見出し画像

いつかどこかで見た映画 その6 『デビルズ・ノット』(2013年・アメリカ=カナダ)

“Devil's Knot”
監督:アトム・エゴヤン 脚本:スコット・デリクソン、ポール・ハリス・ボードマン 出演:コリン・ファース、リース・ウィザースプーン、アレッサンドロ・ニヴォラ、スティーヴン・モイヤー、デイン・デハーン、ミレイユ・イーノス、ブルース・グリーンウッド、エイミー・ライアン

画像1

 こと「映画」に限っていうなら、つくづくカナダというのはヘンというか不思議[ストレンジ]な国だと思う。カナディアンロッキー山脈の森と湖といった美しい自然に抱かれながら、どこでどう間違ったのか、そういう“すがすがしさ”とは正反対の、とにかくいろんな意味でアブノーマルな“濃ゆい”映画人を輩出してくれているのだ。
 その筆頭がデイヴィッド・クローネンバーグ監督であることは、まず異論のないところだろう。初期の『ラビッド』あたりのゲテモノ風ホラーから『裸のランチ』、『クラッシュ』などの異色文芸作品、近年の『イースタン・プロミス』のような特異な犯罪映画にいたるまで、その作品に一貫してただようのは、まさに“冷ややかな狂気と「変態性」”とでもいうべき感覚だ。
 そして、こちらも国際的に評価の高いアトム・エゴヤン監督。さらに、知名度こそ低いものの、一部でカルト人気を誇るガイ・マディン監督(といって、ほとんどの方にはなじみのない名前かもだが、もう20年以上前、何かの間違い(!)的に日本でも劇場公開された『ギムリ・ホスピタル』や『アーク・エンジェル』の奇態[ストレンジ]すぎる映像世界を知る人なら、ここにその名を出すのをきっと首肯していただけるはずだ……)も忘れてはなるまい。
 この、「カナダ映画の三大奇才」以外にも、『アメリカ帝国の滅亡』や『みなさん、さようなら』のドゥニ・アルカン監督や、『トム・アット・ザ・ファーム』で一躍“時代の寵児”となった新鋭グザヴィエ・ドラン、17歳で家族とともにアメリカへ移住したとはいえ、ジェームズ・キャメロン監督も出身はカナダなのだった。ーーまあ、キャメロンはこのなかにあって異色だが、たとえばスタンリー・キューブリックにも通じるその度はずれた完全主義ぶり(いや、キャメロンの場合は「誇大妄想ぶり」というべきか)など、じゅうぶん「奇人」である。
 あと、役者ではやっぱりこの人ドナルド・サザーランド! ベルナルド・ベルトルッチ監督の『1900年』における鬼畜ファシストや、フェリーニ監督の『カサノバ』等々、気色いいくらいに“変態”な役を演じて、この人の右に出るスターなどそうはいない。あるいは、クローネンバーグ監督『戦慄の絆』や、ブライアン・デ・パルマ監督の『愛のメモリー』、イーストウッドの『タイトロープ』といった、いずれ劣らぬ“変態映画(!)”でヒロインを演じたジュヌビエーヴ・ビジョルドも、フランス人かと思っていたら、カナダのモントリオール出身ということだ。なるほど……。
 とまあ、実に錚々たる顔ぶれなんだが、彼らに共通するのは(すでに何度も言及している通り)、その、端正でエレガントですらある“変態”ぶりということにつきる。といって言葉がキツすぎるなら、自らの内なる「欲望[リビドー]」を知的に表現する術にたけている、と言いかえてもいい。そんな独特の屈折したインテリジェンスこそが、ぼくにとっての「カナダの映画人」の〈本質〉であり、魅力なのである(……いくら何でも強引というか、極論すぎるやろ! というご批判は承知の上で)。
 このなかにあって、一見“変態度”が低いと思われがち(?)なアトム・エゴヤンだが、いやいや、これがどうしてけっこう凄い。代表作のひとつ『スウィート ヒアアフター』にしても、日本では感動的な「ヒューマン・ドラマ」風に宣伝されたものの、実のところそこで描かれるのは、親同士の不倫や父娘相姦などモラルと善悪の観念を喪失したおとなたちへの、アンモラルで過酷[シビア]な「罪と罰」の物語なのだった(……やさしく思いやりにあふれたように見えて、あの映画の“親=おとなたち”は、子どもたちの死が自らの「罪」ゆえに下された「罰」だったとは思いもしない。なかんずくその死をカネにしようとする彼らの姿を、しかし“喪失と悲しみからの再生”という「癒しのドラマ」風に描くエゴヤン。その何という屈折ぶり、というか何という「悪意」だ……)。
 そもそも、『エキゾチカ』や『秘密のかけら』などといったド変態(!)な映画を撮った監督が、まともなワケがないじゃないか、ということだ。ただ、エゴヤンが素晴らしいのは、その作品のどれもがきわめて「面白い」。ひたすら気が滅入る“鬱”な展開を、あたかも知的なパズルを組み立てるかのような語り口で見る者を引き込み、一見シリアスだが、実に“妖しい”世界へと誘っていくのである。その、何とスリリングで「面白い」映画体験であることか! そして、前作から4年ぶりとなるこの『デビルズ・ノット』でも、それは変わることがないだろう。
 ここで映画が描くのは、1993年にアメリカのアーカンソー州ウエスト・メンフィスという小さな町で起こった「実話」だ。ーー5月のある日、8歳の男児3人が自転車で遊びに出かけたまま行方不明になる。翌日3人は、森の中の小川で無惨な遺体となって発見。全裸にされて手足を靴ひもで縛られ、身体にはむごい暴行の跡が残されていた。
