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いつかどこかで見た映画 その83 『ヘルライド』(2008年・アメリカ)

“Hell Ride”

製作・監督・脚本・出演:ラリー・ビショップ 製作総指揮:クエンティン・タランティーノ 撮影:スコット・キーヴァン 出演:マイケル・マドセン、デヴィッド・キャラダイン、デニス・ホッパー、エリック・バルフォー、ヴィニー・ジョーンズ、レオノア・ヴァレラ、ローラ・カユーテ、ジュリア・ジョーンズ、アリソン・マカティー

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 さて、今回はちょいと手短に。ということで、クエンティン・タランティーノ製作総指揮の『ヘルライド』であります。
 とにかくこの映画、宣伝用チラシに《全米が黙殺した、バイカー・バイオレンス・アクション超・問題作!》と謳っている。確かに、アメリカではわずかの館数で限定公開されたものの、これもチラシの謳い文句を引用すれば、《その反社会的な内容ゆえか、全米ではわずか2週間でうち切りとなった》らしい(……まあ本当のところは、単に興行成績が悪かったから打ち切りになった、というところだろう)。まあ、本当に「野心作」かどうかはともかく、これが1960年代半ばから70年代初めにかけて量産され、路上を自分たちの“ユートピア”とするヘルス・エンジェルスなど与太者[アウトロー]集団を描いた「バイク・ムービー」の、狂い咲き(むしろ“あだ花”、というべきか)めいた突然の復活作品であることだけは、間違いないところだ。
 などと、どうにも歯切れが悪い物言いを連ねてしまったが、別に作品が箸にも棒にもかからないというんじゃない。むしろ出来だけで語るなら、意外な(というか、たぶんアナタが思っている)ほど「悪くない」んである(マーケティングとCGにまみれた「話題作」や、過去の作品の無節操な「リメイク大作」なんぞより、はるかに映画としての“気概[ガッツ]”がここには満ち満ちている)。ただ、この映画くらい「観客を選ぶ」ものも最近では珍しいだろう。ここにあるのは、宣伝文句で謳う「野心」ではなく、単なる「娯楽」でもない、徹頭徹尾作り手の「趣味」だけだからだ。
 内容はといえば、対立する2組のバイカー集団の殺し殺される抗争劇。そこに、32年前に殺された女をめぐる復讐ドラマと、彼女が隠した大金の争奪戦がからむという至って単純なものではある。
 が、一見すると(いや、たぶん二見しても)誰のものとも分からない過去の回想(そこでは、全裸にひん剥かれた女の惨殺場面が繰り返し登場する)が何度もカットバックされ、シンプルなはずの物語をわざと混乱させてしまう(……まあ、回想場面自体はセルジォ・レオーネ監督の『ウエスタン』の引用、というか“パクリ”に他ならないんだが。あのレオーネの傑作で繰り返し描かれる「回想」、それはブロンソン演じる謎のガンマンによる兄の処刑の光景だったのだが、それを主人公の母親に置きかえたというわけだ)。代わりに、「バイク・ムービー」のお約束だった「暴力&セックス」は、より過激に、大盤振る舞いだ。まったく、この映画には2種類の人間たちしか登場しない。アウトローな男どもと、ビッチな女どもである。一般市民の姿は影も形もなく、どれだけ人が殺されようと警察も現れることはない。本当に見事なくらい男はみんな暴力的で、女は誰もが色情狂ーーそれが、ここではフツーなんである!(ただ音楽は「カントリー(?)」調というか、この手の映画のもうひとつのお約束であった「ロックンロール」は、なぜかちっとも聞こえなかった気がするんだが……)。
 おそらくそれは、これが「大人」に成りきれなかった親父[ジジイ]たちの「ファンタジー映画」だからだ。先にも少しふれた通り、本作は、32年前の過去と現在が入れ子状態となって展開する。つまり主人公たちは、32年間ずっと同じようにハーレーにまたがり、女と酒と暴力に明け暮れていたというわけだ。それはとりもなおさず、かつてはこの手の映画の常連スターであり、ここで製作・監督・脚本・主演の4役を兼ねたラリー・ビショップそのものの姿であり、“どっこい、オレ様とともに「バイク・ムービー」は生きてるぜ!”というメッセージであるだろう。60歳を過ぎたジジイになっても、オレたちは女と酒と暴力の世界[ユートピア]に生きてる(生きたい?)んだ! という……
 ゆえにこの映画は、どれだけ暴力的で、扇情的であろうと、どこまでも非現実的な「おとぎ話」めいたものとなる。それを、いつまでも馬鹿なジジイたちの“見果てぬ夢”と一笑することも可能かもしれない。けれどそこには、かつて一世を風靡した「バイク・ムービー」というジャンルへの本物の愛着と、冷笑的でもパロディでもない「本物[オリジナル]」として再生させたいという情熱がみなぎっている。そのことだけは、やはり認めるべきではあるまいか。
 ……先にぼくは、この映画にあるのが「野心」ではなく、単なる「娯楽」でもない、徹頭徹尾作り手の「趣味」だけだ、と書いた。重要なのはこれがラリー・ビショップの、ラリー・ビショップによる、ラリー・ビショップのためだけのオレ様映画のようでいて、実のところ彼もここでは“真の”作り手ではない、ということだろう。では、それは誰か。もちろん言うまでもない、クエンティン・タランティーノである。
 この映画を成立させている「バイク・ムービー」への愛着も情熱も、すべては製作総指揮タランティーノのものであり、ラリー・ビショップもまた、そのために欠かせないとはいえあくまで“素材”というか“口実[エクスキューズ]”にすぎない。そのことは、タランティーノ自身が監督した『デス・プルーフ in グラインドハウス』を見た者なら誰もが実感するはずのことだ。この『ヘルライド』は、ロバート・ロドリゲスが監督したもう1本の「グラインドハウスもの」である『プラネット・テラー』以上に、タランティーノの匂いが濃厚なのである(そこには、マイケル・マドセンやデイヴィッド・キャラダイン、デニス・ホッパーら常連俳優の存在も大きい)。しかも、いくら元「バイク・ムービー」のスターだとはいえ、監督としてのラリー・ビショップは、先に撮った『マッド・ドッグ』というジェフ・ゴールドブラムやガブリエル・バーン、リチャード・ドレィファスらが出演したシニカルでユーモラスなギャング映画を憶えている者にとって、間違いなく後者の方こそが持ち味なのだから。
 《「一本の名作より百本の駄作を」という格言を、現実に自身の背骨とした》(芝山幹郎著『アメリカ映画風雲録』より)タランティーノは、これまでも自分の「趣味」だけで映画に関わってきた(そういう意味では、実に恵まれた男だ)。この男は自身が「見たい」映画を、ただそれだけを撮り続けてきたのだ。しかも、自らの監督作ではそういうおのれの「趣味性」を逸脱させ奇形化させながら、映画としてスリリングな魅力を実現してみせる。これこそが、彼をしてなお第一線で活躍させる「映画作家」たる所以なのだろう。
 だが『ヘルライド』は、あくまで「趣味」のレベルにとどまり続ける。だから作品的価値がない、と言いたいんじゃない。タランティーノは本作を見て大喜びしたに違いない。そして彼と「趣味」を同じくするアナタ(とは、筋金入りの「B級映画狂」のことだ)なら、きっと同じく大いに満足できるだろう。

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