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いつかどこかで見た映画 その52 『ブラックブック』(2006年・オランダ)

“Zwartboek”
監督:ポール・ヴァーホーベン 脚本:ポール・ヴァーホーベン、ジェラルド・ソエトマン 出演:カリス・ファン・ハウテン、トム・ホフマン、セバスチャン・コッホ、デレク・デ・リント、ハリナ・ライン、ワルデマー・コブス、ミキール・ハースマン、ドルフ・デ・ヴリーズ、ピーター・ブロック、ディアーナ・ドーベルマン

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 どうやら批評・興行ともにパッとせずに早々と消えてしまった感があるけれど、ポール・ヴァーホーベン監督『インビジブル』の続編で、今回ヴァーホーベンは製作総指揮にまわっての『インビジブル2』は、正調SFスリラーとしてかなりイイ線いっていたと思う。
 確かにスケールは1作目に比べても格段に落ちるし、役者も小粒だし(唯一名の通ったスターであるクリスチャン・スレーターなんぞ、実質的に数分間だけの出演。まあ“主役”といっても透明人間だしねぇ)、SFXによる派手な見せ場もほとんどなし。それでも、透明化させられた兵士が繰り広げる殺戮の動機づけ(……軍に敵対する要人を暗殺するために透明人間とされたものの、死に至る副作用を抑える薬を投与されなかった兵士。自分を裏切った将軍への復讐と、薬を開発した女性化学者をつけ狙うことは、なるほど彼にとって「正当」な行為であり、裏切られた者としての“必然”である)や、街なかでの透明人間の暴れっぷりと人々のリアクションなど、実にキチンと作り込んでいる。このあたりの面白さは、これが1作目『インビジブル』の続編というより、むしろH・G・ウェルズにはじまる〈透明人間もの〉の正当なる継承をめざされたものであること。そんな「カテゴリー意識」に、作り手たちが自覚的であることゆえのものであるだろう。監督のクリスチャン・ファエはこれが長編2作目だが、その名前はぜひ記憶しておいた方がいい(……そのデビュー作『エル・コロナド/秘境の神殿』は未見だけれど、『ロード・オブ・ザ・リング』あたりというより、1950年代風の秘境冒険活劇といったテイストであるらしい。うむ、ぜひ見てみたいものだ)。
 しかしこの『2』を見て今更ながら思うのは、ポール・ヴァーホーベン監督による1作目が、あまりにもいい加減というか、つくづく「アホな映画」だったということでありましょう。あそこで作品がやっていたのは、結局のところ、透明化する過程で筋肉や内臓、骨が露出するというグロ趣味と、透明になると人間(というか、男)がやることはひとつだろ、といった出歯亀(!)趣味を発散させること、ただそれだけだったのではあるまいか。まったくのところ、SFスリラーというより、正しく「覗き部屋[ピープショー]」的なキワモノだったのである。
 もちろん、それこそがヴァーホーベン監督の“本領”であることを、ぼくもまた知らないワケじゃない。アメリカに渡ってからのヴァーホーベンは、出世作『ロボコップ』をはじめ、『トータル・リコール』や『スターシップ・トゥルーパーズ』などのSF大作で名を成した。その一方で、『氷の微笑』や、あの悪名高い(?)『ショーガール』において実に扇情的なエロ・グロ趣味をまき散らし、大いにヒンシュクを買ったりもする。前述のSF作品にしても、鬼畜にも劣る残虐な悪党(『ロボコップ』)やら、奇形[フリークス]化した人間たち(『トータル・リコール』)やら、果ては昆虫星人たちとの戦闘で人の手足や首がすっ飛ぶ一大スプラッター場面の連続(『スターシップ・トゥルーパーズ』)やら、こちらは“暴力描写”においていろいろやらかしているんである。なるほど、確かに「過激なエロスとヴァイオレンスの巨匠」とも、「バカ映画の変態監督」とも称されるのも、むべなるかな。
 けれどヴァーホーベンの映画は、一見すると男の低次元な欲望[リビドー]だけで成立しているかに思えて(いや、まあ、それは間違いないところなんだが)、はっきりとそれを自ら笑いとばしているところがある。人間というか、男なんてこんなもんさと、そのリビドーの悲しき発露(?)を、おおらかに笑い、認めてしまうのである。だから、彼の映画のなかの男たちは、誰もが「ダメな野郎」どもであり、その“ダメさ”において実に「人間くさい」のだ。……変わり果てた姿をさらけ出せず、遠くからかつての妻を見つめてナミダする『ロボコップ』のピーター・ウェラーにしろ、仮想世界で「別人」になろうとしたことがそもそも物語の発端だった『トータル・リコール』のアーノルド・シュワルツェネッガーにしろ、SF大作の「ヒーロー」でありながら、ヴァーホーベン映画にあってはどこか“トホホ感”が否応なくつきまとってしまう。だがそれこそが、他のメイド・イン・ハリウッドな大作映画にはないヴァーホーベンならではの“持ち味[テイスト]”なのである。 