 その猟奇的な手口から、悪魔崇拝のカルトによる仕業と考えた警察は、ヘヴィメタルが好きでオカルト好きの高校生ダミアンと、その友人2人を容疑者として逮捕。ただ物的証拠はなく、容疑者のひとりジェシーの「自供」と、事件に居あわせたという男の子の「証言」によるものだった。
 全米を揺るがせたというこの事件は、容疑者の逮捕当時からさまざまな疑問や“問題”が指摘されていたという。自供したとされるジェシーは知的障害があり、警察の誘導尋問によるものだったのではないのか。あるいは、現場にいたという少年の証言にしても、警察に弱みをにぎられている彼の母親によって吹き込まれた、「作り話」だったのではないか。さらに、他の真犯人に結びつくような重大な証拠を、どうして警察は「紛失」したのか、等々……。
 こうしてダミアンたち3人のティーンエイジャーは、やがて「ウエスト・メンフィス3」と呼ばれ、ジョニー・デップやパール・ジャムのエディ・ヴァダーをはじめ各界の著名人たちによる支援表明など、世紀の「冤罪」として社会現象となっていく。が、この映画が描くのは、ある2人の人物をとおして見られた、事件の発生当日から裁判にいたるまでの、ウエスト・メンフィスという町の情景であり、人々の姿である。
 その2人とは、殺された男児スティーヴィーの母親パム(リース・ウィザースプーン)であり、調査会社を営むロン(コリン・ファース)だ。ーー愛する息子の命を奪われ、絶望と悲嘆にくれるパム。だが彼女は、裁判を傍聴するなかで、あまりにもずさんで強引な警察・検事側のやり方と、はじめから有罪と決めてかかっているかのような判事(演じるのはエゴヤン作品の常連、ブルース・グリーンウッドだ)と陪審員による裁判自体に疑問を持ちはじめる。そしてロンもまた、事件を独自に調査していくなかで、ダミアンたちが「犯人」ではないことを確信するようになっていくのだ。
 ……失われた子どもたちと、その“喪失”をめぐって繰り広げられるおとなたちの葛藤劇。とは、エゴヤン監督の『スウィート ヒアアフター』にも通じるようでいて、しかし映画の感触はまったく異なる。前述のように、子どもたちの喪失が「親=おとなたち」のモラルと彼らの“善悪の観念”を問い、告発するものだった『スウィート ヒアアフター』に対し、『デビルズ・ノット』は、何ひとつとして確たる事実がないままに「真実」がねつ造されるという恐怖だろう。それは、(映画のなかでも示唆されているように)現代における「魔女狩り」に他ならない。ダミアンたちは、「ヘヴィメタを聴くオカルト好き」というだけの理由で、町の人々から異端視され、「犯人」扱いされたのだ。
 だが……と、あらためて思う。21年前の実際の事件にもとづいたこの映画(……何といっても凄いのは、事件にかかわった当事者たちのほとんどが、今も「健在」だということだろう)を、どうしてアトム・エゴヤンが撮らねばならなかったのか、と。
 先に書いたように、エゴヤン作品は、ひとつの事件をきっかけにして揺らぐ人々の姿と、その心のひだをパズルのように交差させることで、アンモラルという以上に「背徳的[インモラル]」な世界へと誘うものだった。そしてその“淫靡”な世界は、常にある深い「悲哀」の感情をよびさますことに、エゴヤンの独創性があったのである(……「人間、このアブノーマルゆえの悲しき存在」!)。けれど『デビルズ・ノット』が“異質”なのは、ひとつの町を舞台に多くの人物たちが登場するものの、ここで交差するのはその心理ではなく、彼らがおかれた「状況」ばかりなのである。
 そこに、これまでほとんどの作品で脚本と製作を兼ねてきたエゴヤンが、ここでは監督のみに専念した(……脚本を書いたのは、『エミリー・ローズ』という異色の“オカルト映画”で知られるスコット・デリクソンとポール・ハリス・ボードマンのコンビである)という事実を思い出すべきかもしれない。ならばここでの彼は、アカデミー賞受賞スター競演による「社会派ドラマ」を撮るためにその才能(というか、「変態性」?)を買われた、単なる「雇われ監督」にすぎなかったのか、と。
 けれどぼくたち観客は、“ある一点”においてこれが、やはりまぎれもない「エゴヤン作品」であることを確認するだろう。その一点とは、コリン・ファース演じる調査会社の代表ロンの存在であり、何よりその「まなざし」だ。 
 ーー彼が無償で事件の再調査を買ってでたのは、「死刑反対論者」として10代の少年たちを極刑から救うためだという。だが、映画の冒頭近く、カフェのテレビ中継でロンは、モニターに映しだされる息子を殺された母親パムの姿をはじめて目にする。いや、確かにじっとみつめる。そうして事件にかかわることを決意し、現地での調査に乗り出したロンだが、それからも彼はことあるごとに彼女をひそかにみつめ続けるのである。まるで、この女性をみつめることこそが、ここにいる“真の理由”であるかのように。
 その「まなざし」の理由を、映画は語らない。しかし愛情や憐憫とも違う、どこか“不穏”ですらある「まなざし」に、ぼくたちはたとえば『エキゾチカ』で少女ストリッパーにむけられた男たちの、『スウィート ヒアアフター』で娘にむけられた父親の、その他エゴヤン作品におけるあれら「まなざし」を、想起せずにはいられないだろう。
 ……そう、やっぱりここでもアトム・エゴヤンは、本質的にアブナイ“「欲望の人」”だったのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?