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いつかどこかで見た映画 その85 『未来よ こんにちは』(2016年・フランス=ドイツ)

“L'Avenir”

監督:ミア・ハンセン=ラヴ 脚本:ミア・ハンセン=ラヴ、サラ・ル・ピカール、ソラル・フォルト、 クレマンティーヌ・シャフェール 撮影:ドゥニ・ルノワール 出演:イザベル・ユペール、アンドレ・マルコン、ローマン・コリンカ、エディット・スコブ、サラ・ル・ピカール、ソラル・フォルト、エリーズ・ロモー、リオネル・ドレー、リナ・ベンゼルティ

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 昨年(2016年)から今年(17年)にかけて、世界各地の映画祭や映画賞におけるイザベル・ユペールの存在感はすごいものがあった。『未来よ こんにちは』と、ポール・ヴァーホーヴェン監督がフランスで撮った『エル』という2本の主演作によって、全米映画批評家協会賞をはじめ、ニューヨークやロサンゼルス、ロンドンなどの各批評家協会賞で主演女優賞を獲得。さらにフランスのセザール賞や、アメリカのゴールデングローブ賞、そしてアカデミー賞の主演女優賞にもノミネートされるなど、その名前を目にしない賞レースはないといっても過言じゃなかったのである。1972年のデビュー以来、今や名実ともにフランス映画を代表する大女優となった彼女だが、ここにきてさらなるキャリアの絶頂期を迎えたかのようだ。
 それまでも『夕なぎ』や『バルスーズ』などで、わき役だが印象的な演技を見せていたイザベル・ユペールが、日本で本格的に注目されたのはアメリカに招かれて出演した『天国の門』からだろう(……その前に出演していた『ブロンテ姉妹』もゴダールの『勝手に逃げろ/人生』も、日本での公開はずっと後になってからだった)。マイケル・チミノ監督による超大作であり、周知のように批評的・興行的な惨敗によって「呪われた映画」となった、けれど忘れがたい魅力に充ち満ちたあの作品で、チミノ自身によって抜擢されたユペールは、ふたりの男たちから愛される娼館の女将というヒロインを堂々と演じきっていたものだ。ーーまだ頬がふっくらとして、若々しさが残る顔だち(と、あの肢体!)。しかしその独特の、不敵なまでに醒めているというか、あらゆる運命を見通すのじゃなくどこか“見くだす”ようなまなざしは、すでにこの女優ならではのものだった。
 そしてそれは、クロード・シャブロル監督の傑作『主婦マリーがしたこと』や、ミヒャエル・ハネケ監督のカンヌ映画祭グランプリ作『ピアニスト』あたりになるともはや“凄み”すらおびてくるだろう。たとえば、もうひとりの名女優ジャンヌ・モローもそういった「運命(論)的」なまなざしの持ち主だった。が、モローの場合、そこにはむしろ人間的な弱さというか“諦観”こそがにじんでいたように思う。ユペールのような虚無的で絶望すらも見くだすような“凄惨さ”とは、どこまでも無縁だったはずだ。 
 そんなイザベル・ユペールの「まなざし」は、もちろんこの最新作『未来よ こんにちは』でも健在だ。ただ、ここでのそれは、もはや「運命を見くだす」ようなものというよりこれまでにない感情の喜怒哀楽にあふれ、どこか微苦笑とともに「運命をまなざす」かのようなのである。そう、ぼくたちはこの最新作であらたな「イザベル・ユペール」を見出すことになるのだ。
 ここでユペールが演じるのは、パリの高校[リセ]で哲学を教えている教師ナタリー。同じく哲学を教えている夫のハインツ(アンドレ・マルコン)とは結婚25年目をむかえ、今は独立した長男と長女がいる。教鞭をとる学校では若者の失業問題をめぐって学生たちのストライキがおこなわれている。けれど、彼らに非難されながらも断固として授業を続ける彼女の信念は、「自分の頭で考えること」ができる人間を育てること。だから、そんな彼女の授業で哲学の面白さを知り、今ではナタリーの監修で哲学の教科書を出すまでになったファビアン(ロマン・コリンカ)は、自慢の「特別な教え子」だ。
 もっとも、すべてが順風満帆かに見えるナタリーだが、心配のタネはアパルトマンでひとり暮らす母イヴェット(エディット・スコブ)の存在。早朝に電話で身体の不調を訴えて助けを求めたり、何度も自殺騒ぎを起こすなどでナタリーを悩ませる。さらにある日、夫のハインツが「好きな女性がいるんだ」とナタリーに告げ、家を出てしまう!
