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いつかどこかで見た映画 その156 『ナイト・アンド・ザ・シティ』(1992年・アメリカ)

“Night and the City”

製作・監督:アーウィン・ウィンクラー 脚本:リチャード・プライス 原作:ジェラルド・カーシュ 撮影:タク・フジモト 出演:ロバート・デ・ニーロ、ジェシカ・ラング、クリフ・ゴーマン、アラン・キング、ジャック・ウォーデン、イーライ・ウォラック、バリー・プリマス、ペドロ・サンチェス、レジス・フィルビン、アル・グロスマン

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 ロバート・デ・ニーロとアーウィン・ウィンクラーのふたりは、いったい何をしようともくろんでいるのだろう。ウィンクラーの監督としてのデビュー作である『真実の瞬間〈とき〉』で、1950年代ハリウッドの赤狩りをテーマにしたと思ったら、同じ主演=監督コンビで今度は『街の野獣』の再映画化[リメイク]ときた。そしてこれもまた、ハリウッドの赤狩りでハリウッドを追われたジュールス・ダッシン監督が、ロンドンの街をまるで“ニューヨーク”のように撮った1950年度作品だ。ぼくは10年以上前に一度TV放映されたものを見ただけだが(……その後、DVDで見ることができました)、港を舞台に主演のリチャード・ウィドマークがヒロインを演じるジーン・ティアニーの目前で虫ケラのように殺されるラストシーンは今も鮮烈に記憶している。だが、デ・ニーロ=ウィンクラーのコンビには、単に『街の野獣』が名作だったからリメイクしましたといった以上の“意図”があるように思えてならないのだ。
 じゃあ、その意図とは何なのか。もちろんそんなことはデ・ニーロやウィンクラーに問えばいいことで、あれこれ詮索してもしかたがない。おそらくかれらのことだ、前作『真実の瞬間〈とき〉』とあわせてきっと興味深い社会的テーマや50年代映画論を聞かせてくれることだろう。たとえばウィンクラーの口から、「ダッシンやロバート・ロッセン、ジョセフ・ロージーら赤狩りの受難者となった映画作家たちの多くは東部出身者だ。つまりニューヨーク派のはしりなのさ。私としては彼ら先輩へのオマージュを込めて、そんな彼らの復権をめざした」なんて言葉が飛び出すかもしれない。あるいはデ・ニーロなら、「俺は昔からマーロン・ブランドやジョン・ガーフィールドに憧れていたんだ。そう、エリア・カザンやロッセン作品なんかの彼らにね。だからぜひ、1940年代や50年代に彼らが演じたようなアンチ・ヒーロー像を自分自身で演じてみたかった」とか何とか言いそうではないか。
 いずれにしろデ・ニーロとウィンクラーには「50年代赤狩りの映画人」に特別の関心があることは間違いない。それは、『真実の瞬間〈とき〉』が歴史の暗部に光を当てた政治的な社会派映画というよりも、どこか「50年代アメリカ映画」の持つあの独特なムードをそっくり再現しようとする試みだったように思えたのと同様、この『ナイト・アンド・ザ・シティ』にも、とにかく大好きなジュールス・ダッシン監督の作品をこの手でリメイクしたい! という衝動というか“想い”がまずあったのに違いないと思う。
 そう、映画『ナイト・アンド・ザ・シティ』はとにかく徹底的に1940、50年代アメリカ映画の雰囲気[ニュアンス]というか“匂い”といったものへのこだわりに満ちている。設定こそ現代のニューヨークということになってはいるが、それは単にロケシーンで映る街や建物、人物の衣裳、電話などの小道具にうかがえるだけで、卑小[ケチ]な三流弁護士がボクシングのプロモーションというささやかな野心を抱き、手段を選ばないその手口から破滅するというストーリーそのものが「50年代風」というか、元の『街の野獣』はもちろん『ボディ・アンド・ソウル』や『罠』、『チャンピオン』等々といったRKOや20世紀FOX、ユナイトあたりの犯罪がらみのボクシング映画、あるいは犯罪メロドラマを想起させるものだ。ーー夜の大都会と、そこに生きる人間たち。彼らは誰もまっとうな人生を歩んじゃいないが、それでもそれぞれに“仁義”を通して生きている。そんな街と人々の姿を、監督としてのウィンクラーはヴィヴィッドに映しだしていく。特にデ・ニーロをとりまくジャック・ウォーデンやジェシカ・ラングなどの、役者としての持ち味をひきだすあたり、もはやプロデューサーの“余技”などとはいわせない立派な演出家ぶりだ。
