史監督によるこの長編劇映画第1作『花と雨』には、そのすべてがある。少なくとも、ぼくという観客にはそう思えたのだった。
 本作の主人公は、幼少期をロンドンで過ごし、日本に戻ってからも周囲となじめないまま殺伐とした高校生活をおくる吉田(笠松将)。今日も自分を目のかたきにする不良どもとやりあった後、ヒップホップ好きの同級生(岡本智礼)に導かれてストリートラップと出会う。
 数年後、吉田はヒッピホップの世界に出会わせてくれたその元同級生とともにCDを出したものの、ラッパーとして鳴かず飛ばずの日々。ラップバトルでは高校のときの不良(花沢将人)を相手に敗れ、声をかけてきた音楽プロデューサー(西原誠吾)からもあっさり見はなされる。その焦りや苛立ちを吹っ切るかのように、吉田は“裏稼業[アルバイト]”であるアパートの一室での大麻の栽培とドラッグの密売に、ますますのめり込んでいく。
 家では両親(つみきみほ、飯田基祐)と距離をおきつつ、働きながらアメリカのMBA(経営修士)の取得をめざす姉(大西礼芳)にだけ心を開く彼だったが、もちろんドラッグディーラーという“アルバイト”だけは姉にも打ち明けられない。そして、弟のことを気にかけながら、日本をはなれて海外で仕事をしたいと望む姉もまた内なる葛藤を抱えているようだ。
 こうして音楽活動から遠ざかり、ますます“バイト”にはげむ吉田は、ドラッグの元締めである女(沙羅マリー)と組織には黙って、自分で外国人の密売仲間を手配しながら荒稼ぎする。だがその仲間が警察にパクられ、彼もまた逮捕されてしまう。さらに、追い打ちをかけるように吉田を襲う、姉との悲劇的な“別離”……。もはやすべてを失ってしまった彼は、あらためて自分のなかの「真実(ほんとう)の言葉[リリック]」をヒップホップのリズムに乗せようと決意するのだ。
 ……幼い頃に暮らしていたロンドンでは、白人の少年たちに「猿!」とののしられ、日本でも自分のいるべき“場所”を見つけられない帰国子女である主人公。そうしてやっと出会ったラップミュージックという「居場所」でも、なかなか芽が出ないばかりか、挫折と屈辱の連続でしかない。その鬱屈した心情を、不敵な面構えの裏側に繊細[ナイーブ]さをたたえた演技というか“たたずまい”で表現する、初主演の笠松将がまず素晴らしい。
 そして何より興味深いのは、この主人公の吉田が「ヒップホップ」と「ドラッグ」というアウトサイダーな世界にどっぷりとつかりながら、彼自身は(子どもの頃こそロンドンで「日本人」だからとイジメを受けたものの)、ここ日本において貧困とも差別とも無縁な、むしろ東京の住宅地の一軒家で暮らす中産階級の子息であるということだ。家にもどれば両親と言葉を交わすし、食事もいっしょにとる。「不良少年」にありがちな反抗や暴力的な態度を見せないのである。
 一方の親たちも、父親は「まあ、自由にやりなさい」と目も合わせずに言うだけだし、彼が拘置所から戻ったときに母親は「まあ、遅かったわね」と何事でもなかったかのように声をかける。……この「親子関係」の空虚さというか“からっぽさ”が、この映画のなかで最もリアルで「怖い」。主人公もその姉も、外の世界はもちろん家族のなかにも「居場所」がないことを、こうしてぼくたち観客は思い知らされるのだ。
 さらにヒップホップやドラッグといった「反社会的」なユース・カルチャーを描きながら、この映画は「性的」な要素を徹底的に回避している。主人公の吉田にしても、ラップとドラッグまみれな日々にあって、なぜかそこには「恋愛」がないーー「セックス」だけがほとんどまったく欠如しているのである。……1970年代の、たとえば村上龍の『限りなく透明に近いブルー』などで、そこに登場する若者たちはほとんど“三種の神器(!)”のように「ロック&ドラッグ&セックス」を享受するものだった。その退廃的[デカダン]な生きざまに対して、この、おそらく2000年代はじめの東京を生きる『花と雨』の主人公の、何と“禁欲的[ストイック]”なことか。
 だがそこから浮かびあがってくるのは、主人公の吉田の、徹底した“孤独”だろう。彼には、自らの愛や欲望をぶつける「他者」が存在しない。彼がかろうじて「世界」とつながっていられるのは、音楽と姉の存在だけだ(……だからこそ彼は、いつもヘッドホンで外界を“遮断”しているのだ)。しかし、「他者」に向かうことのない彼のラップが、その言葉[リリック]が聴く者に届くはずがない。それゆえ、この映画のなかで吉田の「歌声」は常に寸前でカットされる。彼の歌は映画の最後まで観客にほとんど聞こえることがないのである!
 そんな主人公が、深い喪失の果てに「自分にとって最も大事だったもの」を言葉にすることで、ついに「他者」と、世界と真に向かいあう。そのとき彼は、そして観客であるぼくたちもまた知るのだ。求めていたのは自分の「居場所」ではなく、この世界の「誰か」に届く自分の“言葉[リリック]”だったのだと。
 本作の原案となったのは、ラッパーのSEEDAが2006年に発表したアルバム『花と雨』に収録されたタイトル曲。製作総指揮と音楽プロデュースも兼任する彼にとって、“半自伝的”なこの曲は早逝した姉への想いをこめたものであるという。
 その映画化を託された土屋貴史は、だがこの長編劇映画デビュー作において、これを単なる「音楽映画」にしなかった。前述のとおりラッパーを主人公としながら、劇中で彼が最後まで歌いきる場面はないのだ。
 代わりに、編集のリズムやエッジの効いた色彩という映像=表現[ビジュアル=イメージ]において、この映画は見事に“歌っている”というべきだろう。それが「ヒップホップ」かどうかは、残念ながらぼくにわかるはずもない。が、そこにある野心や気負いや“勢い”だけは、その才気とともにしっかりと受けとめたつもりだ。ーーそう、「処女作」としてもうそれだけでじゅうぶんじゃないか。

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