 その一方、男たちのリビドーにまみれたその“お下劣”な世界のなかで、逆に女たちは実に生き生きと〈生(=性)〉のエナジーを発散させていく。『ショーガール』でのストリップ劇場のように、女たちは男どもの欲望の対象であり単なる〈商品〉にすぎないかに見えて、彼女らは逆にそういう男どもを“食いもの”にしている。汚辱にまみれることで、彼女たちはよりいっそう輝きだすのだ。同様に『トータル・リコール』でシュワルツェネッガーを“食った”シャロン・ストーンは、『氷の微笑』で映画のなかのマイケル・ダグラスたちばかりか観客までをも“食った”ことでスターダムにのし上がったのだった。
 ……だから『インビジブル』が、最終的にバカ映画ですらない単なる「ダメ映画」でしかなかったのは、そんなヴァーホーベン的なリビドー世界にあって、ヒロインを演じるエリザベス・シューが〈生(=性)〉的な輝きに乏しすぎたことこそに問題があったというべきだろう。彼女が悪いというより(まあ、せめてハダカのひとつくらい見せてくれていたなら、とは思うが……)、エロもヴァイオレンスも盛り込み放題といったいかにも自身にピッタリの題材でありながら、あの映画にあってはヴァーホーベン監督の「リビドー」があきらかに低下していたのだった……。
 そうしてヴァーホーベン監督は、アメリカを去って母国オランダに帰還する。本人いわく、《『インビジブル』(原題は「Hollow Man」)を撮っていた時の私は、タイトル通り“空虚[ホロウ]”な状態で、スタジオの奴隷にすぎなかった。だから、自分の魂を救うために本国で撮ったのが、この『ブラックブック』なんだ》(来日会見での発言より)。
 ……第二次世界大戦下のオランダを舞台に描かれる、ひとりのユダヤ人女性の波乱に満ちた日々。逃亡中に家族を虐殺された元歌手のラヘルは、レジスタンスに加わる。素性を隠してナチスの将校に接近するなか、彼女は、自分の家族たちを死地に追いやった裏切り者の存在に気づく。しかし更なる裏切りによって、彼女はレジスタンスの裏切り者に仕立て上げられてしまう。
 実話をベースにしたというこの映画、物語だけなら何ともシリアスな“戦争秘話=悲話[メロドラマ]”としてうつる。過酷な状況のなかを生き延びていき、憎むべき敵であるナチスの将校を本気で愛してしまうユダヤ人のヒロイン像は、どこかライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督の『リリー・マルレーン』にも通じるものがあるだろう。
 けれどヴァーホーベンは、やっぱりヴァーホーベン以外の何者でもなかった。まずこの映画は、文句なしに面白い。悲惨な物語であり展開であるはずなのに、不謹慎(!)なまでに「面白すぎる」んである。何故ならここでは人の死も、人間の善意に対する裏切りも、すべてが「面白さ」のための“道具”でしかないからだ。
 ヒロインを襲う、数々の不幸や屈辱も(……後半、彼女は「ナチに荷担した裏切り者」として、オランダ人たちによって糞尿まみれにされてしまう。この場面の撮影中、その光景をキャメラの後ろから喜悦にまみれて見つめるヴァーホーベン監督の姿がありありと眼に浮かぶかのようだ)、母国オランダのレジスタンス史の暗部も、それらは戦争という極限状況下における人間性の卑小さや醜悪さを露悪的なまでにさらけ出しつつ、しかしなおそれを滅法面白い「見せ物」として観客の前にさし出す。ーーこれぞまさに「ヴァーホーベン映画」の真骨頂ではないか! しかも、自らの受難[パッション]を文字通り“情熱的[パッショネイト]”に生き抜くヒロインの、悪と欲望と汚辱にまみれた世界にあってこそますます輝きを増していく姿は、これもまたヴァーホーベンならではのものだ。
 かつて、アメリカに渡る前にヴァーホーベンが撮った、全編にわたって男女のハダカと排泄物だらけの、しかし実に実に「感動的」な『ルトガー・ハウアー 危険な愛』。人間(特に「男」)とは所詮「リビドー」だけの下品な生き物であり、だからこそ「面白い」のだというこの監督の〈哲学〉が、ふたたび本国で作り上げた『ブラックブック』で十全に開陳されたことを、(たとえ、必ずしもあなたの「趣味」ではないとしても)ここはぜひとも祝福しようではないか。
 お下劣に、栄光あれ!

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