いつかどこかで見た映画 その133 『ニューヨーク、アイラブユー』(2009年・フランス=アメリカ)
“New York, I Love You”
監督:チアン・ウェン、ミーラー・ナーイル、岩井俊二、イヴァン・アタル、ブレット・ラトナー、アレン・ヒューズ、シェカール・カプール、ナタリー・ポートマン、ファティ・アキン、ジョシュア・マーストン、ランディ・バルスマイヤー 出演:ヘイデン・クリステンセン、レイチェル・ビルソン、アンディ・ガルシア、イルファン・カーン、ナタリー・ポートマン、オーランド・ブルーム、クリスティナ・リッチ、マギー・Q、イーサン・ホーク、ロビン・ライト、クリス・クーパー、アントン・イェルチン、オリヴィア・サールビー、ジェームズ・カーン、ブレイク・ライヴリー、ドレア・ド・マッテオ、ブラッドリー・クーパー、シャイア・ラブーフ、ジュリー・クリスティ、ジョン・ハート、カルロス・アコスタ、ジャシンダ・バレット、テイラー・ギア、ウール・ユジェル、スー・チー、バート・ヤング、イーライ・ウォラック、クロリス・リーチマン、エミリー・オハナ、エヴァ・アムリ、ジャスティン・バーサ
(この文章は2010年2月に書かれたものです。)
先日(2010年1月某日)、公開されたばかりのクリント・イーストウッド監督最新作『インビクタス 負けざる者たち』を見に劇場へと出かけた時のこと。土曜の夜だったのに、まだ小学生の男の子が、やや興奮した感じで、どうやらさっき見終わった『アバター』のことを付き添いだろうおじいちゃん相手にしゃべっていた。おお、こんな幼い子供にすら認知されているとは、あらためて凄い人気なんだと実感した次第。
けれどあの男の子は、『アバター』の何にひかれて見に行こうと思ったんだろう。やっぱり3D映像への興味? もはや小学生レベルにまで広がった“ブーム”に乗せられて? 予告編かTVで眼にしたスポットで面白そうだと思ったから? ……もしかして、やっぱりこれがジェームズ・キャメロンの作品だからなの?
もちろんこの少年が、キャメロンの『ターミネーター2』や『タイタニック』なんかを見て、幼いながらファンだってことも大いにありうる(が、ここはまぁ、先に見た友人あたりの「すんげー面白かった!」という感想にあおられ、いそがしい両親にかわっておじいちゃんにおねだりしたというところだろう)。この映画の観客の、見た、あるいは見ようと思った動機はそれこそ様々だろうけれど、やっぱりこれが「ジェームズ・キャメロン監督の映画だから」という向きも、たぶん少なくないのではあるまいか。
正直いって、ぼくはキャメロン監督にそこまで思い入れはないけれど、それでも『アバター』を見たのは、これが彼の作品だったからだ。その時も、土曜日の夜にぼくがいそいそと梅田ブルク7へと足を運んだのは、もちろん『インビクタス』が他でもないイーストウッドの映画だからなのだった。……そう、「映画を見る」ことの理由のひとつとして、この“ごひいきの、あるいは気になる監督が撮ったから”ということが大きなウエイトを占める。それは、ぼくに限らず「映画狂[シネフィル]」といわれる人種にとって当然というか、今さら議論の余地のない“了解事項[コンセンサス]”にはちがいない。
たぶんそこには、“映画は監督のもの”という考えが、シネフィルのみならず広く一般的に信じられている、ということがある。たとえそれが、「金儲け」の意向にしたがっただけの商業主義映画であっても、やはりそれは「監督」の名前のもとに語られる。ジョージ・キューカー、ハワード・ホークスなど何人もの監督が関わった『風と共に去りぬ』ですら、そこに監督名が署名されている「ヴィクター・フレミング」の作品として語られ、評価されるのだ。
映画監督は、撮影現場ではスタッフや役者たちを指揮し、脚本を手直ししたり編集に携わり、時には音楽にも口をはさみながら、1本の映画を自分の「世界観[ヴィジョン]」へと近づけ実現しようとする者のことであるーーそんな定義づけを聞かされると、人は、なるほどそういうものかと素直に納得してしまう。実際チャップリンやオーソン・ウェルズ、はてはエド・ウッド(!)にいたる「作家的」な監督(「史上最低映画の監督」エド・ウッドには、自分の撮りたい映画への「ヴィジョン」と「愛」がある。ただ、才能と予算と人材[スタッフ]が徹底して欠如していただけなのだ……)はその通りだろう。いわゆる「作家主義」とは、それをあらゆる監督に敷延しようとするものであり、1950年代から70年代にかけてすっかり定着したことが、「猫も杓子も映画作家」的な風潮をもたらしたともいえる。
