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いつかどこかで見た映画 その65 『夏をゆく人々』(2014年・イタリア=スイス=ドイツ)

“Le Meraviglie”
監督・脚本:アリーチェ・ロルヴァケル 撮影:エレーヌ・ルバル 出演:マリア・アレクサンドラ・ルング、サム・ラウウィック、アルバ・ロルヴァケル、ザビーネ・ティモテオ、マルガレーテ・ティーゼル、アンドレ・ヘンニック、モニカ・ベルッチ

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 そういえば、最近「オマージュ」という語があまり使われなくなったように思うのは、単なる気のせいだろうか? ひと頃は映画の評論なんかで、それこそ猫も杓子も「オマージュ、オマージュ!」と連呼(とは、やや誇張気味)されていたものだったのに。
 この「尊敬、敬意」を意味するフランス語は、なるほど、確かに便利なコトバだった。「これはAという作者や作品へのオマージュなのだ」と言ってしまえば、ほとんど“盗作[パクリ]”まがいのシロモノであっても何となく言いのがれができてしまう。「パロディ」となれば、そこにオリジナル作品への批評的な視座が求められるんだろうが、“この表現がAに似ているのは当然だ、これはAへの愛と敬意を込めたものだから”と宣言してしまえば、もはや「オマージュ」として許されてしまうのである(……まあ、実際のところはそんなに甘いものじゃないだろうと、誰もが思う。が、案外その程度で“通用”してしまうものなのだ……)。
 そんな、ポストモダン時代(!)の代表的な用語[ターム]が“衰退”した背景には、今さら「オマージュ」などと弁明しなくても、ただの「ネタ」扱いでじゅうぶんだ、という風潮があるのかもしれない。別に愛とか敬意とかご大層なものじゃなく、ただ「好き」だし「面白そう」だから元ネタとして使ったまでさ……。そういった、開き直りですらないまさに「ネタにして何が悪いの?」というあっけらかんとした“罪のなさ”が、良くも悪くも「オマージュ」というコトバの価値下落を招いていったのだ。
(……同じく、最近あまり使われなくなった「引用」という語についても、同様のことが言えるかもしれない。他人はもちろん自身のものであっても、別の作品から「引用」することは、本来それ自体が相当の“覚悟”を必要とする高度な批評的実践なのだった。かつては「引用とは何か」といったものが、ひとつの思想史(!)を形成していた時代もあったのだから……。それが今や、誰も「引用」などと口にしない。気に入ったフレーズやイメージがあれば、よけいなことに気もアタマも使わずにさっさと自作に取り入れてしまう。つまりは、ここでもすでに「ネタ」でしかないのである。)
 長編第2作めで昨年度のカンヌ映画祭でグランプリを受賞した、イタリアの女性監督アリーチェ・ロルヴァケルによる『夏をゆく人々』。その紹介記事にこんな一節があった。
 《ミツバチの飼育、父と娘の葛藤というモチーフは、ビクトル・エリセの傑作『ミツバチのささやき』を想起させ、さらにテレビ番組『ふしぎの国』の司会者を演じるモニカ・ベルッチの官能的でありながら、神々しい存在感は、フェリーニの『甘い生活』のアニタ・エクバーグを連想せずにはいられない。またなによりもジェルソミーナというヒロイン名が、フェリーニの名作『道』でジュリエッタ・マシーナが演じた永遠の聖なる道化そのものであり、巨匠フェリーニへのオマージュが垣間感じられる。》(パンフレット解説より)
 なるほど、『夏をゆく人々』という映画は、確かにいくつもの監督や作品名を思い起こさせる。フェリーニ、エリセの他にも、タヴィアーニ兄弟や、マルコ・ベロッキオ、エルマンノ・オルミ、ロベルト・ロッセリーニ、テオ・アンゲロプロス、そして何よりアンドレイ・タルコフスキー。全編にわたって“いつか、どこかで見た”設定と映像のオンパレードなのだ。そしてそれらは、先の記事にあるようなオマージュというよりも、ほとんど「ネタ」としてあるかのようのである。
 ーーイタリア中部のトスカーナ地方で、昔ながらの製法によって養蜂業を営む家族。頑固者の父親ヴォルフガングと、今の生活に疲れ気味の母親アンジェリカを手伝う長女ジェルソミーナは、まだ11歳だが一家の大黒柱的な存在だ。彼女の下には要領のいい7歳の次女マリネッラと、まだ幼い小動物みたいな三女と四女。他に、夫婦の古くからの知り合いらしい同居人の女性ココがいる。
 ある日、湖で遊んでいたジェルソミーナたちは、テレビ番組のロケ現場に出くわす。それは、トスカーナ地方に根づく古代エトルリア文化を紹介し、地元の生産者に伝統的な農産物をコンテスト形式で競わせる「ふしぎの国」という番組だった。そこで、女神のような衣装を身にまとった番組の司会進行役ミリーに魅了される、ジェルソミーナ。
 また別のある日、一家のもとへドイツの施設からマルティンという14歳の少年が連れてこられる。男手がないことに業を煮やしたヴォルフガングが、家族に相談もなく預かることにしたらしい。盗みと放火でつかまり、更正プログラムで働くことになったマルティンは、触られることを極度に嫌い、ひと言も口をきかない。けれど、小鳥のような美しい口笛を吹く彼のことをジェルソミーナたちは、少しずつ受け入れていく。
