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いつかどこかで見た映画 その157 『水俣曼荼羅』(2020年・日本)

監督・撮影・プロデューサー:原一男 プロデューサー:小林佐智子、島野千尋、長岡野亜 編集・構成:秦岳志

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 全体が3部構成で、実に6時間12分におよぶ原一男監督の『水俣曼荼羅』を最後まで見続けてきた観客は、映画の最後に一枚の字幕[テロップ]を目にする。それは「この映画を故・土本典昭に捧げる」といったもので、上映時間のあいだ様々な感情というか“情動[エモーション]”に揺さぶられ、文字どおり泣いたり笑ったり義憤にかられたりしてきた者たちは、ここで「土本典昭」の名があげられたことにおそらく誰もが深い感慨をいだくことになるだろう。
 いうまでもなく土本典昭とは、1960年代から2004年の『みなまた日記 甦る魂を訪ねて』まで数々の「水俣病」をめぐる作品を発表してきた、日本のドキュメンタリー作家の第一人者だ。特に『水俣・患者さんとその世界』から『不知火海』、『水俣病・その20年』という1970年代に撮られた一連の水俣病関連の作品は、日本はもちろん世界的にもドキュメンタリー映画史上に残る名作揃いだった。
 ぼく自身、もう40年近く前に『水俣病・患者さんとその世界』や『水俣一揆・一生を問う人々』、そして『不知火海』を見たときの衝撃と感動を、今も鮮烈に記憶している。そこには、われわれもまた水俣病というものの悲惨と苦悩、それでもなお生き抜く人々の姿を「見てしまった」ということへの“畏れ”があったように思う。それら作品は、そこに映しだされた彼や彼女たちへの同情や共感などというこちらの安易な「感傷」をきびしく拒絶し、むしろわれわれに突きつけてくるのだーー見てしまったことの「責任」を。
 ……「見てしまうと、そこになにか責任みたいな関係ができてしまう。見てしまった責任を果たすように、天の声は私に要請する」と書き記したのは、水俣病がおおやけに知られる以前から患者さんたちと向きあい、胎児性水俣病の子どもたちの療養に尽力してきた医師の原田正純氏だ。
《水俣病は鏡である。この鏡は、みる人によって深くも、浅くも、平板にも立体的にもみえる。そこに、社会のしくみや政治のありよう、そして、みずからの生きざままで、あらゆるものが残酷なまでに映しだされてしまう。そのことは、はじめての人たちにとって強烈な衝撃となり、忘れ得ないものとなる》(原田正純『水俣が映す世界』より)
 ときには「うちの子はさらしものじゃなか。おまえらはそれでも人間か」と怒号をあびながら、それでも患者さんとその家族たちにカメラを向け続けた土本典昭監督。彼にとって水俣病の実態を撮ることだけが、「強烈な衝撃となり、忘れ得ないもの」となった水俣の“現実”を前にしての、ドキュメンタリー映画作家としての「責任」の果たし方だった。だから、なんと言われようと懸命に患者さんたちにカメラを向け続け、その姿を、その声を、ぎりぎりまでクローズアップで撮り続ける。その“覚悟”こそが、これら作品を見る者にもまた「見てしまった責任」を自覚させ得るものだったのである。
 そんな土本監督の『不知火海』で、最も有名となった場面。青い海を背景にした海岸で、胎児性水俣病の少女・加賀田清子さんが前述の原田医師に、早く手足が自由に動くよう頭の手術をしてほしいと訴える。そんなことを誰から教えられたのかと問う医師に、
