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いつかどこかで見た映画 その98 『皆さま、ごきげんよう』(2015年・フランス=ジョージア)

“Chant d'hiver”

監督・脚本・出演:オタール・イオセリアーニ 撮影:ジュリー・グリュヌボーム 出演:リュファス、アミラン・アミラナシヴィリ、マチアス・ユング、エンリコ・ゲッツィ、アナトール・リーベルマン、ピエール・エテックス、マチュー・アマルリック、トニー・ガトリフ

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 その名声はつとに聞きおよぶところではあるが、オタール・イオセリアーニの作品をこれまで見たことがなかった。だから、この旧ソ連邦グルジア(……現在は「ジョージア」と呼称されるらしい。が、なんだかアメリカの州名とまぎらわしいので、ここではグルジア表記でいこう)出身で、現在はパリを拠点に活動を続ける82歳の老監督についてぼくが知りうることなど、正直いってほとんどない。せいぜい、アンドレイ・タルコフスキー監督の盟友であり、風刺的な作風を得意とする(……ということは、当時のソ連当局が最も嫌うところだった)寡作の映画作家ということぐらいか。
 そもそもグルジアといえば、セルゲイ・パラジャーノフ監督や、最近もリバイバル公開された『ピロスマニ』のゲオルグ・シェンゲラヤ監督、さらには『鶴は翔んでいく(戦争と貞操)』のミハイル・カラトーゾフや、『懺悔』のテンギズ・アブラゼ、ひそかに愛してやまない『ロビンソナーダ』や『シビラの悪戯』のナナ・ジョルナーゼ、最近では『13/ザメッティ』を撮ったゲラ・バブルアニなどと同郷ではないか。そんな、この特異な“映画大国”にあって、現在最も尊敬と国際的な評価を得ているイオセリアーニ監督も、やはりひと筋なわではいかない御仁だろうなーーといささか身構えつつ、この『皆さま、ごきげんよう』を見ることにあいなったワケだ。
 冒頭、いきなり18世紀のフランス革命における断頭台[ギロチン]の処刑場面で幕を開ける。リュファス演じるひとりの老貴族が、パイプをくわえたまま処刑のときを迎える。編み物をしながら見物する女たちの前で、役人(マチアス・ユング)と執行人(アミラン・アミラナシュヴィリ)がギロチンの刃をおろす。が、パイプをくわえたまま切り落とされた首はいかにも作り物めいており、一滴の血すら出ていない(……その後も、この映画のなかでは数多くの死が描かれる。だが、「ある一場面」以外にまったく血は登場しないだろう)。そしてその首を、うれしそうに持ち帰る編み物女のひとり。
 ……な、何なんだこれは? と思う間もなく、続いて場面は現代の戦場へと移る。これは2008年のロシアとグルジアによる「南オセチア紛争」を想起させるが、特に場所は特定されていない。そしてここでも、やる気のない(!)コントのように撃たれて倒れる兵士たちや、勝った側による略奪、強姦場面なども描かれはするものの、どこか投げやりというか、いかにもとってつけたような“演ってます”感がありありなのである。その後、今度は司祭を演じるリュファスが兵士たちを川の水で手荒く洗礼をほどこし、こっそり部隊を抜け出した兵士のひとりが、恋人の家に戦場での死体から奪った指輪を届けにいく。その後、ほとんどガラクタ同然の戦利品を手に手に、戦地を後にする兵士たち。後には、不吉な黒煙をあげる建物だけが映し出される。
 こうして、真面目なのかふざけているのかわからないまま、映画は現代のパリへと舞台をかえる。そこでは、ローラースケートの少女たちが鮮やかな連係プレーで金品を強奪し、今度は道ばたの酔っぱらいに扮したリュファスが、ロードローラーに轢かれてペシャンコになってしまう! それはまさに往年の『トムとジェリー』や『バックス・バニー』などのギャグ・アニメのように、見事なまでのペシャンコぶりなのである(もちろん、ここでも血は一滴も流れない)。
 だが続く場面で、リュファスは何食わぬ顔でふたたび(というか、四たび)登場する。今度は元貴族で、今はアパルトマンの管理人をしながら裏でギャング相手に武器商人をする人物として(……ただし、報酬は金銭じゃなく貴重な古書だ)。
 いや、リュファスだけではない。この映画のなかでは、多くの役者がそれぞれ別の人物(というか、人格)を振り分けられている。管理人の古い友人で、頭蓋骨収集と復元が趣味の人類学者を演じるのはフランス革命編におけるギロチンの執行人だったアミラン・アミラナシュヴィリであり、そのとき役人を演じたマチアス・ユングは警察署長として登場する。また、その署長の部下と使用人を演じているのは、戦場編における兵士と恋人ではないか。アパルトマンの住人で楽器職人の男と暮らす口うるさい女は、老貴族の首を嬉々として持ち帰った編み物女のどうやら末裔であり、彼女が大事にしている頭蓋骨はそのときのものらしい(……その頭蓋骨は、楽器職人の男が隣人の人類学者にやってしまうのだが)。
