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いつかどこかで見た映画 その18 『ゲンボとタシの夢見るブータン』(2017年・ブータン=ハンガリー)

“The Next Guardian”
監督:アルム・パッタライ、ドロッチャ・ズルボー

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 ブータン王国と映画とのかかわりといっても、正直なところぼくはほとんど何も知らない。せいぜいベルナルド・ベルトルッチ監督の『リトル・ブッダ』のロケ地として、有名なパロ・ゾン城塞などを目にしたことがあるくらいだ。
 あと、ブータン人のケンツェ・ノルブ監督が撮った『ザ・カップ/夢のアンテナ』という作品もあったけれど、舞台となるのは北インドの山深いチベット寺院で、亡命チベット僧と修行僧たちのお話しなのだった。しかもこの作品、『リトル・ブッダ』と同じジェレミー・トーマスが製作していることもあってか、監督以外の主要スタッフはほぼ英国勢。作品そのものは、実に愛すべきウエルメイドな佳編だったけれども(……ところで、実際に徳の高いお坊さんでもあるこのケンツェ・ノルブ監督はその後も映画を撮っており、最近では『ヘマヘマ 待っている時に歌を』という作品が、昨年(2018年)の大阪アジアン映画祭で上映されている。が、ぼくは残念ながら見逃してしまったーートニー・レオンやジョウ・シュンも顔を出しているというのに!)。
 だから、ともにこれが長編第1作となるブータン人のアルム・バッタライ監督とハンガリー人のドロッチャ・ズルボー監督が共同で撮った『ゲンボとタシの夢見るブータン』は、正式に日本公開されるほぼはじめての“ブータンを舞台にした「ブータン映画」”ということになる。正確にはヨーロッパやアジア各国の6つの財団から支援と資金援助を得た、「ブータン=ハンガリー」合作映画なのだが、とにかくブータンの母国語「ゾンカ語」で撮られた映画であることは間違いない。そしてこれが、予想をはるかに超えた素晴らしい作品なのである。
 舞台となるのは、チベットとも国境を接する標高2500メートル以上の中部ブムタン。伝統的な寺院が数多く残され、ブータン王国のなかでもチベット仏教文化が色濃い地方だという。
 そんなブムタンを代表する仏教寺院のひとつチャカル・ラカンで、両親や、年の離れた小さな弟と暮らす16歳のゲンボと15歳のタシ。妹タシは、サッカーの代表チーム入りをめざして、ひとつ上の兄ゲンボと練習に明け暮れている。自分を「男」だと思っているタシにとって、歳がひとつ違いの優しい兄の存在は大切な心のよりどころだ。
 一方、兄妹の父親テンジンは寺院の継承問題に頭を悩ませている。後継者がいないとなれば代々受け継いできた寺院が没収され、一家の財産をすべて失うことになるかもしれない。そのためにも長男のゲンボには、すぐにでも街の学校を辞めて僧院学校へ入り、自分が果たせなかった立派な高僧[ラマ]になってもらいたいと考えている。在家僧侶であるテンジンは、自分が出家できなかったことを今も悔いているのだ。
 もっとも妻のププ・ラモは、「これからは外国人にも寺の説明ができるよう、ゲンボにはもっと英語の勉強をさせなくては」と、夫に釘を刺す。「学校の卒業をまってから、あらためてゲンボに進路を決めさせればいい」と。それでもテンジンは寺院の伝統や作法をゲンボに教え、出家僧侶となってこの寺を継ぐようことあるごとに説教と説得をやめない。
