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いつかどこかで見た映画 その84 『美しい星』(2017年・日本)

監督:吉田大八 脚本:吉田大八、甲斐聖太郎 原作:三島由紀夫 撮影:近藤龍人 出演:リリー・フランキー、亀梨和也、橋本愛、中嶋朋子、佐々木蔵之介、羽場裕一、春田純一、若葉竜也、藤原季節、赤間麻里子、川島潤哉、板橋駿谷、樋井明日香

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 冒頭からいきなり断言というか、勝手に“宣言”させていただく。吉田大八監督の最新作『美しい星』はまぎれもない傑作である。何よりこの映画、素晴らしく面白い。ただ「面白さ」だけでいうなら、今年(2017年)の日本映画でこれを超えるものなどあり得るんだろうか。まったく、あの原作小説から、いったいどうやったらこれほどスリリングで手に汗にぎる展開と爆笑に満ちた映画ができあがるのかと、見終わってしばしぼう然となってしまう。そして、ただちにもう一度見たくなってしまうのだ。
 何を大げさな、とおっしゃるなかれ。ぼくはまったく本気であり、今までにないほど真摯であり、どこまでも真剣なのである。たとえ、この後の文章がいかに「つまらない」ものであっても、それは単にぼくという書き手の無能さの結果にすぎない。ーーと、「本当に言いたいこと」を言ったところで、さっそく本題に入ろう。
 その作品をたとえ読んだことがなくても、「三島由紀夫」という名前は誰もが知っているだろう。戦後日本を代表する作家のひとりであり、ノーベル文学賞候補にも挙がった文豪。一方で「武士道」と戦前の皇国主義的な思想活動にのめり込み、1970年11月25日に自衛隊の市ヶ谷駐屯地で、自衛官たちの決起[クーデター]を呼びかけた後に割腹自殺をとげるという衝撃的な最期でも歴史に名をとどめている。
 ともすれば日本やギリシャの古典世界への憧憬に根ざした明晰かつ絢爛たる文体や(……たとえ現実に起こった「三面記事」風の卑俗な事件や人物を題材にした場合でも、三島にかかればそれはあたかも一編の叙事詩であり「悲劇」であるかのようだ。『青の時代』しかり、『獣の戯れ』しかり)、明治期の鹿鳴館文化に代表される「貴族趣味」ばかりが取りざたされる三島文学。一方で『夏子の冒険』や『美徳のよろめき』、『肉体の学校』等々といった読み物風の「風俗小説」でも達者なところをみせてきたこの作家にあっても、1962年に発表した『美しい星』は、《明治以来の日本の近代文学にかつてなかった型破りの小説であり、三島文学の系列の中でも異色の作品である》と評されてきた。なぜならそれは、《純文学の世界に、宇宙人とか、空飛ぶ円盤とか、いわばいかがわしいものを持ち込んだ》からに他ならない(引用は奥野健男氏による文庫版解説より)。
 そう、『美しい星』は、自分たちが「宇宙人」であることに“覚醒”した大杉家の面々が、当時の冷戦下の世界にあって核戦争による滅亡から人類を救おうと奮闘する、実に奇妙というかキテレツなSF風の寓意小説なのである。彼らは東西両陣営の時の権力者だったフルシチョフとケネディにせっせと手紙を送りつけ、その名も「宇宙友朋会(……UFO会!)」を主宰して講演やパンフレットで地球平和のための同志をつのり、人類の滅亡を主張する「白鳥座61番星人」の羽黒たちと白熱の議論を戦わせるのだ。
 もっとも、そんな展開を大真面目に繰りひろげられるほどに、ぼくたち読者は、そのすべてが彼ら狂人たちの妄想劇(あたかも夢野久作の『ドグラ・マグラ』のような)じゃないのか……との疑念を抱いていく。そして作者の三島は、『獣の戯れ』がそうだったように、あるいは『豊饒の海・五人五衰』がそうだったように、最後の最後にすべてをひっくり返して読者に“うっちゃり”をかますつもりなのではあるまいか、と固唾をのんで読み進めることになるのだ。ーーが、そんな予想のさらに斜め上をいく「結末」を用意して、この小説はわれわれをより途方に暮れさせる場所へと“投げとばす”のである……
 とまあ、これは三島由紀夫にあってもとりわけ異色なものであること、それだけは間違いない。もちろん奥野健男氏のように、《(この小説によって)三島由紀夫は、現実の泥沼をとび超え、いきなり問題の核心をつかむ画期的な方法を、視点を発見したのだ。それが『美しい星』の空飛ぶ円盤であり、宇宙人である。(中略)宇宙人の目により、地球人類の状況を大局的に観察し得る仕組を得た。人間を地球に住む人類として客観的に眺めることができる。問題の核心に一挙にして迫ることができるまことに能率のよい仕掛けである》(同前)と、「政治小説」として高く評価する向きもある。が、三島自身が日本文学研究者ドナルド・キーン氏に宛てた書簡のなかで、《これは実にへんてこりんな小説なのです。しかしこの十ヶ月、実にたのしんで書きました》と述べているように、ただただ「実にへんてこりん」な、そして、やっぱりどこか“いかがわしい”小説なのである。
 そんな『美しい星』を、大学時代に読んでいらいずっと映画にしたいと考えてきたという吉田大八監督。《何の理由も示されないまま家族が全員宇宙人として覚醒して、そこから圧倒的に美しい言葉が精緻に組み上げられていき、最後にそれをまとめて叩き潰すようなラストがある。入口と出口の狂いかたと、その間の醒めた目線のギャップというかバランスが、滅茶苦茶かっこよかった》(パンフ内のインタビュー記事より)と、その理由を語っている。が、結局のところ吉田監督もまた、この小説の「実にへんてこりん」な、そしてその“いかがわしさ”にこそ惹かれたのではないか。なぜなら、長編映画第1作『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』から前作『紙の月』にいたるまで、この監督もまた常に「へんてこりんでいかがわしい人間たちや世界」を描き続けてきたからだ。
