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いつかどこかで見た映画 その150 『最後にして最初の人類』(2020年・アイスランド)

“The Last And First Men”

製作・監督・脚本・音楽:ヨハン・ヨハンソン 脚本:ホセ・エンリケ・マチャン 製作・撮影:シュトゥルラ・ブラント・グロヴレン 音楽:ヤイール・エラザール・グロットマン 原作:オラフ・ステープルドン 出演(ナレーション):ティルダ・スウィントン

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 映画ファンにとっては、『ボーダーライン』や『メッセージ』などのドゥニ・ヴィルヌーヴ監督作をはじめ、ゴールデングローブ賞を受賞した『博士と彼女のセオリー』等々での映画音楽によって印象深いヨハン・ヨハンソン。2018年に48歳で突然の死をとげた、このアイスランド出身の現代音楽を代表する作曲家のひとりが、生前に映像作品を「監督」として遺していたことは知らなかった。しかもそれが、イギリスの哲学者・作家オラフ・ステープルドンが1930年に発表した伝説的なSF小説の古典を「原作」としたもの、というじゃないか。まず最初に、では“どんな「映画」なのか”という興味があったのは確かだ。
 もちろんそれは、ひと筋縄でいくようなものではないだろう。案の定というか、事前に手にした宣伝チラシを見ると監督と原作者とともに、ただナレーションとして英国の名女優「ティルダ・スウィントン」の名前しか記されていない。スウィントン以外の出演者名のクレジットがないのである。つまりは、何らかのドキュメンタリーのような、あるいは登場人物が誰も出てこない「SF映画」ということなのか?
 というわけで、期待しつつもどこかおそるおそる(!)見た『最後にして最初の人類』なのだが、ーーいやはや、これがもう超絶。ただただ「超絶」というしかない映像体験をもたらしてくれる、驚嘆すべき作品だったのである。
 まず、最初に予感(というか、危惧?)したとおり、この作品に登場人物は存在しない。それどころかここには、(後でふれることになるが、いくつかの“例外”を除いて)生物はいっさい登場しないだろう。
 かわりに映しだされるのは、荒涼たる原野にこつ然とそびえ立つ巨大な建造物[オブジェ]群。旧ユーゴスラヴィアに実在し、セルビア・クロアチア語やスロヴェニア語で「記念碑[スポメニック]」と呼ばれる“静物[モニュメント]”だ。
 それは、チトー大統領政権下の1960年代から80年代にかけて建造されたものだという。第2次世界大戦で犠牲となった兵士や国民を追悼し、社会主義国家の「勝利」を謳うべく戦場や強制収容所跡に築かれたのだと。周知のように、チトー大統領の没後ユーゴスラヴィア連邦は崩壊し、過酷な民族紛争とともに複数の国家に分裂してしまう。スポメニックもまた、歴史の趨勢のなかうち捨てられていった。そんな、今や廃墟と化したそれら鉄とコンクリートの“遺跡”群を、執拗なまでにズームと移動撮影を止めないカメラによって、モノクロ映像のなか全編にわたってただひたすらその異形のたたずまいを浮かびあがらせるのだ。
 ただ、そういったスポメニック群をとらえた風景に、ときおりカラーで緑色の波形画像がはさみこまれる。たえず伸縮するそれは、オシロスコープのモニターに映る音声信号の波形で、その“声”の主こそがティルダ・スウィントンによる「未来人」だ。実に20億年後の未来に生きる「彼女(なのか?)」は、現在のわれわれに“交信[コンタクト]”をとってきた。そうしてこれから人類がたどる物語[ストーリー]というか、驚くべき栄枯盛衰の歴史[ヒストリー]が、スポメニックの映像とともに淡々と、文字どおり淡々と語られるのである。
 ……その“声”の主は「人類第18世代」のひとりで、人類とはいっても、20億年を経てもはや「第1世代」のわれわれとはまったく似ても似つかない姿になっているという。愚かな戦争にはじまり、気候や環境の変化、疫病など幾度も滅亡の危機を迎え、生物学的な進化と退化を繰りかえしながら人類は、それでも何とか生き延び、そのつど新たな文明を築いてきた。
 そして地球から金星へ、さらに海王星へと移住し、ここ海王星で数億年のあいだに未来人たちは「人類の最終形」ともいうべき存在にまでのぼりつめた。しかし、太陽が膨張して太陽系の滅亡が目前であることを知った人類は、ついに最期のときを迎えたことを悟る。そして自分たちの起源であるわれわれ「第1世代」に、こうして人類史を“語りかける”ことにしたのだった。