 ……ブータンといえば、インドと中国にはさまれたヒマラヤ山脈のふもとに位置し、1991年の国連加盟まで鎖国政策をとっていた“秘境”であり、GNP(国民総生産)ならぬGNH(国民総幸福量)をとなえる「幸福の国」というイメージが一般的だろう。実際この映画でも、雄大な山々に抱かれた街並みの景観や、昔ながらの美しい家屋のたたずまい、ブータン最古の寺院で催される華やかな祭り「ジャンパ・ラカン・ドゥブ」をはじめ、われわれの思う“ブータンらしさ”といった映像を目にすることができる。
 が、あくまでそれらは“背景”であって、常にカメラの前景にあるのはゲンボとタシ、そしてその家族の姿だ。ーースマホで友人たちとつながり、ギターをつまびき、ヨーロッパのサッカー中継やテレビゲームに熱中するゲンボ。タシはといえば、女の子らしい色の服を嫌い、髪の毛を短く刈りあげてサッカーの練習に明け暮れ、スマホで撮った女の子の画像を兄に見せては、「可愛い子だろ? ガールフレンドを作って楽しんだほうがいい。出家して結婚もできない人生なんてつまらない」とけしかける。
 そこから見えてくるのは、彼ら兄妹に代表される西洋文化の波を享受する若い世代と、昔ながらの信仰と伝統を守ることが大事だとする父親たちの世代の、隔たりというか“溝”だ。ひいては、急激な近代化によって変貌する「幸福の国」ブータンの“現在(いま)”こそを、この家族を通して映画は浮き彫りにしていくのである。
 さて、女子サッカーの代表チーム入りをめざして、選手選考の合宿に参加したタシ。すぐに他の参加者とも打ち解けるタシだったが、選考のための試合でミスをかさねてしまう。
 一方のゲンボは、父親テンジンに連れられて僧院学校を見学にいく。ゲンボはあきらかに迷惑そうだが、父のテンジンはまるで意に介さない。僧院学校に着いたゲンボは、さっそく修行中の生徒たちに「ここはWi−Fi(ワイファイ)つながるの?」とたずねる。「平日の修行中以外ならね」との返事に、少し安堵するゲンボ(……しかし、僧院学校にまでネット化の波が押し寄せていたとは!)。その頃テンジンはといえば、教師のひとりに「今は昔と違い、自分の将来は自分が描く時代だ。子どもたちの夢や希望も昔とは違う。出家を強制すると彼らの将来を壊しかねない」と、逆に諭されてしまう。落胆するテンジンだが、もちろんそんなことでめげることはない。
 ……自分のことを「男」だと思っているトランスジェンダーなタシと、家督を継ぐため僧侶になることを期待されているゲンボ。まだ16歳と15歳だというのに、兄妹は早くも将来に対する葛藤や“問題”に直面している(……もっともまだ少女のタシにとって、本当の“困難”に直面するのはもう少し先かもしれないが)。そんなゲンボとタシに、国や文化の違いを超えてわれわれは深い共感と愛情をおぼえずにはいられない。彼らもまた、ふだんはサッカーを愛し、テレビゲームやスマホに夢中などこの国にもいるティーンエイジャーに他ならないのだから。
 と同時に映画は、この兄妹の父親テンジンに対しても、あきらかに「好意[シンパシー]」をもったまなざしを向けている。ゲンボにとって将来を勝手に押しつけてくる強権というか抑圧的なオヤジでも、それは長男であるゲンボの幸せと、代々受け継いできた一家の寺院にとって最良の選択だと信じているがゆえだ。長女のタシに対しても、「もう少し服装や家事に気をつかったらどうだ」と小言を言いつつ、娘は「前世が男の子だったから」と、トランスジェンダーであることをすんなりと受け入れている。どうやら妻には頭が上がらず尻に敷かれ、祭りとなれば誰よりもはりきって寺院に代々伝わるという仮面をつけ、嬉々として道化役を演じるテンジン。その風貌や人間味[キャラクター]を含め、まるで戦前の小津安二郎監督による一連の「喜八もの」の坂本武を想起せずにはいられないテンジンを、われわれ観客もまたどうしても憎めないのである。
