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いつかどこかで見た映画 その152 『半分の月がのぼる空』(2010年・日本)

監督:深川栄洋 脚本:西田征史 原作:橋本紡 撮影:安田光 出演:池松壮亮、忽那汐里、大泉洋、濱田マリ、加藤康起、川村亮介、緑友利恵、森田直幸、螢雪次朗、中村久美、西岡德馬、梅沢昌代、三浦由衣、太賀、芦田愛菜

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 深川栄洋監督の映画は、とにかく「巧い」。映像テクニック的なことはもちろん、どんなストーリーであれいかにもこの監督らしい“体温”を感じさせるその情感の醸成ぶりにおいて、どの作品を見ても感心させられるばかりだ。はじめてその作品を見たのは商業映画デビュー作『狼少女』だったが、転校生の美少女をめぐる少年の初恋物語というありがちな設定のなかに、「昭和」という時代そのものが抱えていた貧困や差別などといった“陰影”を隠し味として、実に上質のジュブナイル作品に仕立てあげていたものだった。
 そして橋本紡の人気ライトノベルを映画化した『半分の月がのぼる空』を見ながら、今回もやはり「何て巧いんだ!」と感嘆し、文字通り舌を巻いた次第。もちろんそれはこれみよがしなテクニックを披露するとかじゃなく、あくまでも登場人物たちや物語を描くために選ばれた「最良の方法」としてのキャメラワークであり、編集であり、つまりは“語り口”の実践でありその見事な達成ぶりに対してだ。
 たとえば映画の冒頭、ひとけのない夜の商店街を、友人たちのバイクを追って自転車で疾走する主人公の姿が映し出される(……肝炎で入院中の彼はしばしば“無断外泊”して、どうやらその帰りらしい)。それをとらえた後方縦移動[トラックバック]の長回しによるカメラは、『セーラー服と機関銃』や『お引越し』などの相米慎二監督の作品にも同じような場面があったことを思い出す向きがあるかもしれない。
 けれど、相米作品の長回しが、描く(=物語る)べき「内容」を逸脱していく過激さ、あるいは過剰を体現する、もはやそれ自体が〈目的〉となっていたのに対し、本作の方は、“入院中だが「元気」を持て余している少年”という主人公のおかれた状況を描き出すための、あくまで〈手段〉としてある。 前述の「揺れるカメラ」と同様、ここでもキャメラワークは映画の描く(=物語る)べき「内容」に“奉仕”しているのである。
 あるいは、裕一がはじめてヒロインの里香と会う病院の屋上での場面。そこでは洗濯物である白いシーツが風に揺れはためき、カメラは、そのシーツの合間から見え隠れする彼女をとらえる。……運命的な出会いというにはあまりにもさり気ないこの場面は、だがこよなく美しい。何より映画ファンなら、“風にあおられた白いシーツ”が、「病院の屋上」という表徴[イメージ]以上に、たとえばアンジェイ・ワイダ監督の『灰とダイヤモンド』やベルナルド・ベルトルッチ監督の『暗殺のオペラ』をはじめ、数々の映画(……最近では、マイケル・マン監督の『パブリック・エネミーズ』のそれが印象深い)をいろどってきた特権的な光景[イメージ]であったことに思いいたるはずだ。
 けれど、ここでも本作はそれを、そんな映画史的、もしくは「記号論」的(!)な“突出したもの”としてではなく、裕一と里香のドラマをいろどるために用いるだろう。ーー映画の中盤、里香が裕一の病室にしのび込み、ベッドのシーツのなかで語り合う(……ほの淡い光につつまれたふたりの、何という美しく感動的な光景であることか)。 さらに終盤ちかく、“もうひとりの主人公”である医師・夏目が眼にする、自宅マンションのベランダで揺れるカーテン。彼はそれに導かれるようにして、亡き妻との想い出の場所へと向かい、映画はクライマックスを迎える。ここにいたって、ぼくたちはこの“風に揺れるシーツ”の変奏こそが、「裕一と里香(と夏目)の物語」を支える「意匠[テクニック]」としてあったことに気づかされるのだ。
 ほかにも、濱田マリ演じる看護師の、単なるコメディリリーフ的な役回りに終わらせない味のあるキャラクターや、 過去と現在が“交差”する一瞬でドラマの流れを変える作劇術の鮮やかさなど、この映画の“巧さ”を語るべき要素には事欠かない。そして、実は相当に奇をてらった「仕掛け」を施しながら、けれどそれすら自然に見せてしまうという、ある意味“熟練”した語り口をもった映画が、今年(2010年)34歳の「若手」監督によるものであること。このことに、ぼくたちはあらためて驚かされるのである。
 ……以前に取り上げた『時をかける少女』の谷口正晃監督は、助監督経験を豊富に積んでの(そのこと自体が、最近では珍しいことだ)44歳における長編初監督作品で、なるほど安定した語り口の、しかし実にういういしくみずみずしい「青春映画」を撮った。それは、何度も映像化がなされている人気小説を相手にしつつ、作り手がひそかに“自分に向けて”撮っているーーそういう意味において、まさに「処女作」と呼ぶにふさわしい映画なのだったと思う。
 だが、同じくベストセラー小説の映画化でありながら、この『半分の月がのぼる空』の深川栄洋監督は、あくまで「映画(を見る観客)」に向けて撮られている。そんなの当然じゃないか、とお思いだろうか。けれども、いったい誰に・どこに向けてこの映画は撮られているんだろうか……と思わずにはいられない作品や、何らかの“野心”を実現するための道具(=手段)としてしか「映画」のことを考えていない輩が横行する中において、その“誠実さ”はきわめて貴重なものではあるまいか。それは、本作もそのカテゴリーに入れられるだろう“難病”や“純愛”を扱った映画のブームについて訊かれ、深川監督が答えた次のようなことばからも伺えるに違いない。
《「僕は好きじゃない」という気持ちがあると同時に、「いい映画」はそういう照れや偏見を超えられる」とも思っています。映画は観客の心に届いてやっと成立する作品なので、これからもお客さんが求めているなら、いい映画を目指して頑張ろうと思っています。ただ、映画を泣くための“装置”としか考えていない映画が増えていて、そういう不誠実な裏切りをしていると、お客さんを映画から遠ざける要因になってしまうでしょう。》(映画パンフの監督インタビューより)
 すでに長編劇映画を何本も手がけ、『60歳のラブレター』のようなメジャー作品も成功させているとはいえ、この「プロ意識」は、やはりたいしたものだと素直に思う。しかもこの監督には、すでに述べた通りそれを口にし得るだけの“才能[テクニック]”をいかんなく発揮しているのだから。
 ……と、ここまで書いて、今さらながら本作の内容にほとんどふれていないことに気がついた。とはいえ、“ある理由”があってどうにもストーリー展開について語る=書くのがむずかしい。
 でも、裕一と里香(を演じる池松壮亮と忽那汐里の、素晴らしさ! 特に、ふたりが宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』におけるジョバンニとカムパネルラの会話を口にしながら“想い”を交わす場面に、思わず心がふるえた……)の、まさに「青春映画」そのものといった物語と平行して描かれる、大泉洋扮する医師・夏目の「物語」に、感銘をうけたことだけは、やはり記して起きたい。それは、パウル・ツェランの詩の次のような一節を想い起こさせたからだ。