 ……物語の舞台を現代(といっても、今から1、2年先の「“近”未来」らしい)に置き換えたものの、中心となるのは原作と同じく大杉家の面々。だが、小説では資産家で仕事に就かない「無為の男」である父親が、テレビのニュース番組でお天気コーナーを担当するお調子者の気象予報士に変更されたほか、一家のキャラクターや彼らをとりまく状況は大幅に変更されている。
 その父親・重一郎(リリー・フランキー)が、愛人関係にある助手(友里恵)と首都高を走っていたとき、突然の閃光と金属音につつまれて失神。気がつくと車は田んぼのなかで、助手の姿も見あたらない。
 一方、自転車便のメッセンジャーとして働くフリーターの長男・一雄(亀梨和也)。仕事中に高級車の無謀運転に腹を立て追跡したことから、大物政治家の鷹森とその秘書・黒木(佐々木蔵之介)と知り合う。その顛末をプラネタリウムでのデート中にガールフレンドに披露するも、無理やり身体をさわろうとしたことで激怒した彼女にフラれる始末。ひとり取り残された一雄だが、そのとき、映し出された水星がぐんぐんと巨大化して一雄にせまってくるではないか。
 そして、その美貌ゆえにかえって周囲から孤立する大学生の長女・暁子(橋本愛)。ある日の帰り道、ふと耳にしたストリート・ミュージシャンの歌声になぜか惹かれた彼女は、これから金沢へ帰るという歌声の主・竹宮(若葉竜也)から「金星」と記されたCDを買い求める。その歌に深く魅了された暁子は、竹宮に会うため金沢へ。そこで竹宮から、「ぼくたちは金星人なんだ」と聞かされ、冬の海でふたりは竹宮が呼びだした光る飛行物体(!)を目撃する。
 こうして、父親は「火星人」、長男は「水星人」、長女は「金星人」としてめざめた大杉家の人々。それぞれに「宇宙人」としての使命を果たそうと、重一郎はテレビのお天気コーナーなかで地球温暖化の危機を熱く説き、暁子は人間の美の基準を正すためあれほど嫌っていた大学のミスコンに名乗りをあげ、一雄は大物政治家の私設秘書となる。もっとも、原作では「木星人」である母親の伊余子(中嶋朋子)だけ映画では「地球人」のまま、しかし美と健康を普及させるという信念に燃えて、主婦友に誘われたミネラルウォーターの会員制ビジネスにのめり込んでいくのである。
 この原作にはなかった主人公一家の“覚醒”の経緯を盛りこむことで、映画は彼らが「宇宙人である」ことをより強調するだろう。ぼくたち観客もまた、彼らが「宇宙人」であるらしいことをいったんは“納得”させられる。ーーああ、こうしてこの一家は本当に「宇宙人」として目覚めたんだな、と。
 ところが、予期しなかった暁子の妊娠によって、様相が一変する。重一郎が調べていくと、竹宮という男はこれまでも何人もの女性をだまし、「金星」という曲も別人の作品であることが判明する。どうやら彼は「金星人」ではなく、ただのペテン師だった。あの光る飛行物体も、暁子になにか薬[ドラッグ]を盛ったか、彼女の自己暗示による“幻覚”だったではないか?
 さらに、伊余子の水ビジネスにも思わぬ事態が持ちあがる。和歌山は熊野の地下深くから汲みあげたというふれこみだったが、その工場の写真が埼玉のゴム工場と同じだと発覚。その水自体がどこのものだかわからない「詐欺」商法だったことが知らされる。
 そうなると、大杉家の面々が「宇宙人」だというのも、実は鷹森を影で操っている「白鳥座61番星人」の黒木も、今まで見てきたものすべてがウソか妄想だったのか? と、映画はここにきて一挙に世界がひっくり返り、“いかがわしさ”を漂わせていく。なるほど吉田大八といえば、つけ鼻(!)をして「外国人」になりすました実にうさんくさい結婚詐欺師を描く『クヒオ大佐』や、恋人が死んだ後も彼が生きている妄想のなかにとどまり続けるヒロインという『パーマネント野ばら』の監督だったではないか……
 だが、この映画が本当に「面白くなる」のは、まさにここからなのである。
 そう、あとはもうどんどんと常軌を逸していく重一郎の奮闘ぶり(……それは、われわれの「彼が本当に火星人だとして、なぜここまで地球のことを思ってくれるのか?」という疑問すらいつしか超越して、もはや感動的ですらあるだろう)と、彼に輪をかけてうさんくさい黒木(を演じる佐々木蔵之介の怪演ぶりの素晴らしさ!)との“「宇宙人」同士の対決”にいたる怒濤の展開を、ただただ見守り続ければいい。それはもはや三島由紀夫の原作というより、ほとんど『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』の世界だ(もちろん彼らは、変身したり巨大化なんかしないが)。
 そして、精神的にも肉体的にもボロボロになった重一郎や大杉家の面々が、最後に見たもの。それがひとつの“救済”であるのか、妄想の果ての“狂気”であるのかは、もはやどうでもいい。彼らと「同じもの」を目撃する観客は、ここにいたって、この実にへんてこりんな家族のことを心から愛しく思っている自分を“発見”することになるのである……
 あらためて、傑作。そして、面白い!(もっとも、最後のあの「宇宙船内」の場面だけは正直ナットクできないままなんだが。ーーあれ要りましたか、監督?)

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