 突然の終わりをむかえた、夫との平穏な生活。留守の間に自分の書物を運び出し、見つからなかった本(ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』)を探しておいてくれと書き置きを残す夫の身勝手さに腹を立て、彼が飾った花をゴミ箱に投げすてる(……もっとも、その直後に花を入れた袋だけ、もったいないからとあらためてゴミ箱から拾いだすのが笑える)。そして、あれだけ嫌がっていた介護施設にあっさりと入居した母親の「老い」に胸を痛め、猫アレルギーのくせに母が飼っていた猫のパンドラを連れ帰ることになったナタリー。50代後半になっておひとり様となった彼女は、あらたな「未来[ラヴニール]」(とは、本作のフランス語原題)へと踏み出すことになるのだ。
 とはいえ、その後の人生もとても順調とは言えない。ファビアンは教師を辞めて、田舎で仲間と共同生活しながら本の執筆と政治活動をおくるという。彼女自身も、著書の売れ行きがよくないことで出版社から契約を切られる。そして、突然の母の訃報……
 もはや踏んだりけったりなナタリーだが、それでも、ときには毒づいたり涙ぐんだりもするけれど、生徒を相手に哲学の授業を続け、映画館で見知らぬ男に言い寄られても毅然として相手にせず、ファビアンのもとを訪ねてフレンチ・アルプスの美しい自然を謳歌し、はじめてマリファナを吸ってみたりもする。50歳代も半ばをすぎてなお、「現在(いま)」よりも「未来(あした)」こそを生きようとするのだ。というか、そんな「意思」こそが、ナタリーを演じるイザベル・ユペールのまなざしから伝わってくるのである。
 こうして映画は、若い愛人をつくって出て行った夫との愁嘆場や、優秀でハンサムな元教え子との恋愛関係などといった、観客の予想(……期待?)する展開をきっぱりと裏切りつつ、哲学、特に18世紀フランスの代表的な啓蒙思想家で哲学者ジャン=ジャック・ルソーの徒であるナタリーという女性の生きざまを、まさに「ルソー的」に定義し、輝かせるのだ。
 フランス文学者・映画批評家の伊藤洋司氏は本作の批評のなかで、劇中でナタリーが読むルソーの『ジュリーあるいは新エロイーズ』の一節を、この「映画全体の鍵だ」と書いている。《この引用は映画の結末に密接に関わっている。ナタリーは目の前にあるささやかな日常に喜びを見出すのではない。彼女は未来への期待のなかに喜びを見出すのだ。未来への期待の喜びとは想像力の喜びであり、肉体の快楽ではなく精神の快楽である。これは、哲学の教師である彼女にとってかけがえのないものだ。(中略)哲学の教師として、女として、人間として、ナタリーは常に精神の快楽の側に立つのである。》(「しなやかな思想と未来」より)……映画の最後、長女が出産した「孫」を抱いて子守唄を歌うナタリー。まさに邦題どおり「未来(=赤ん坊)よ こんにちは」と微笑みかけるその姿は、確かに「未来への期待の喜び」そのものだろう。
 それにしても、この老境を目前にした主人公[ヒロイン]の、孤独とひきかえの自由と「強さ」を軽やかに体現しきったイザベル・ユペールも立派だが、それを彼女から引き出したのがまだ35歳の女性監督だとは。ミア・ハンセン=ラブ監督の作品を見るのは実のところはじめてなのだけれど(すでに日本でも、これまでに『あの夏の子供たち』や『グッバイ・ファーストラブ』、『EDEN/エデン』といった作品が公開されてきたというのに!)、本作でベルリン映画祭の銀熊賞(監督賞)を受賞するなど、すでにその才能は国際的に知られている。というか、この1作を見ただけですっかりぼくもまた魅了されてしまったのだった(……そして写真で見るかぎり、かつてオリヴィエ・アサイヤス監督の作品に女優として出演していたほどの「美女」でもある。もっとも、現在の配偶者はそのアサイヤスだとか。糞[メルド]!)。
