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いつかどこかで見た映画 その190 『蛇の道(2024)』(2024年・フランス=日本=ベルギー=ルクセンブルク)

“Le chemin du serpent”
監督・脚本:黒沢清 原案:高橋洋 撮影:アレクシ・カビルシーヌ 出演:柴咲コウ、ダミアン・ボナール、マチュー・アマルリック、グレゴワール・コラン、ヴィマラ・ポンス、スリマヌ・ダジ、靑木崇高、西島秀俊


 黒沢清監督が自作を「初のセルフリメイク」したという、柴咲コウ主演のフランス・ベルギー・ルクセンブルクとの合作映画『蛇の道』を見るにあたって、哀川翔と香川照之主演のオリジナル版をひさしぶりに再見した。
 黒沢監督の弁によれば、《まず、『復讐』Ⅰ、Ⅱと、ビデオでは『修羅の極道 蛇の道』、『修羅の狼 蜘蛛の瞳』となっているものは、『復讐』Ⅲ、Ⅳとして作られるべきものだったんです》と、その前年に同じ哀川翔主演で撮られたVシネマ『復讐 運命の訪問者』と『復讐 消えない傷痕』の2部作の流れで撮ったということになる。そして《大々的に日常風景を取り入れた『復讐』Ⅱ(『消えない傷痕』)で、(中略)これはこれで面白いことだという実感を得たんです。さらに調子に乗ってやったのが『蜘蛛の瞳』で、フィルモグラフィ的には間に『CURE』が挟まっています。『CURE』は後々海外で受けることになるわけですが、僕の中では一連の流れの中で作った五本の中の一つだったんです。世紀末に向かって、どこか破れかぶれだったのかもしれません》ということだ(以上、引用は『黒沢清の映画術』より)。
 黒沢清監督の代表作の1本である映画『CURE』が、この一連のオリジナル・ヴィデオ作品(もっとも『蛇の道』と続編の『蜘蛛の瞳』は、小規模ながら劇場で公開された)の“所産”だったということなんだが、確かに予算や撮影日数などの制約があっただろうけれど、それでも『CURE』の直後に撮られた『蛇の道』の完成度の高さは、いま見ても尋常ではない。撮影監督・田村正毅による映像[ショット]は、うねうねと上下し蛇行する(まさに「蛇の(ような)道」!)住宅街の道路を走る車のオープニングからすでに不穏さを醸しだし、車内でぼそぼそと会話する哀川翔と香川照之は、ここで早くも、もはや半分この世のものではない(!)かのような気配を漂わせている。この時期まさしく「映画作家」としての最初の“ピーク”を迎えつつあった黒沢監督だが、ここでも見るものは、いやおうなしに“ザ・黒沢清”の世界のまっただなかへと誘われるのである。
 そして繰りひろげられる、香川照之扮する8歳の愛娘を惨殺された父親・宮下と、哀川翔が演じた謎の“塾”講師・新島とによる「復讐劇」。もっとも、ふたりが容疑者とおぼしきヤクザたちを次々と拉致・監禁してのそれは、陰湿かつ陰惨極まりない、それでいてどこかたちの悪い冗談めいてもいる。その後も次々と死体の山が築かれるものの、それらの“死”はあっけないほど即物的かつ無機質で、死んだ男たちの屍(しかばね)は恐怖というよりむしろ“滑稽感”をすら漂わせているだろう。こうしてわれわれ観客は、最後には底なしの“虚無”をのぞき込んでしまったかのように茫然自失となりながら、ただただ言葉もなく映画を見終わることになるのだ。
 さて、それから26年を経て、舞台をフランスに移してのリメイク版『蛇の道』。一部の設定は改変しているものの、展開そのものは意外なほどオリジナルの98年度作品に忠実なものとなっている。
 映画の冒頭、どこかスピルバーグの『ミュンヘン』における最初の暗殺場面を思わせるアパルトマンの1階ロビーで、待ちぶせていたひとりの男を拉致するひと組の男女。スタンガンで男を気絶させ、車のトランクに押し込んでふたりが連れてきたのは、街のはずれにある工場跡地のような廃墟だ。