『ニューヨーク、アイラブユー』とが興味深いのは、そういう「作家主義」的な立場に、当の監督自身が「否[ノン]!」を唱えているかのような映画だからだ。
日本の岩井俊二をはじめ、『鬼が来た!』のチャン・ウェン、『エリザベス』のシェカール・カプール、『ぼくの妻はシャルロット・ゲンズブール』のイヴァン・アタル、なかには『ラッシュアワー』シリーズのブレット・ラトナーや、女優のナタリー・ポートマンなど世界各地から10名の監督が招聘され、ニューヨークを舞台にした映画を撮る。しかも単に短編が並ぶオムニバスではなく、パンフレットの解説の一節にあるとおり《ロバート・アルトマン監督の『ショート・カッツ』やポール・トーマス・アンダーソン監督の『マグノリア』、ポール・ハギス監督の『クラッシュ』といった群像劇》のなかのエピソードを、各監督が分担して1本の作品として撮りあげたという体裁。ローランド・ブルームやヘイデン・クリステンセン、クリスティーナ・リッチ、ジェームズ・カーン、ジュリー・クリスティなど新旧の豪華スターが出演しているとはいえ、あくまで監督の顔ぶれというか、その名前(と、国際映画祭での受賞歴)こそが“主役”といった映画なのである。
そういう意味でまさに「作家主義」的でありながら、見終わって驚くのは、とてもこれが10名もの監督──それも「作家性」の高い監督たちによって撮られたとは思えない各エピソードの“均質さ”であり、「普通の映画」だったことだ(もちろん、ここでいう「普通さ」とは否定的な評価ではなく、むしろ賛辞に他ならない)。たぶん聞かされなければ、とても複数の監督によるものとは誰も分からないだろう。もちろんそこには、「11人目の監督」ランディ・バルスマイヤーによる、各エピソードを引き継ぎジョイントする“つなぎ”部分の巧みさが貢献しているには違いない。が、それ以上にそれぞれの監督たちが「作家性」を競うのではなく、1本の作品をまとめるための「演出家」に徹していることこそが大きいだろう。
“現代ニューヨークを舞台にしたヒューマン・スケッチ”といういずれも短いエピソードを、どう「表現する」かより、それを、いかにひとつの大きなストーリーとして「物語る」か。世界各地から集められた監督たちは、全員がクレジットに名前を与えられながら、それでも前述の『風と共に去りぬ』におけるキューカーやホークス、マーヴィン・ルロイ監督らのように、あえて「匿名性」のなかに埋没する。それでも画面からは、彼らの「個性」が否応なく現れてくるだろう。けれども、「作家の感性」ではなく、あくまで「作品の完成」をめざすそのスタンスこそ、この映画の美質であり、右も左も“作家性”を競い合うかのようなご時世にあって、「普通の映画」であることがいかに貴重なものであるかを教えてくれるものだ(……またも念のためにいっておくけれど、ここでいう「普通さ」とは決して平凡さや凡庸さのことじゃない。いかに物語に“埋没”し自分を消し得るかという、監督としての「倫理的実践」とでもいうべき困難さをへて、はじめて実現されるものが「普通の映画」なのである。中途半端な「作家性」こそ、むしろ“映画の「敵」”に他ならない)。
それぞれ誰よりも作家主義的な監督たちが、あえて「自分の映画」ではなく「1本の映画」をめざして創られた本作。これを見ると、実はあまり好みではなかった監督まで好感度が上がってしまう(……手堅いだけのつまらない「ヒットメーカー」としか思っていなかったブレット・ラトナーが、本作の監督として名前を連ねているだけでも不思議だったのだけれど、いや、ちょっと見直したぞ)。……案外「映画の未来」は、明るいのかもしれない。そんなことまで思わせてくれたこの作品に、ささやかながら感謝のことばを贈らせていただこう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?