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いつかどこかで見た映画 その96 『ラム・ダイアリー』(2011年・アメリカ)

“The Rum Diary”

監督・脚本:ブルース・ロビンソン 原作:ハンター・S・トンプソン 撮影:ダリウス・ウォルスキー 出演:ジョニー・デップ、アーロン・エッカート、マイケル・リスポリ、アンバー・ハード、リチャード・ジェンキンス、ジョヴァンニ・リビシ、アマウリー・ノラスコ、マーシャル・ベル、ビル・スミトロヴィッチ

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 アメリカ映画にあって「新聞記者」とは、〈主人公[ヒーロー]〉としての一典型をなす“花形職業”のひとつである。『或る夜の出来事』のクラーク・ゲーブルや『ローマの休日』のグレゴリー・ペックから、『大統領の陰謀』のロバート・レドフォードとダスティン・ホフマン、『ペリカン文書』のデンゼル・ワシントン、『消されたヘッドライン』のラッセル・クロウにいたるまで、昔も今もスターたちはこぞって記者を演じてきた(……アメリカン・ヒーローの代表格たるスーパーマンが、変身前はクラーク・ケントという新聞記者であることも、ここで思い出しておこうか)。
 映画の中における彼ら(いや、『ヒズ・ガール・フライデー』のロザリンド・ラッセルや、『オペラハット』のジーン・アーサーのように、「彼女たち」も!)新聞記者たちは、時に酒やロマンスにうつつを抜かしながらも、「真実」を追求することで社会の悪や権力に立ち向かう。そのための“武器”とは、もちろんタイプライターだ(……それにしても、あのカタカタカタというタイプ音こそ、映画における最良の「効果音」のひとつではあるまいか)。なるほど、確かに記者とは〈英雄[ヒーロー]〉たるにふさわしい存在だろう。
 だからジョニー・デップが、最新作『ラム・ダイアリー』で「新聞記者を演じたスター」の仲間入りを果たしたのも、当然といえば当然かもしれない。かつては、ショーン・ペンと並んで“アメリカ映画の反逆児”というイメージだったデップも、今や堂々たるマネーメーキング・スターである。盟友ティム・バートン監督と組んだ『ダーク・シャドウ』で、相変わらず「カルト風味」な魅力[チャーム]を全開させたのだから、こうやって「正当派」としての顔を見せておくのも、スターとしての仕事のうちなのだ(……もっとも、本国アメリカでは『ラム・ダイアリー』の方が先に公開されたのだが)。
 とはいえ、これがハンター・S・トンプソンの自伝風小説の映画化で、デップ演じる主人公とはトンプソンの若き日の姿に他ならないとなれば、にわかにハナシが変わってくる。先に映画化された『ラスベガスをやっつけろ』や、ドキュメンタリー作品『GONZO/ならず者ジャーナリスト、ハンター・S・トンプソンのすべて』を見た方ならご承知の通り、このトンプソンという男、ひと筋縄ではいかない。イタリア語で“不良”を意味する「ゴンゾー」を標榜する通り、ジャーナリストとしては脱線・逸脱の連続。しかし、《俺は何かが起きる現場にいて、その現場の真只中にいることから、書くための興味とアドレナリンを分泌するんだ》(室矢憲治訳・『ラスベガスをやっつけろ!』訳者あとがきより)という言葉通り、暴走族集団やヒッピーのコミューン、大統領選の党大会などの「現場」に(酒やドラッグや権力への憎悪にまみれながら!)単身飛び込み、それゆえ核心を衝くドキュメントをものにしてきた彼は、1960年代後半から90年代にかけて常に「ジャーナリズム界のロックスター」であり続けた。そして、2005年にあっさりと自分で人生にケリをつけて世を去ったトンプソンの、その若き日を描くというのである。これが単なる「新聞記者もの」のヒーロー譚で終わるはずもないだろう。
 案の定というか、映画のなかでデップ演じる主人公ケンプは、新聞記者でありながらほとんどタイプライターを叩かない。プエルトリコの地元新聞社に流れてきた彼は、デッチ上げの星占いを書かされながら、カメラマンのボブ(マイケル・リスポリ)や、イカレたモバーグ(ジョヴァンニ・リビジ)らとひたすら飲んだくれるばかりだ。そうしてケンプは、不正な島のリゾート開発で巨万の富を得ようとする実業家のアンダーソン(アーロン・エッカート)と関わりを持つようになり、彼の婚約者であるシュノー(アンバー・ハード)と恋に落ちていく。