《彼女を想う彼の愛ははなはだしく大きかったため、その愛は彼の柩を打ち破ることもできるほどだった。ーー彼女がこの柩の上に置いた一輪の花がそれほど重くなかったら》(「逆光」、飯吉光夫訳『パウル・ツェラン詩論集』より)
 
……この映画において、「柩」に入っているのは亡き妻というより、夏目自身だった。まだ愛する女性が生きていた過去に、彼はとらわれたままでいる。その時「死んでいる」のは、彼の方だったのである。
 そして映画は、彼の妻が置いた「一輪の花」によって「柩(=過去)」を封印し、ようやく「現在」を生きはじめようとする姿が描かれる。いかにも、この手の物語にありがちな展開? なるほど、そうかもしれない、愛する者の死と、それを受け入れて再生する者たちの癒しや救済のドラマなど、確かにありふれている。
 しかし、過去が美しければ美しいほど、現在が色あせ耐えがたいものであるのに、それでもわれわれは生きていかなければならない。なぜなら、それこそが自分の愛する者、大切なものたちからの「命令」であり、残された(ということは、生き残った)者の果たすべき“責任”だからだという〈倫理〉を説く物語は、本当に少ない(「泣くための“装置”としか考えていない映画」……)。 
 深川監督がいう誠実で「いい映画」とは、そういった次元における作品のことだろう。そして本作は、まちがいなくそういった映画の1本なのである。

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