 捕らえた男の両手足を鎖につないでから、誘拐犯の男はモニターを運んできてスイッチをいれる。そこに映し出されたのは幼い少女のホームヴィデオで、男は「ぼくの娘だ、殺された」と告げる。さらに紙を取りだして、「マリー・バシュレ、8歳。……」と、あまりにも凄惨かつ残酷な殺され方をした娘の聞くにたえない検死報告書を何度も読みあげるのだ。
 娘の父親である男の名前は、アルベール・バシュレ(ダミアン・ボナール)。彼は、拉致した男に「おまえが殺した、そうなんだろ」とつめ寄る。「私はやってない、何のことだかわからない!」とわめくその男は、ミナール財団の元会計士ラヴァル(マチュー・アマルリック)だ。アルベールと、彼の協力者である日本人女性・新島小夜子(柴咲コウ)は、アルベールの娘が財団関係者によって惨殺されたことを確信していた。あくまで関与を否定するラヴァルに思わず拳銃を突きつけるアルベールだったが、小夜子に制止される。そのかわり小夜子がラヴァルにむかって威嚇射撃し、「いくら叫んでも助けはこない」と言い放つのである。
 それからも、トイレに行かせてくれと懇願するラヴァルを放置し、失禁したら容赦なくホースの水をかける小夜子。彼女は食事をアルベールの目の前でぶちまけて、地面に散らばった料理を食べさせる仕打ちもくわえる。どうやらすべて小夜子が主導となってのこの復讐計画に、アルベールは「きみまで巻き込んでしまったが、すべてサヨコのおかげだ」と感謝するだろう。──小夜子は心療内科の医師で、3か月前アルベールは彼女の勤務する病院に通院していた。そこで小夜子が、娘の死による深いショックから立ち直れないでいる彼に声をかけたのがすべてのはじまりだった。その後のお膳立ては、すべて彼女が手筈をととのえたのである。
 やがて何日かして、ラヴァルからある“事実”が告げられる。アルベール自身もミナール財団に在籍していたことを、彼は思いだしたのだ。アルベールは、「自分はジャーナリストで、財団の実態を取材していた」ことを小夜子にはじめて告白する。
 さらにラヴァルは、「ミナール財団には有志たちがつくった児童福祉目的のサークルがあり、そこで孤児たちを人身売買していた。そして売れない子どもたちは“始末”していたらしい」と、事件の核心にふれることを口にする。その秘密をアルベールが知って外部にもらそうとしたために、おまえの娘は殺されたのではないか。そして、「そんなことができるのは、財団の最高幹部だったピエール・ゲラン(グレゴワール・コラン)しかいない」と言うのである。
 ゲランの名前を聞いて、はげしく動揺するアルベール。どうやら彼はゲランのことを知っていて、とても怖れているようだ。しかし小夜子に説得され、いまは財団から身を引いて山小屋で隠遁生活をおくるゲランのもとへ向かう。そこで彼を拉致し、ゲランの友人である猟師からの追撃をからくも逃げのびて、ラヴァルの横にゲランもまた鎖で監禁する。彼にも娘のヴィデオ映像を見せながら、検死報告書を淡々と読みあげるアルベール。小夜子もゲランに対して、ラヴァルと同じように非人間的な仕打ちをくわえる。
 あくまで身の潔白を主張するゲランだったが、彼はアルベールにかなり目をかけてやっていたことがわかってくる。アルベールは、やはり財団の何らかの仕事を請け負っていたのだ。そんななか、小夜子はゲランとラヴァルにある“提案”をもちかける。だれか適当な人物を娘殺しの「真犯人」に仕立てあげて、頭のおかしいアルベールに信じさせればいい。そうすればこの異常な“茶番[ゲーム]”からも解放されると。
 だがそれも、事件の背後にひそむさらなる「真実」をあぶりだすため、小夜子が仕組んだ新たな“罠[ゲーム]”だった……。
 それにしても、と見るものは思うだろう。なぜ小夜子は、そこまで他人の復讐に加担するのか? オリジナル版における、存在そのものが“謎”だった哀川翔の「新島」にくらべても(……大人から子どもまで年齢も性別もバラバラな生徒たちに、どうやら世界の秩序(!)をつかさどる数式もしくは「方程式」を説いている新島。その教室に通うなかで、とりわけ新島が目をかけている「8歳の少女」がまた“意味深”で、怖い)、日本にいる夫(靑木崇高)と離れて、単身フランスで医師として働く「新島小夜子」の、その“真の動機”が観客には見えてこないまま、劇[ドラマ]は進んでいく。
