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いつかどこかで見た映画 その94 『30年後の同窓会』(2017年・アメリカ)

“Last Flag Flying”

監督・脚本:リチャード・リンクレイター 原作・脚本:ダリル・ポニクサン 出演:スティーヴ・カレル、ブライアン・クランストン、ローレンス・フィッシュバーン、ユル・ヴァスケス、J・クイントン・ジョンソン、ケイト・イーストン、リー・ハリントン、シシリー・タイソン、ディアーナ・リード=フォスター、グラハム・ウルフ、テッド・ワッツJr

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 現在のアメリカ映画界といえば、相変わらず大ヒット作のシリーズ化作品や、アメコミを実写映画化したメジャーどころのSF・ファンタジー大作が隆盛をきわめている。さもなくば、今をときめくカリスマ的な映画監督(……ここではまあ、タランティーノやクリストファー・ノーランあたりの名前と顔を思い浮かべていただければ)によるいかにもな“野心作”か、ウディ・アレンやコーエン兄弟、デイヴィッド・フィンチャーといったメジャースタジオ側とも渡りあえるタフな才人を起用し、演技派スターたちを揃えたこれも批評家受けというか映画賞狙いがミエミエな“社会派&文芸ドラマ”あたりか。
 そして、そういった「Aランク」な作品の下には、マイナーながら“一発”大当たりを夢見る新進気鋭の若手監督らの登龍門ともいうべきホラーやコメディなどの「Bランク」ジャンル映画があり、さらに、劇場公開されないままDVDスルーという「Cランク以下」が最下層にうごめいてーーというのが、昨今のアメリカ映画における“階層[ヒエラルキー]構造”というわけだ。そこからこぼれ落ちた有能な中堅監督たちの多くがテレビ界に移行していったこと、それによりドラマシリーズの飛躍的な質的向上がはかられたことも、ここで特筆すべきかもしれない(……とまあ、以上いくらなんでもおおざっぱすぎるだろ! というご指摘はごもっとも)。
 もちろん、かくのごときハリウッド・カーストめいた作品序列からは一線をひいて、我が道を行く映画の撮り手たちも存在する。師であるニコラス・レイからの、「決してハリウッドには近づくな」という教えを今なお忠実に守り抜くジム・ジャームッシュはその代表格だろうし、ジョン・ウォーターズやデイヴィッド・リンチといった「カルト映画」の大御所の存在も忘れるわけにはいくまい。ひと頃はよく作品と監督名を混同した(のは、ぼくだけではないはずだ)トッド・ヘインズとトッド・ソロンズも、ここに挙げていいだろう。
 そういったインディペンデントな映画作家というか、“アメリカン・インディーズの雄”のひとりとしてその名前を忘れてならないのが、リチャード・リンクレイターだ。時には『スクール・オブ・ロック』や『がんばれ!ベアーズ ニュー・シーズン』といったメジャー・スタジオ製作の映画も撮りながら(……しかしこの両作、挫折した主人公が子どもたちを相手に破天荒な「教育的指導」を推し進め、彼らに夢をつかむことの喜びを教える。同時に、それが主人公の自己再生につながっていくーーという「同じ物語」であることに、今さらながら気づいた)、その創作活動のメインとなるのは、ハリウッドのメインストリームから一歩引いたスタンスで“自分の撮りたい映画を、いっしょに撮りたいキャストやスタッフたちとともに撮る”というもの。しかもその“撮りたい映画”というのが、若者たちがただバカ騒ぎするだけ(!)の青春群像劇(であるのに“泣ける”のは、なぜなんだ……)であったり、実写映像にデジタルペインティングをほどこした実験的アニメーションであったり、同じ俳優たちが10年以上にわたって“同じ役柄”を演じるものであったりという、単なる「アート映画」とはひと味もふた味もちがうところが、この監督ならではのユニークさなのである。
