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いつかどこかで見た映画 その47 『サイドカーに犬』(2007年・日本)

監督:根岸吉太郎 脚本:田中晶子、真辺克彦 原作:長嶋有 出演:竹内結子、古田新太、松本花奈、谷山毅、ミムラ、鈴木砂羽、トミーズ雅、山本浩司、寺田農、松永京子、川村陽介、温水洋一、伊勢谷友介、樹木希林、椎名桔平

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 芥川賞作家・長島有のデビュー小説を映画化した『サイドカーに犬』について、監督の根岸吉太郎自身は《「夏休み」と「謎の女」の映画》だとコメントしている。「夏休み」と「謎の女」ーーつまりこれは、「子供」と「大人」の映画である、ということか。(以下、コメント引用は映画パンフレットより)
 なるほど、確かにこの映画をひと言で表すなら、「子供と大人たちをめぐるひと夏のドラマ」以外の何物でもない。というわけで、まずは監督の言葉に従って、この、“「子供」と「大人」”についていきなり脱線していこう。
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 幼い子供が、大人たちの世界を垣間見ることで翻弄されたり、傷ついたりしながら成長するーーとは、洋の東西を問わず、実にありふれた〈物語〉にはちがいない。大抵の場合そこでは、子供の「純粋さ[イノセンス]」を通して大人たちの「醜悪さ[アンフェア]」が告発される。とともにそれは、この汚辱にまみれた世界を生きるための〈通過儀礼〉として描かれることになるだろう(誰もが、こうして社会=世界に踏み出すことの困難に直面し傷つきながら「大人」になっていくのだ……という、ディケンズの『デイヴィッド・コパーフィールド』風の教養小説的展開)。そうして我々オトナどもに、“自分たちにもあんなイノセントな時代があったんだなぁ……”という郷愁と、ちょっぴりの胸の痛みをもたらすといった次第だ。
 もっとも、そういった童心の「無垢[イノセンス]」や、大人=社会(=世界)との関わり合いを通して成長していくといった「子供」観は、いわゆるひとつの〈神話〉にすぎない……とも言われるし、実のところぼくもそう思う。幼児にも性欲があり、本来が大人=社会の秩序から逸脱した〈既知・外[マージナル](!)〉な存在こそ、彼ら「子供」と呼ばれる者たちなのだから。大人たちは、そんな徹底してアウトサイダーである子供を「社会[インサイド]化」するために、「やがて大人になる者たち」として定義する。そうして教育の対象となり、〈既知〉のものとなった子供たちこそ、「児童」なのだろう。
(……近年、犯罪の低年齢化や、10代前半の子供たちによる犯罪の多発を声高に語る向きが多い。しかし、これも周知の通り、低年齢層の凶悪犯罪件数は決して増加していないのである。たぶんそこには、大人たちに「子供」がふたたび“分からない”ものになってきたーーアウトサイド化してきたということへの困惑と焦りがあるんじゃないか。彼ら「反社会的」な行為に及ぶ青少年たちを前に、とまどい、「心の闇」などと口走ったりする大人たち……。分かったつもりになっていた「児童」が、突然、自分たちの既知の外にハミ出してしまったことで、文字通り“キチ・ガイ(既知・外)”扱いする。でもそれは、子供という絶対的な〈他者〉を前ににうろたえ、目をそらそうとしているだけでしかないだろう。)
 では、先に挙げたような「教育的」な成長物語でなく、〈他者〉としての子供たちを描いた映画と聞いて、どんな作品を思い浮かべればいいだろう。ジャン・ヴィゴ監督の『新学期・操行ゼロ』? なるほど、大人たちをとことん振り回すあの映画の少年たちは、まさに「子供」そのもののように天衣無縫な輝きに満ちていた。しかし、教師に反旗をひるがえす有名な場面で舞っていた羽毛は、むしろ彼らの「天使性」こそを象徴するものではなかったろうか。ーー子供たち、この翼をはためかす“イタズラな天使”ども!
 たぶん、フランソワ・トリュフォー監督の『大人は判ってくれない』こそは、そうした「子供」の“分からなさ”を描き得た稀有な映画だ。確かにそこでは、主人公アントワーヌ少年の“非行”を、親の愛情の欠如と孤独によるものと、いかにも大人=社会的な、つまりは〈既知なるもの〉として物語っていたかのように見える。
 が、終盤近くの精神科医のカウンセリングを受ける場面で、アントワーヌが浮かべる奇妙な薄笑いは、大人たちの子供観からは決して受け入れることのできない破壊的[アナーキー]な「子供」そのものの現前あるいは“表象”だったのではないか。そして、海辺を走り、立ち止まってカメラを振り返る彼のストップモーションと、そのクローズアップによる鮮烈なラスト。……あそこでスクリーンに大写しとなるアントワーヌの眼差しは、大人たちのあらゆる同情や感傷を受け入れない〈他者〉としての“無表情”だったはずだ(この長編デビュー作以後、トリュフォー監督は同じジャン=ピエール・レオーを主演にして、「アントワーヌ・ドワネルもの」といわれる一連のシリーズを撮り続けることになる。もちろんそこで描かれるのが、決して成熟に向かわない、むしろ「社会的不適合者[アウトサイダー]」として生き続けることとなった永遠の「子供」による、反・成長物語であったことは、もはやあらためて言うまでもないだろう)。