《少女が「自分はもうどうしていいかわからない」と言って泣きじゃくり、それに対してなすすべもなく必死にこらえる医師の苦悩をまえにしたとき、ゆるやかに少女の顔にズーム・アップしていくキャメラは、そこでふと躊躇し、動揺するのである。そして、戸惑いつつも、泣きぬれた少女の横顔に寄ってはみるものの、やはり、やりきれなくなって、そっと眼をそらして静かに左のほうへパンしてゆくと、はるかかなたまで紺碧の不知火海が白昼の陽光に照らされて透明に輝いているのだ。キャメラは、海が空にとけ込む水平線のかなたをめざして、永遠にむかって挙手するかのように、さらにゆるやかにパンをつづけてゆく。岸壁に、永遠の逆光を浴びてひとりたたずんでいるのは、もっと孤独な少女のすがたであろうか》(山田宏一『映画この心のときめき』より)
 この場面で、「永遠の逆光を浴びてひとりたたずんでいる」少女が、やはり胎児性の患者だった坂本しのぶさんであることをぼくが知ったのは、ずっと後年のことだ。そしてその坂本さんが、この『水俣曼荼羅』にも登場するのである。
 母親とともに国やチッソの責任を問いただし続け(……お母さんの坂本フジエさんは、ユージン・スミスの写真にもその姿が残されている。裁判の後の会見場でチッソの当時の社長にマイクを突きつける、あの名高い一枚だ)、その後も「水俣病」の実態を日本はもちろん国際的に訴えてきた、活動家という以上に“聖像[アイコン]”ともいうべき存在の坂本しのぶさん。そんな彼女を、原一男監督もまた自作品に“召喚”する。
 だがそれは、映画の第3部のなかで歌われるしのぶさんが作詞した『これが、わたしの人生』という曲にみちびかれるかのように、彼女がかつて“恋”した男たちを訪ね歩く(!)というもの。歌詞のなかに「いっぱい好きになって それでもぜんぜん実りませんでした」という一節があるとおり、しのぶさんは“恋多き女”だったのである。
 そんな、彼女が想いをよせた3人の男たちのところへ、映画はしのぶさんをともなって押しかける。原監督のインタビューにとまどいつつ思い出話を語る男たちと、恥ずかしそうに、それでも再会できたうれしさを隠しきれないしのぶさん。そこには、身体こそ不自由ながらいっぱい恋していっぱい泣いたり笑ったりもしてきたんだろうひとりの女性、いや「人間」の姿がある。ぼくたちは原監督らしいあけすけな質問と困ったように返答する男たちに笑いながら、坂本しのぶさんを、かつて土本監督が撮ったような水俣病との闘いを宿命づけられたあの「孤独な少女」から“解放”させたこの映画に、深く感動してしまうのである。
 また、第2部に登場する生駒さんという男性のことも、映画を見た者は決して忘れないだろう。10代半ばで発病した小児性水俣病患者の生駒さんは、今も手足の震えと視野狭窄という深刻なハンデをかかえながら、それでも結婚してふたりの子どもを育てあげた。定年後の今は船を操縦して漁にいそしむ毎日だが、身体の不自由さを努力でおぎなうその人柄はとても明るい。
 原監督の問いかけに、結婚してくれる相手がいてくれたことこそ「人生で初めてのうれしいニュース」と答える生駒さんと、結婚を決意するまでの複雑な心境を静かに語る妻。映画は、このふたりが新婚旅行で泊まった温泉旅館に夫婦を招く。そこで「初夜」の話を聞こうとする原監督と、照れながら「緊張してナニもできなかったよ」と白状する生駒さん。それでも「その気にならなかったの?」としつこく食いさがる原監督のひとコマは、もはや爆笑もののおかしさだ。
 しかし第3部で、その生駒さんが大学の研究者(……それは、第1部でも“大活躍”する浴野教授なのだが)から、英語の論文執筆のためにあらたな検査の協力を依頼されるものの、結局は拒否してしまう。そこに水俣病患者として生きる者の切実な実情と心情を見出すことも、この映画は忘れていないのである。
 もちろん本作は、「今日に至るまで、水俣病の問題は決して解決していない」という原一男監督の言葉どおり、今なお病気に苦しむ人々と、そんな人々をいまだ放置したまま幕引きをはかるというか、「終わったこと」にしようとする国や県との闘いの記録でもある。第1部の冒頭は、川上さん夫妻が起こした水俣病関西訴訟で、2004年に最高裁が「国と熊本県の責任を認めた」原告勝訴の場面だ。が、しかし国も県も判決を無視するかのように、患者認定申請を受けつけず、あげくにはわずかなカネと医療手帳による「救済法」をちらつかせて申請の取り下げをせまるのである。