 彼ら3人に、母親のププ・ラモや幼い弟トブデンを含めたこの実に愛すべき家族の肖像を、ブータンとハンガリーのふたりの若手監督は、決して好奇の目や「民族(=俗)学」的な観察対象としてではない“親密さ”によって見つめていく。前述したように、ブータンならではの風光や家々のたたずまい、チベット仏教による伝統行事などの映像に彩られながら、ここにあるのは、個性的だがどこまでも普遍的な「子供たち」と「親たち」それぞれの愛情と、それゆえの葛藤がおりなす心情の“揺れ動き”に他ならない。彼らひとりひとりの心の機微は、日本人の観客であるわれわれにもいたいほどわかる。だからこそ、ぼくたちはゲンボやタシ、そしてその家族たちを愛さずにはいられないのである。
 ……ところで、ぼくはここまでこの映画が、「ドキュメンタリー作品」であることを書かなかった。なぜか? 何よりぼく自身が、本作を見ながらこれが「ドキュメンタリー作品」であることを忘れていたからーーというか、いつしかまったく意識しなかったからだ。おそらく何も知らずにこの映画を見たなら、ほとんどの観客はこれがブータン現地で素人の人々を起用して撮った「劇映画[ドラマ]」として受けとめるのではないか。「ドキュメンタリー」に“〈事実〉を記録する”という意味があるなら、本作にあって〈事実〉は、あきらかに「記録」よりも「再現」もしくは「再構成」されたものであるからだ。
 映画の冒頭、ダルシンと呼ばれる経文が書かれた旗が何本をはためくなか、ゲンボとタシはサッカーボールに興じている。チベット仏教の伝統的な風習と西洋近代とが交差する、本作を見事に象徴する場面。しかし、その「見事さ」こそが、そこに〈演出〉の介入を感じさせるのも確かだろう。これは、映画の撮り手(というか、演出家)がこの場所に兄妹を立たせ、彼らにサッカーボールを蹴らせなければ撮れないような場面なのである。
 あるいは、ゲンボに対して父のテンジンは繰り返しくどくどと説教する。その何度目かの場面で、いつもと同じような父親の繰り言についウトウトとしてしまうゲンボ。その“くどくど”と“ウトウト”を演じた(としか思えない、カメラで撮られているというのにその驚くほどの「自然さ」よ!)両者の姿を、本作はカットを割って示す。この、劇映画のような切り返しの「自然さ」もまた、ドキュメンタリーとしては「不自然さ」に映る。そしてこの映画は、そういった「切り返し」あるいはそう見えるショットを他の場面でも多用しているのだ。
 逆に言うなら、だからこそ本作はドキュメンタリーとしてかまえるんじゃなく、ゲンボとタシという兄妹の「青春ドラマ」として、さらには(何度もいうが「喜八もの」の坂本武そっくりな!)父親テンジンやその妻のププ・ラモ、末っ子トブデンにいたる、いずれも十二分にキャラの立った家族=登場人物の配置も申し分がない「ファミリードラマ」として見ることができるだろう。ブータンという舞台の魅力もあいまって、それはそれで「映画」として実に興味深く“面白い”のである。
 そのうえでこの映画は、かつてアメリカの伝説的な記録映画作家ロバート・フラハティ監督が1926年に撮った記念碑的作品『モアナ』評のなかで、はじめて〈ドキュメンタリー映画〉という呼称を与えた英国のジョン・グリアソンの定義にある、「人間の発見と生活の調査、記録、そしてその肯定」の精神(こころ)を忘れることがない。「現実[アクチュアリティー]の創造的劇化」(グリアソン)という意味で、この上映時間74分というささやかで愛すべき作品は、フラハティから小川伸介、フレデリック・ワイズマンにいたる「ドキュメンタリー映画」の偉大な系譜に見事に連なるものだーーと、ぼくは確信するものだ。
 ……今ごろゲンボとタシの兄妹は、そしてあの一家はどんな人生を歩んでいるんだろう。「続編」が見たいものだなぁ。

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