 そして何より、相米慎二監督の映画がある。『台風クラブ』をひとつの頂点とした『ションベン・ライダー』から『お引越し』、『夏の庭』に至る、いずれも少年少女たちを主人公とした相米作品は、ただただ彼らの「分からなさ」をめぐるものだったとぼくは思っている。ーー台風の夜に乱痴気騒ぎを繰り広げたり、夜の森を彷徨したりする彼らの行動は、その不可解さゆえにかえってリアルに映る。これらの作品で採り入れられた独特の長回しによるワンシーンの移動撮影は、社会的な枠(何ならそれを「文化」と言い換えてもいい)から一時的であれハミ出してしまった少年少女たちの、ほとんど狂気にも似た“既知・外”ぶりを片時も見逃すまいとする眼差しそのものだ。そしてそこに意味や解釈を付与するのではなく、あくまで彼らの〈他者性〉を凝視し続けること。そうすることで、自分たちの「大人」性というか“〈社会〉の外”から逸脱する瞬間を体験すること。つまり、子供たちのように我々も“既知・外”になること。
 そう、その時ぼくたちは、この〈世界〉の新たな相貌と出会うことになるだろう。相米作品を見ることは、「子供」を通して世界そのものの真の豊かさを知ることだ。「童心」などというヤワな次元とは無縁の、常に〈世界〉と直截的[ダイレクト]に接している彼ら。その過酷さや残酷さも含めた〈世界〉の豊穣さを、彼らは生きている。そんな姿を通して、大人であるぼくたちも自分のなかの「子供」性が、内なる〈他者〉がざわめきたつ……。相米作品を見ることの貴重さ(と、「恐ろしさ」)とは、そういうことなのではあるまいか。
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 さて、ここで『サイドカーに犬』についての根岸監督のコメントを、あらためて詳しく引いてみよう。
《「夏休み」がはじまると同時に「謎の女」ヨーコさんがやってきます。それまできっちりと分かれていた子供と大人の領域が少しずつ混ざりはじめます。大人は意識しながら慎重に、時には無神経に大胆に子供の世界に侵入します。けれど子供は自分から大人の世界に歩み寄ろうとはしません。ただ眺めます。はじめて眼にする大人の世界を見つめます。見ることは大きな刺激です。もし夏休みの宿題に「大人たちの観察」という課題があったら、この映画の主人公は高得点をもらったでしょう。》
 ……映画は、30歳になる女性・薫(ミムラ)が、10歳だった時の夏を回想することではじまる。父(古田新太)に愛想を尽かした母親が家を出て、父の愛人らしい若い女ヨーコさん(竹内結子)が晩ご飯を作りにかよって来るようになる。ドロップハンドルの自転車に乗って、おおらかというか大雑把でありながら、優しさと繊細さを隠し持っているヨーコさん。もちろん10歳の薫(松本花奈ーー今は『脱脱脱脱17』など映画監督としても活躍中の彼女である)は、ヨーコさんに魅了されていく。と同時に、家出する前にきちんとキッチン掃除をする母親や、優柔不断な父親とその怪しげな仕事仲間たちなど、様々な“大人の世界”を垣間見ることになる……。
 このあたり、相米慎二監督の『お引越し』で両親の離婚に直面する女の子を思い出す向きがあるかもしれない。監督の根岸吉太郎は、前作の『雪に願うこと』でも、相米監督の企画を引き継いで映画化したという経緯がある。今回も、はじめてローティーンの少女を主人公にした映画を撮るという、根岸監督らしからぬ(なぜなら、これまでの根岸作品は「愛」もまた葛藤の一形態だといった「大人」の男と女、個人と共同体といったものの“間”に起こる劇[ドラマ]こそを描き続けてきたのだから)、むしろ実に「相米慎二的」な題材を選んだことは、いったいどうしたことだろう。
 しかし、『雪に願うこと』があえて相米慎二的な地平に立った映画だとしたら、『サイドカーに犬』は見事なまでに根岸吉太郎の映画そのものだ。確かに10歳の女の子が中心になるとはいえ、彼女はただ「大人たちの世界」の“傍観者”であり続ける(……《けれど子供は自分から大人の世界に歩み寄ろうとはしません。ただ眺めます》)。この映画がどこか牧歌[メルヘン]的な微笑ましさと爽やかさに包まれているとしたら、本来はドロドロしていただろう大人たちのスッタモンダも、10歳の女の子の眼を通すことで「ドロドロ」の部分が程良くろ過(!)されたからに他ならない。決して大人たちに対峙することなく、いつも寄り添うようにして彼らを見つめ続ける薫は、そういう意味で決して「子供」ではなく、十分に「大人」だ。というか、タイトルにある通り、彼女はサイドカーの助手席にちょこんと乗せられて否応なく目の前の出来事[ドラマ]を受けとめる「犬」なのである。 
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 ……そう、「夏休み」「少女」「離婚」という相米慎二の『お引越し』と同じカードを用いつつ、根岸監督はあっさりと「子供」を切り捨てることで「大人たち」の映画を撮った。それはそれで、いかにもこの監督らしい聡明さだといえるだろう。実際、この映画の大人たちは揃って実に魅力的だ。まさに、「大人」だってすてたもんじゃないんだぜ、という感じ。もしそこに、『お引越し』への「返歌」的なニュアンスがあったとしたなら(いや、ぼくはほとんどそう確信しているんだが)、そんな根岸監督の“応答[レスポンス]”に、天国の相米監督も微苦笑しているにちがいない。

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