 もし、そういうリンクレイターの映画に共通するものがあるとすれば、〈彷徨〉ということになるだろうか。映画のなかの彼や彼女たちは、つねにさすらっている。決められた場所や時間を目の前にしながら、彼や彼女たちは、その手前で逡巡するかのように右往左往したり、忘れたふりをしたり、あるいは“そこ”へたどり着くことの意味を見出そうとあがき続ける。そんな躊躇し〈彷徨〉する姿を“人生の一場面[ワンシーン]”として切り取ってみせることが、リンクレイター作品なのだといえるだろう。
 そして、最新作となる『30年後の同窓会』においても、やっぱり主人公たちはさすらい続けている。ただ、ここで〈彷徨〉するのはこれまでのように「青少年たち」ではなく、もはや初老に手がとどく「中年男たち」なのである。
 ……映画は、ひとりの男がうらぶれたバーを訪ねる場面からはじまる。店内では、経営者のサル(ブライアン・クランストン)が常連客を相手にバカ話の最中だ。訪れた男はサルに、「俺だよ、おぼえてないか」と言う。彼の名は“ドク”ことラリー(スティーヴ・カレル)で、サルとはベトナム戦争を戦った同じ海兵隊の親友同士だった。
 ひさしぶりの再会で飲み明かした翌朝、ドクはサルに「行きたいところがある」と言う。車を走らせた先は、郊外の教会だ。そこには、今は牧師となって妻ルース(ディアーナ・リード・フォスター)と暮らす同じベトナム帰還兵の戦友ミューラー(ローレンス・フィッシュバーン)がいた。かつては暴れ者で女に目がなかったミューラーが、すっかり敬虔な聖職者となっていることに驚くサル。一方のミューラーは、そういったサルの“変わらなさ”に困惑と迷惑顔をかくさない。
 こうして30年ぶりに顔をあわせた、かつての戦友で親友同士の3人。だが、どうして突然ドクは彼らを訪ねてきたのか。今は海軍基地の購買部で働くドクは、1年前に奥さんをガンで亡くしていた。そして2日前に、イラク戦争に出征したひとり息子の戦死を報されたという。その遺体が今晩アメリカに戻ってくるので、ふたりに同行してほしいと、助けを求めてきたのだった。ドクは、戦死者をまつるアーリントン墓地ではなく、故郷にある妻の墓の隣りに長男を埋葬したかったのだ。
 ……映画の時代背景となるのは、2003年の冬。テレビではイラクのフセイン大統領が捕獲された光景や、フセインのふたりの息子が死んだというニュースが流れている。そんななか、男たちは仕事を放り投げて(もっともミューラーの場合、はじめは嫌がっていたものの奥さんに説得されてのものだったが……)、「親友の息子の遺体を故郷まで送り届ける」という旅に出るのである。
 遺体が到着したドーバー空軍基地で、とめるのも聞かずにひとり息子の遺体と対面し、変わりはてたその姿にショックを受けるドク。戦死した「英雄」として、あくまでアーリントン墓地への埋葬をすすめるウィリッツ大佐(ユル・ヴァスケス)だが、戦地で息子の親友だったワシントン曹長(J・クィントン・ジョンソン)によれば、真相は別だった。ドクの長男は、バグダッドの雑貨屋でコーラを買いに入った際、後ろからいきなり撃たれたのだという。「……私が買いに行く番だったのに、彼が代わってくれた。それでこんな目に遭ってしまったんです」と。ドクの長男は、軍が言うような勇敢に戦った「戦死」ではなかった。
 結局、遺体を自分たちで故郷のポーツマスに連れ帰り、軍服ではなく高校卒業の時のスーツを着せて葬儀するというドクの強硬さにおれたものの、大佐は、「あんな老いぼれどもに出し抜かれるな、必ず軍服を着させて埋葬するんだ!」とワシントンを同行させる。バージニア州ノーフォークにはじまり、リッチモンド、デラウェア州ドーバーにいたる3人の旅は、ここからいよいよニューハンプシャー州ポーツマスをめざすのだ。