 だがそれ以上に、舞台となる大都会の片隅の閉塞感(……この映画には、デ・ニーロとウォーデンがはじめて顔を合わせる浜辺の場面くらいしか“空”が登場しない。しかもその空は、冬のどんよりと曇った灰色の空なのである)と、そのなかでうごめく“夜の人々”の生きざまは、あれら40,50年代犯罪ドラマにあったシニカルな屈折ぶりのときならぬ現前[プレゼンス]として見る者に印象づけられるのである。実際、舌先三寸で世を渡り歩く小悪党の弁護士を演じるデ・ニーロにしても、アメリカン・ニューシネマ風のインテレクチュアル(?)なひねくれぶったアンチ・ヒーローなどでではない。むしろウィリアム・P・マッギヴァーンやジェームズ・M・ケインの小説世界にこそふさわしい“ケチなチンピラにも五分の魂”といった気概を感じさせる。彼はニヒリスティックではあっても、決してペシミスティックに自己憐憫したりしないのだ。
 そして何より、ジェシカ・ラングの実に魅力的な姐御ぶり! 後ろ暗い過去を背負い、裏切られながらもなお男たちを優しくつつみこむような彼女は、ほとんど『黒い罠』のマレーネ・ディートリッヒに匹敵する見事なグッド・バッド・ガールをここで演じているのだった。
 他にも、デ・ニーロの演じる主人公の側についた兄貴(ジャック・ウォーデン)に気をもむギャングのボス(アラン・キング)や、酒場の経営者でジェシカ・ラング扮するヘレンの亭主(クリフ・ゴーマン)、ボクサーの面々にいたるまで、まるで彼ら彼女たちは現代によみがえった50年代の“亡霊”のようにしゃべり、ふるまうのだ。
 そうしてこの映画を見るぼくたちは、いつしか奇妙に抽象的な世界、どこでもないどこか(あるいは、“どこでもあるどこか”だろうか)へと誘われていく。現代であって現代ではない、ニューヨークであってニューヨークではない「ワンダーランド」で、ひとりの男が、自分のまいた種によってどんどんのっぴきならない状況に追い込まれていく。まるでイソップかなにかの寓話のように。
 そう、この映画を定義するならまさに“寓話”というのが最もふさわしいかもしれない。ひとかけらの教訓も幻想性もない、けれどそれは、どこか“現実感を欠いた「リアルさ」”というしかない、都会の、大人のフェアリーテール。切なくほろ苦い、しかしどこかなつかしい「メロドラマ」への絶妙なファクターとしてあるのだった。
 それにしても、この映画のデ・ニーロは本当に素晴らしい。かつてのこの男(というのは、『ゴッドファーザーPARTⅡ』や『ディア・ハンター』の頃だが)に対しては、あの「内面的演技」という、つまり、役になりきることでそのキャラクターの「内面」を表現するといったいわゆる「スタニスラフスキー・システム」の完璧な体現者、というイメージだった(……とは、ぼくだけの“偏見”ではないと思う)。
 だが近年のデ・ニーロを見ていると、実のところこの役者は「内面」にこだわることよりも、ただそれらしく“画面におさまる”ことのみに専念しているかのようなのだ。たとえば『ケープフィアー』でもウィンクラーとの前作『真実の瞬間〈とき〉』でもいい、そこでの彼は、偏執狂の殺人鬼や信念に生きる映画監督といったそれぞれの役柄を確かに鬼気迫るような迫力で演じている(かにみえる)。だがそれは、いかにもそれらしい喜怒哀楽や狂気を“表現=演技[アクション]”しているというより、その場面で求められるがままに“反応=体現[リアクション]”している、というべきではないだろうか。
 この『ナイト・アンド・ザ・シティ』でもデ・ニーロは、この卑小な男をその「卑小さ」においてほとんど完璧に“体現”してみせる。そこにはいささかの心理的陰影も「人間性」への構築的意思(?)もなく、この一見すると大時代[アナクロ]な犯罪メロドラマのなかでひたすら喜怒哀楽の「仮面」をすげ替え続けているかのように見えるのだ。もちろんそれを批判しているのではなく、そこにこそぼくは「ロバート・デ・ニーロ」という役者の凄みというか天才があると思うのである。
 自己というものを消し去り、ただカラッポな存在として「仮面劇」をただひとり繰りひろげるデ・ニーロ。正直いってそれは、もはや作品そのものすら超越したスペクタクルとして我々の眼をひそかに奪い続けるのだ。
「零度の存在への夢。それは自己消去への欲望でもある。演奏の映像から音を消せば、そのひきつった動作はヒステリー患者のそれ、トランス状態のそれのように見える。」(鷲見清一『絶対体感〜グレン・グールド氏の論理的な身体装置』より)

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