 とまあ、一見するとノーテンキな、下手をするとデップとアンジェリーナ・ジョリーが共演した『ツーリスト』以上のいい気なもんだ的“観光映画”となりかねないユル〜イ展開。しかも、ケンプとシュノーの恋の顛末や、アンダーソンとの関係などじゅうぶんドラマチックになり得る筋[プロット]も、実にあっけなく処理されてしまう。しかも、新聞社が閉鎖されて、自分たちだけでアンダーソンらの不正を暴く最終号を出そうとする(そのための資金を稼ぐ手段というか秘策が、ブードゥー教の魔術と「闘鶏」というあたりもまた、脱力しつつも笑えるんだが)終盤のクライマックスも、実に実にあっけない局面をむかえるだけ。ーーアメリカでは批評・興行成績ともに振るわなかったというが、まあ、格好良いヒーロー記者が社会の巨悪を追いつめたり、王女様とアバンチュールしたりするような類の映画だとはまさか思っていなかったろうけれど、不正の追及も、恋のゆくえも、何か「現実的にはそういうものなんだろうけど、でもこれ「映画」なのにさぁ……」という“落ち着き方”をされてしまっては、かの地の観客に受けが悪いというのも仕方あるまい。
 では、本当にこれが見る価値もない作品なのか? ……正直なところ海外での評判を目にして、ぼくもまたおっかなびっくり見たのだが、どういたしまして。少なくともぼく個人としては、見終わって「チキショウめ、素晴らしいじゃないか!」と快哉を叫んだ次第なのである。まったく、これだから映画は見なくちゃわからない!
 ーーそう、何よりこれは、作家カート・ヴォネガットに《並み居るニュー・ジャーナリストと呼ばれる書き手の中でハンター・S・トンプソンほど辛辣でクレイジーな創造的迫力を持ったライターは他にいない。鋭い洞察力、直感、聡明さ……あのたぐい稀な文体は、文学的キュービズムとも言える新しい発見だ。これまで言われていたどんな文章のルールもあっさり無視され、一蹴されてしまった》(室矢憲治訳・前掲書より)と讃えられたトンプソンが、ついにその「たぐい稀な文体」をつかむまでの物語なのである。映画のなかでケンプは、「ぼくにはまだ、作家として自分の声(=文体)がない」とつぶやく。そんな彼が、楽園のようなプエルトリコで、現地の貧しい人々が白人たちに追いやられたり、搾取されたりする姿に直面し、一時はサンダーソンたちの片棒を担ぎそうになりながらもシュノーへの愛ゆえに手をきるなどの経験をへて、ついにタイプライターの音を響かせる。そのときついに「辛辣でクレイジーな創造的迫力を持った」作家としてのケンプ、つまり真の「ハンター・S・トンプソン」が誕生したことを告げるこの場面こそ、この映画における真のクライマックスに他ならない。
 監督と脚本を担ったブルース・ロビンソンはこれを、奇人・変人たちが集まる新聞記者コメディとも、異文化と人種のなかに飛び込んだ白人のカルチャー・ギャップを描いた風刺劇とも、アメリカ資本主義による悪辣な他国の土地買収をめぐる社会派風ドラマとも、あやうい恋にのめり込んでいくロマンスものとも、そのいずれともとれる展開に主人公を投げ入れ、右往左往させる。と同時に、ぼくたち観客もまた主人公同様「いったいこれはどんな“ドラマ”なんだ」と翻弄されるのである。確かに、それがストーリーとしての整合性を失わせ、不必要に混沌とした(しかも前述の通り、最後は身もフタもないというか投げやりめいた“落ち”のつけ方で!)印象をもたらした感はいなめない。
 けれど一方で、美とカオスに満ちたプエルトリコの風土のなか、このつかみどころのない状況にドタバタする主人公(を演じるジョニー・デップ)の、何とチャーミングなことか! さらに、彼をとりまく人物像の、それぞれにキャラの立った存在感ひとつをとっても、本作の面白さをじゅうぶん保証するものだ。
 そういった、この映画の魅力や「面白さ」を振り返りながら、その味わいがどこか英国の作家ウィリアム・ボイドの原作・脚本による、ブルース・ベレスフォード監督作『グッドマン・イン・アフリカ』に似ていることに気づいた。あの、西アフリカにあるキンザザを舞台に、自堕落な若きイギリス人外交官がついに「善人[グッドマン]」となるまでを描いた作品も、あらかじめ予想されたようなヒューマンな「感動作」とはほど遠い、皮肉な“毒”と笑いによって観客を煙にまく映画なのだった。
 同じ英国人のブルース・ロビンソン監督もまた、ここで、いかにもアメリカ映画的なドラマツルギーというか、「面白さ」という名の予定調和ぶりを徹底してはぐらかす。そしてその後に残るのは、主人公をはじめとした人物像[キャラクター]のそれぞれが際立って魅力あふれる、バルザックの小説的な意味での「人間喜劇」そのものだ。
 その上でブルース・ロビンソン監督には、随所に見せ(=魅せ)てくれる鮮やかな映像感覚がある。たとえば、主人公とヒロインを乗せた車が猛スピードで突っ走った挙げ句、海に落ちる寸前で何とか桟橋の先で停止する。と、キャメラだけはそのまま空中へと飛翔しながら、車と、主人公たちをいつまでも見つめ、映し続けるのだ。ーーこの場面を見た瞬間、ぼくはこの映画を断固支持し擁護することに決めたのだった。
 映画史に残る傑作とまでは言わない。確かに「ヘンな映画」であることも間違いないだろう。が、それでも今年(2012年)の洋画にあっても屈指の魅力的な映画であることを、ぼくは信じる。……そして、できればひとりでも多くの観客がご覧になって、その“破綻と混沌ぶりこそが”魅力”という不思議な魅力のとりこになられんことを!

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