 ……死んだ長男を故郷まで連れ帰る旅、と聞けば当然ながらかなりシリアスな展開を予想せざるを得ない。しかもドクは、最愛の妻をも亡くしたばかりなのである。
 だがこの映画は、そういった耐えがたいまでの喪失を体験した男と、それを見守り痛みを分かちあう親友たちのドラマであると同時に、人生のある時点で自分自身から目をそらしてきた彼らが、ふたたび自己と向きあうまでを描いたものでもある。ーーそう、3人はベトナムの戦場で何かとりかえしのつかない不祥事をひきおこしてしまった。彼らは、その時からそれぞれに〈彷徨〉していたのである。
 3人がベトナムで何をやらかしたのか、具体的には語られない。もっとも、戦場で彼らが麻薬[ドラッグ]がわりに麻酔用のモルヒネを勝手に使い込み、それによって負傷した仲間のひとりが苦しみながら死んでいったらしいことが、何となくわかってくる。どうやら、それでドク(というあだ名は、もちろん彼が「衛生兵」だったことを暗示している)は軍刑務所にぶち込まれ、海軍を不名誉除隊となった。彼らが30年間音信不通だったのも、そういった背景とそれぞれの罪の意識ゆえだったにちがいない。
 が、かくして再会した3人は、旅の途上で否応なくその〈過去〉と対峙することになる。悲しみに満ちた旅のはずが、いつしか昔と同じようなバカ騒ぎと哄笑(……娼館の隠語である「ベトナムのディズニーランド」をめぐっての“武勇伝”で、はじめてドクが大笑いする。この特急列車[アムトラック]内での一連のやりとりは、最高に愉快かつ感動的な、まさにリンクレイター監督ならではの名場面だ)に明け暮れる珍道中となり、そのなかで彼らは、30年前からさまよい続けてきた自分自身とようやく向かいあうことになったのだ。
 ……旅の途中、3人は自分たちのせいでモルヒネがないまま死んでいった軍隊仲間の家を、訪れることにする。だが、息子は仲間を助けて英雄的に死んだと信じる母親(演じるのは、なつかしの名女優シシリー・タイソン!)に、とうとう真実を言えないままに終わってしまう。
 が、おそらくそのことが彼らの“背中”を決定的に押した。ようやくドクの故郷に着いた一行は、葬儀にあたってそれぞれがある思いがけない行動にでるのである。
 ベトナムでの体験やドクの長男をめぐる欺まんなどにより、軍や政府というものに不信と反感をかくさなかった3人。しかし、最後に彼らが出した“結論”は意外なものに映る。《人々には、この映画を観て、それぞれ違った反応をして欲しい。いろいろ考えられるはずです。戦争に向かう国、犠牲、それが私たちの文化や世界にとって何を意味するのか。私は、人々にこれらの問題について複合的な視点で考えてもらえるなら、いつでも新しい映画を作る価値があると考えています。》とは、リンクレイター監督自身の言葉だ。
 ここでひとつだけ言えるとするなら、ぼくはここで、かつてクリント・イーストウッドが「戦場で死んだ人間は、すべて讃えられてしかるべきだ」と言ったことを思い出していた。それは単なる戦争賛美でも愛国心でもなく、死んだ者たちを「悼む」思いにおいてとても“誠実”なものであるだろう。そしてここで、彼ら3人が〈彷徨〉のはてに人生と折り合いをつける姿は、観客にとって両義的という以上に複雑な感情を喚起するものだ。その“味わい深さ”は、リンクレイター作品にあってもあらたなターニングポイントたり得るものではあるまいか。
 最後に、名優ぞろいだから当然といえば当然だが、主演の3人がとにかく素晴らしい。彼らの演技を見ているだけでもじゅうぶん入場料におつりがくる、至福の2時間だった。

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