 ただ、映画のなかで終始冷静だった小夜子が、憎しみの感情もあらわに「死体」を何度もナイフで突き刺す場面が登場する。そのとき観客は、はじめてそこに彼女の「人間的」な面をかいま見るだろう。
 あるいは、病院内の場面。異郷の地で重度のノイローゼにおちいっている日本人・吉村(西島秀俊)は、処方してもらった薬がぜんぜん効かなかったことで小夜子を非難する。小夜子は日本に一度帰国することをすすめるのだが、「日本に戻ったら、いよいよぼくは終わりです」と吉村。そんな彼に、小夜子は「本当に苦しいのは“終わらない”ことでしょ。吉村さん、あなたならできます」と告げるのだが、その言葉に「そうですね」と答えた彼は、自殺してしまうのだ。
 ここでもぼくたちは、『CURE』における、人びとを殺人へと駆りたてるあの「暗示」をふと想起する。が、吉村の死を悲しむ下宿先の婦人に、「彼は真のやすらぎを得た」とやさしく諭す小夜子には、『CURE』の萩原聖人が演じた青年のような「人間ならざるもの」感はみじんもない。……このリメイク版における「新島小夜子」は、最後まで何を考えているのかわからないオリジナル版の「新島」のように、決して不条理そのものといった「怪物」ではないことがわかるのである。
 監督の黒沢清は、日本外国特派員協会の記者会見のなかでこう述べている。《(オリジナル版について)復讐というシステムに人々が次々と取り込まれて抜け出せなくなる。そしてどんどん破滅していく、すさまじい物語。主演の哀川翔さんが演じた男は、彼だけが復讐のシステムの外側にいるような感じがありました。そのシステムを操っている神のような、悪魔のような、人間とは思えない恐ろしい存在。これは(脚本を書いた)高橋洋テイスト》であり、それに対して今回のリメイク作では、あくまで主人公が「怪物ではなく人間」であることをめざしたいう。
《最初に考えたのは、男か女かという以前に、復讐の外側ではなく中心にいて、それに絡め取られながら一歩も抜け出せずにいる主人公。怪物ではなく人間です。恐ろしい人間でもあるけど、哀れでもある。そういう弱さもある人間として、もう一度、捉え直すことができないだろうか。それが脚本を再構成したときに考えた最初のテーマでした。》(以上、引用はウェブサイト「映画ナタリー」6月6日付記事より)
 ……もっとも、オリジナル版の『蛇の道』はもちろん、自身が脚本も書いた『CURE』や『カリスマ』にしても、かつての黒沢清自身が「世界や社会がいやおうなく“破滅”に向かうシステム」そのものを描き続けてきたのではなかったか。それゆえ彼の映画は、ホラーであろうと、アクションや人間ドラマであろうとつねに「終末論」的な色合いを帯びるものだった。そしてそのなかで、主人公は最後にただひとり「システムの外側」にとり残される。彼または彼女たちは、「人間ならざるもの」として虚無に、もしくは絶対的な〈孤独〉のなかにひとり屹立するのである。
 それを21世紀ヴァージョンの『蛇の道』において、ふたたび「人間」として描き直そうとした黒沢清。そういえば『スパイの妻』にしろ『旅のおわり 世界のはじまり』にしろ、近年の黒沢清作品は戦争や異国という「世界(=システム)の外側」に投げ出された女性[ヒロイン]たちが、そのなかで「人間」として“回復”するまでの物語ではなかっただろうか。
 そしてこの最新作でも、小夜子のさらなる“復讐”の継続を予感させて映画は終わる。──ワレ復讐スル、ユエニワレ在リ。たぶん彼女もまた、こうして復讐することによってふたたび「人間」として“回復”できた/できるのである。
 ……このラストに、オリジナル版とはまた違う意味で見るものは“震撼”させられる。そして、あらためてこの映画が黒沢清の「現在」をより鮮明に指し示すものであることを、ぼくたちは深く納得するのである。

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