 聞くところによるとミア・ハンセン=ラブ監督は、「エリック・ロメールの後継者」と称されているらしい。その是非は、この『未来よ こんにちは』しか見ていない者にはまだ何とも言えない。
 が、彼女の本作は、いわゆる“「フランス映画」らしさ”というべきものからはるかに自由であることだけは確かだ。ーーそう、かつて映画史の大家ジョルジュ・サドゥールが《才気のあふれた詩的な台詞、陰影のある詩的な映像、ペシミスティックな運命のドラマを謳いあげる詩的な抒情》(『世界映画史』丸尾定・訳より)と定義し、それを受けてフランス文学者・映画評論家の中条省平氏が、《観客の心をとらえたのは、そうした物語を通じて表現されるペシミズムの強烈さでした。それは一見、非常にリアリスティックな目で描かれているように見えながら、じつはそうではありません。人間の運命への敗北、ペシミスティックな世界観が、文学的な雰囲気の中で肯定され、巧妙な詩的演出によって美化されているのです》(『フランス映画史の誘惑』より)という、あの「詩的レアリスム」ほどミア・ハンセン=ラブ監督の作品に無縁なものはないだろう。
 そして、《〈詩的レアリスム〉の本質は、「暗さ」の美学化に尽きるといってもいいでしょう。最後には滅びてゆく人間の運命が、あいまいな文学的叙情性、高尚な哲学性の衣をまとって、深遠な人生観として賛美されている》(中条省平・前掲書より)それら「名作」を徹底的に批判したのが、フランソワ・トリュフォーやゴダールなどヌーヴェルヴァーグの面々であり、エリック・ロメールもまたその盟友というか中心的存在だったことを思い出すなら、その「後継者」であるミア・ハンセン=ラブもまた間違いなく「ヌーヴェルヴァーグの継承者」でもあるに他ならない。
 そう、どんなときでも早足で歩きまわるナタリーの歩行のリズムそのままに、まるで1940年代から50年代アメリカのハードボイルド映画(!)のようなドライさで主人公を追う本作には、「暗さ」や、ましてや滅びの「美学」などまるで無縁だ。ここには詩的レアリスムという「詩情もどき」(ゴダール)ではなく、生があり、人生があり、本当の「詩」があるのだ。
 ……最後に。この映画の冒頭は、ブルターニュ地方のサン・マロ沖に浮かぶ島へ家族で出かけ、17世紀から19世紀にかけて活躍した文豪シャトーブリアンの墓に詣でるナタリーたちの姿ではじまる。映画の本筋とは、一見まるで無関係な序幕[プロローグ]。だが、シャトーブリアンの最後の小説『ランセの生涯』の一節が、この映画に対する見事な要約であり主題そのものであることに思いたったので、最後にそれを引いておこう。《人生で何を大切にしたらいいのか。友情と言えば、不幸になれば、友は離れ、権勢は友を捨てるものだ。愛は偽りか、つかのまか、罪深いもの。名声には凡庸や罪がつきものである。財産などという当てにならないものを喜べるだろうか。最後に残るのは黙々と家を守り、死ぬことも、また人生を新たにやり直すことも考えさせない、人言うところの幸せな日々である。》(吉田暁子・訳)
 この『未来よ こんにちは』の主人公は、そういう「幸せな日々」を生きる決意をした女性なのである。

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