 いったい、どうしてこんなややこしいことをするのか? それについて、イオセリアーニ監督は次のように答えている。《話をあちこち飛ばしながら語っているわけだけど、実のところ同じことを語り、描いている。あらゆる事、あらゆる人物に共通するパラドックス、曖昧さ、二重性だ。一度にひとつでしかありえないとしたらそれはとても悲しいことだ。しかじかの共同体、根っこ、出自に属さなければならないというアイデンティティの物語が、我々をがんじがらめにする。(中略)例えば私の映画の主人公のひとりを見てみよう。元貴族が他でもない、パリの管理人になる。ところが彼は武器と交換に古い本を集める知識人でもあるんだ。突飛に見えるかもしれないが、信じてくれたまえ。それほどでもないんだよ。この人物を最もよく定義できる言葉は体格(ヒポスタジー)というものだろう。ラテン語を介してギリシア語からきた言葉だ。キリスト教においてこの言葉は、有名な三位一体を示す。神は同時に父であり、子であり、精霊でもありえる。我が主人公は超ヒポスタジーの一例で、同時に最低でも5つの存在でもあり得る。革命期のトリコトゥーズ(編み物女)のひとりの子孫も描いたが、これもヒポスタジーの一例だ。》(パンフ内の監督インタビューより)
 ……長々と引用してみたが、やっぱり今ひとつよくわからない(笑)。というか、もっともらしいことを言いながら適当にはぐらかしているような感じがする。が、察するに、このどうやら相当食えないジジイ(失礼!)であるイオセリアーニ監督にとって、そういった“仕掛け”など単なる形式的なものにすぎないし、それ以上のものではないんだろう。
 形式的? そう、この映画のなかの彼らは、時代や場所を超越して“再帰”する。首切り役人は薄情な警察署長として、ギロチンの執行人は頭蓋骨に憑かれた人類学者として、兵士とその恋人はケチな警察幹部と使用人として。あるいは、彼や彼女たちが同じ身振りをくり返すのも特徴的だ。リュファスは口に含んだ白ワインを噴き出すしぐさを2回くり返すし、野良犬たちは2回横断歩道を渡るし、リュファス扮する管理人はふたたびロードローラーに轢かれかかるし、帽子は風で何度も吹き飛ばされる。あるいは、住民を撃ち殺していた兵士が、今度はパリの街角で射殺される。……一見するとさまざまなエピソードを適当[ランダム]に並べただけのようで、ここにあるのはモチーフや主題が変奏されるきわめて「音楽的」な形式なのである。
 なるほど、そうとわかれば後はこちらも、それこそよけいな詮索抜きで音楽を楽しむようにどっぷりと映画に身をゆだねるとするか。そうすることで、このイオセリアーニ作品の持つ魅力に、その楽しさに、ようやくふれ得た気がする。“楽しさ”といっても、ひとつひとつのエピソードは案外とシビアだ。そこでは、ホームレス集団(もしかしたら、他国からの難民だろうか?)が住居を追われ、没落した男爵一家が廃墟のような城を追われる。警察署長の娘に恋した青年(ローラースケート少女たちの窃盗仲間でもある)は、管理人と人類学者のアドバイスによって彼女と一度はうまくいきかけたのに、結局警察につかまってしまう。どうやら過去にワケありな管理人と貴族の未亡人だが、どうやら遺産を譲渡する遺言状を受け取った管理人はそれを燃やし捨て、それまでの手紙をも燃やしてしまう(……それはまるで、どんなかたちであれもう過去に“再帰”するのはまっぴらだ! というリュファス自身の決意表明のようだ)。もう一度イオセリアーニ監督のことばを引くなら、《『皆さま、ごきげんよう』は喜劇だが、主題があまりにもシリアスなので、シリアスに撮ることができないような類の人間喜劇なんだ。有名なディオゲネス(註:古代ギリシア犬儒学派の哲学者)のように、私は日中灯りを手に人間を探しているんだ》ということなのである。
 そして、そういった街の喧騒などとは無縁ににがれきを拾い集め、ひとりで家を建てている男(演じているのは、マチュー・アマルリックだ)。映画の最後に家は完成し(とはいっても、片面に壁があるだけの“書き割り”みたいな家だが)、そこで彼は没落男爵の娘で娼婦(いや、演じる女優は同じでも、これまた別人かもしれない)と仲よくお茶をしている。その家の煙突からは、白い煙がおだやかに立ちのぼっているだろう。ここでも“煙”をめぐるモチーフは変奏され、この食えない、あるいはどこまでも人を食ったジジイ(再度失礼!)の奏でる、厳密に形式的だが同時に自由奔放な「嬉遊曲[ディヴェルティメント]」は、大団円を迎えるのである。
 ……そのポートレイトを見る限り、オタール・イオセリアーニ監督の風貌はどこかジャック・タチを彷彿させる。実際この映画でも、野良犬たちが自由に街路を渡り歩く場面などタチの『ぼくの伯父さん』を連想させられるだろう(……そういえば、『ぼくの伯父さん』のポスターを描いたピエール・エテックスがホームレス役で出演していることを、後で知った)。それやこれやを含め、悪意や風刺をケ・セラ・セラと笑い(というか、歌い)とばすこの監督に、ぼくもまたコロリとまいってしまった。ああ、新作公開を機にどこかで特集上映をやってくれないだろうかなぁ。

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