 本来この作品は、映像とオーケストラ演奏による「マルチメディア作品」として発表されたものだという。《もともと舞台上に16㎜フィルムのモノクロ映像を映しながらオーケストラがライヴ演奏するマルチメディア作品として構想され、(中略)2017年7月マンチェスターで世界初演された》(引用は前島秀国氏による解説「『最後にして最初の人類』のスコアについて」より)。そこでは、すでにティルダ・スウィントンによる「ナレーション」も存在していた。
 が、同じ前島氏の解説によれば、その初演の出来に満足できなかったヨハン・ヨハンソンは音楽の全面的な改訂を決意。同じ作曲家で、映画『マンディ 地獄のロード・ウォリアー』の音楽を共同で担当したヤイール・エラザール・グロットマンに協力を依頼する。
 そして作業はヨハンソンの急死後も続けられ、あわせて撮影を担当したシュトゥルラ・ブラント・グロヴレン(……驚異的な全編ワンカット撮影で注目された『ヴィクトリア』や、『ひつじ村の兄弟』等の撮影監督でもある)が、改訂版のスコアにあわせて撮影フィルムを再構成。こうして、新たな1本の「映画」としての『最後にして最初の人類』が誕生したという次第だ。
 そう、確かにこれは「映画」なのだ。もちろんぼくはマルチメディア版の作品を見ていないので比較はできないが、こうして今われわれが目にできる本作も、結局は映像と音楽と朗読の総合による「芸術作品[インスタレーション]」として見られ、語られる向きがあるだろう。だが、デレク・ジャーマンの『BLUE ブルー』がそれでも「映画」であったように、マルグリット・デュラスの『ヴェネツィア時代の彼女の名前』がすぐれて「映画」であったように、ヨハン・ヨハンソンの『最後にして最初の人類』もまたやはり「映画」なのだとぼくは思いたいのである。
 ……この、16㎜フィルムによってとらえられ、様々な角度から映しだされるスポメニック。それは旧ユーゴ時代のというより、20億年という時間のなか滅亡と誕生を繰りかえしてきた人類たちの、いつの時代とも知れぬ“遺物”のようだ。だがそれは、ここではあくまで「未来」の光景なのである。そしてその、一見するとすべてが“終わった”後の、時間すらとまったかのような廃墟の光景。だがそこに、ときおり風になびく草群や、ワンカットだけ空にのびる飛行機雲が映しだされるとき、われわれは一瞬驚き、続いて思いがけない「感動」をおぼえるだろう。その画面のなかに、まだ“時間が流れている(=生きている)”ことに感動するのだ。
 そして全編モノクロ映像のなかで、オシロスコープの「緑色」の波形のほかに、もうひとつだけ「カラー場面」が登場する。それは未来人の“声”が、太陽の超新星化による膨張と、移住先を探査するために宇宙に飛び立った飛行士たちがすべて発狂したり死んでしまったことを語るシーンだ。陰鬱な霧のなかにスポメニックのひとつがゆっくりと浮かびあがるまさにそのとき、「それ」は現れるーー見るものの不意を突くというより、思わずたじろがせるように。いったいこれほど“劇的”な場面を、ぼくたちはこれまでどれほど見てきただろうか。
 ……もちろんこの作品を、ただヨハン・ヨハンソンの音楽を「聴く」ためだけに見る、という向きがあってもいいだろう。残念ながらぼくは音楽にかんしてほとんどまったく無知なので、本作における音楽の魅力や真価を語ることができない。けれど、音楽というよりぼくにはほとんど「美しいノイズ」として聞こえる、そのスコアがあってこその作品であることに間違いないのだから。
 しかしヨハンソンがここでめざそうとしたものは、やはり「映画」だったのだ。ここでは、デジタルにはない16㎜フィルム特有の画面のちらつきというか、ノイズすらもが美しい。そして、ここで語られるのは確かに“人類の滅亡”にいたるまでの「物語」だが、見終わって心に残るのは終末論的なペシミズムというより、この先20億年ものあいだ滅んだり再生したりを繰りかえしながら、それでも連綿と生き「存在」し続けた人間という種族への愛しさ、あるいは慈しみといった感情にほかならない。
 だから最後に、この映画の「原作」であるステープルドンの小説の末尾を引用しておこう。……《それでも確かなことがひとつあります。少なくとも、人間そのものが音楽であり、その壮大な伴奏、すなわち嵐や星たちを生み出す音楽を創造する雄々しい主旋律なのです。その限りでは人間そのものが万物の不滅の形式に潜む永遠の美なのです。人間であったとは、なんとすばらしいことでしょう。ですからわたしたちは、心の底からの笑いと平安を胸に、ともに前進すればいいではありませんか。どのみちわたしたちは、人間というこの束の間の音楽を美しく締め括ることになるでしょうから。》(浜口稔・訳)
 ヨハン・ヨハンソンは、そんな「音楽」をここで映画にしたのだった。

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