 そのなかで、あくまでも訴訟のかたちで認定を勝ちとろうとする未認定患者のひとり溝口さんと、係争中に妻を亡くしながらも90歳を超えてなお国や熊本県の責任を訴え続ける川上さんの裁判闘争を、映画もまた見とどけようとする。そしてどちらも最高裁で勝訴するわけだが、その判決に多大な貢献を果たしたのがふたりの研究者の存在だ。そう、前述した熊本大医学部の浴野教授と、二宮医師である。
「こんな研究を続けていると、この県ではどこにも居場所がなくなる」などとボヤきながら原監督たちにコーヒーを淹れ続け、亡くなったばかりの患者さんの脳を“嬉々”としてプラスチック容器に入れて電車でいそいそと持ち帰る浴野教授。溝口さんの勝訴判決が出た後の集会で、酔っぱらいながら患者さんたちの感覚障害のつらさを「オマンコしてもただこすっただけ」などと涙ながらに訴える二宮医師。とにかく愛すべき人間くささと学者としての誠実さをたたえた彼らが、それまで国が水俣病の患者認定基準としてきた「末梢神経説」をくつがえして「脳の中枢神経説」を実証したことで、認定基準が大幅に見直されることになったのだった。とは言っても、それが国や自治体からないがしろにされ続けているのは先に書いたとおりだ。
 こうして、タイトルにある「曼荼羅」そのままに多彩な人物が、というかその〈顔〉が次から次へと画面に現れては消え、ふたたび現れる(……そのなかには、患者たちにむかって無感情に「お察し申しあげます」と言いはなつ厚生労働省の若手官僚や、自らを「法定受託事務執行者」にすぎないと繰りかえす熊本県知事など、悲しいくらいに卑小で誠実さのかけらもない役人たちの顔、というよりただの“面々”もいる)。撮影に15年、編集に5年の歳月をかけたというその〈顔〉のマンダラ模様を見つめているだけで、もはや6時間などまたたく間だ。ここにあるのは、土本典昭作品のような「見てしまった」ことへの畏怖の念ではなく、むしろ「もっと見続けていたい」というこれら〈顔〉への愛着の念だろう。一度観てしまったらもう忘れることができない、そんな愛しい〈顔〉たち……。そしてそういった〈顔〉の最後に現れるのが、作家の石牟礼道子だ。
 「悶え神」と題された第3部(ちなみに第1部は「病像論を糺す」、第2部が「時の堆積」)だが、それは石牟礼氏自身の言葉からとられている。田中優子の『苦海・浄土・日本 石牟礼道子 もだえ神の精神』によれば、それは「なにもできないけれど、せめて一緒にもだえて、哀しんで、力になりたいという強い気持ち」を持った人のことだという。土本典昭とともに、その著書で水俣病を世に知らしめた石牟礼氏は、2018年に亡くなっている。その晩年に撮られた病室での彼女は、パーキンソン病の震える手でお茶を淹れて原監督たちをもてなす。さらに踊っているかのように身体を震わせ、「悶え神」について訥々と語り続けるその姿、その〈顔〉。
《「水俣病を告発する会」が発足したとき、高校の先生をしている方が、「義によって、助太刀いたす」とおっしゃった。恰好いいですよね。今は、義ということがわからなくなっている。/道子はもだえの精神を「義」であり「徳義」だという。年齢も職業も立場も違う人々が差別され、苦しんでいる人たちを見捨てておけず、加勢する。闘争の声を上げつつ、互いに寄り添いあたため合う、死んだ先までも忘れ難い絆ーーそんな共同体を道子はチッソへの抗議行動の中水俣の人々とともに実際に体現した》(田中優子、同前)
 ……こうして原一男監督もまた「悶え神」となって、「見てしまった者の責任」をこの映画ではたしたのだ。

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