 ……まるでタヴィアーニ兄弟の『父/パードレ・パドローネ』のように、頑迷で横暴だが家族には愛情深くもあるヴォルフガング。夫と話すときはなぜかフランス語になる妻のアンジェリカは、どこかロッセリーニ作品におけるイングリッド・バーグマンを想起させる(……実生活でもバーグマンは、夫を捨ててイタリアの監督ロベルト・ロッセリーニのもとに走り、4人の子どもを産んでいる)。そんな一家と生活をともにするドイツ人女性のココは、彼女とヴォルフガングたちの「政治的な過去」を暗示するだろう。そこに、たとえばマルコ・ベロッキオの『夜よ、こんにちは』におけるテロ集団の“その後”を見るのは、さすがにうがち過ぎだろうか。
 どうやらドイツ人らしいヴォルフガングとその一家が、なぜイタリアの人里はなれた田舎で暮らしているのかを、映画は何も語らない。妻やココの過去にも、わずかに“暗示”するだけでほとんどふれようとはしない。ジェルソミーナや次女のマリネッラが学校に行っている様子がないことは、ただ単に夏休みだからなのか、それとも学校にも行かずに家の手伝いをしているのか(……いちおうジェルソミーナには、同年代の友人がいることを映画は教えてくれるのだが)。そんなもろもろに答えることもないまま、“いつか、どこかで”見たような場面や人物像[キャラクター]をちりばめながら、映画は、長女ジェルソミーナによって見つめられた彼女の家族のひと夏を描いていくのである。
 ……その夏も終わりが近づいたある日、設備を改善しなければハチミツ製造の作業所を閉鎖すると当局から言われていたヴォルフガングは、しかし全財産をはたいて1頭のラクダ(!)を買ってくる。それは、まだ幼かった頃にジェルソミーナと約束したことなのだが、すでに複雑な“家庭の事情”に小さな胸を痛めているジェルソミーナはただ困惑するしかない。無邪気に喜ぶのは、幼い三女と四女ばかり(……「キャーッ」と歓声をあげてラクダの周りを駆けめぐる彼女たちと、ぼう然と立ちつくすジェルソミーナ。そして、我関せずとばかりに泰然としたラクダというこの場面は、ある意味で悲惨な状況ではあるもののたまらなくシュールで可愛らしく、思わず微苦笑せずにはいられないだろう)。だがそのこともあって、ジェルソミーナがひそかに応募していた『ふしぎの国』のテレビ出演を、賞金目当てにヴォルフガングは受け入れるのだ。
 ーー先にぼくは、この映画が“いくつもの監督や作品名を思い起こさせる”と書き、それがオマージュというよりも、ほとんど「ネタ」としてあるかのようだと書いた。フェリーニの『甘い生活』や『サテリコン』などのようにほとんどあからさまなものから、映画の冒頭におかれた「猟師」たちの場面のように、アンゲロプロスの『狩人』を“変奏”したものまで、あるいは、前述の通りタヴィアーニ兄弟やベロッキオなどの作品にように、全編にわたってここでは他の監督作品やそのタッチが参照され「引用」されている。
 とはいえ、それらのまとうこの「自由さ」はどうだろう! すべてに軽く、あっけらかんと過去の名作や巨匠たちと戯れるかのような映像は、「オマージュ」などという縛りというか“枷(かせ)”からどこまでも自由だ。さらに、自身もトスカーナ地方に生まれ、ドイツ人とイタリア人の両親を持ち、家は養蜂業を営んでいたという監督のアリーチェ・ロルヴァケルにとって、そんな出自というか「自伝的」な半生すらここでは「ネタ」でしかないのである。ーー正直に言うと、ぼく自身もオリジナルを「ネタ化」することで成立する「二次創作」めいた創作やそういった風潮をあまりこころよく思わなかった者だが、そんな韜晦や屈曲などみじんも感じさせないこの作品の「軽やかさ」にはすっかり魅了されてしまったのである。
(……ところで、これも先にぼくはこの映画が「ネタ」にした監督名を列挙し、「何よりアンドレイ・タルコフスキー」と記した。そう、ぼくにとって本作は、実のところ何よりもタルコフスキーの『ノスタルジア』を意識させる作品なのだった。それは、ロシア人監督である彼がイタリアで撮ったあの映画のロケ地が、本作と同じトスカーナ地方だということもある。そして、父親ヴォルフガングが卒然と口にする「世界は終わりつつある……」というつぶやき。それもまた、『ノスタルジア』のなかで「世界は終わりつつある」と言う“狂信者”ドメニコを、ただちに思わせるものだ。あの映画のなかでドメニコは、7年間にわたって世間(=社会)から隔絶するかのように自分の家族を家に閉じ込めていた。そしてヴォルフガングとその家族の姿を思うとき、『夏をゆく人々』とは「もうひとつのドメニコと家族の物語」だったのではあるまいか。)
 本作の字幕翻訳を手がけた吉岡芳子さんによれば、本作の原題「Le Meraviglie」とは“ふしぎ、(嬉しい)驚き”という名詞の複数形らしい。作品中で、モニカ・ベルッチがゴージャスな魅力をふりまく司会者を演じる『ふしぎの国』という番組にも、その語は使われている。《そして監督の名はアリーチェ(アリス)。この二つの言葉が暗示するように、(この映画は)アリスの世界のように嬉しい驚きにあふれています》(以上、引用はパンフレット内の「アリスのチェシャ猫が現代を救う?」より)。……そう、往年のイタリアン・ネオリアリズム映画のような見かけの沈鬱さとはうらはらに、「不思議の国」のアリーチェ(アリス)監督によるこの作品は、まさに夢のように軽やかで自由で魅惑的なのである。

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