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240605_記述007_コレオグラフィモンタージュから

今回はIE-NIWAについての記述途中の一休憩で別の話題です。

先日、シアターカンパニーORUさん(https://www.instagram.com/oru_op/)の2周年イベントに参加させてもらいました。その時に2021年にロシアで上演された作品の映像上映も拝見したので簡単な感想を書き記しておこうかと思います。

「作品はドストエフスキーの「おかしな人間の夢」を原作にしたコレオグラフィモンタージュ作品。合唱、舞踊、テキストを用いて、古代エジブトとドストエフスキーを掛け合わせた異色のロシア演劇。ペテルブルグの知識人の息苦しさを、天災を知っている日本の花々を通して生きることを応援する内容。」(作品紹介より)

コレオグラフィモンタージュというのはあらゆるジャンルをポリフォニックに表現する独自の形式名称のようです。ここでは演劇を中心に音楽や踊り、美術や言葉がポリフォニックに表現されていました。ロシア文学も古代エジプトのそのどちらの教養もない私はその意味的文脈から離れたところで鑑賞することになってしまいました。その大部分が欠落しているのでぼんやりとした感想になりますが。

まず気になったのがコレオグラフィモンタージュという表現形式が、新しい形式なのかということ。これまた舞台芸術の知識がないのと同時に概念自体を完全に理解しているわけではないだけに自分がよく考える建築事例の中で思いついたものと絡めて考えてみたい。
まずは、OMAのラヴィレット公園の案。どちらかというとあれはシュールレアリスム的なコラージュだと言えるかもしれないが、ストライプ状に分割した線分の間にあらゆるエレメントを貼り付けていくような案。設計手法としては確かにコラージュ的。でももしあれが実現されていれば、そのコラージュ手法によって作られた平面空間を身体が自由に横断していくことになるというように体験的にはポリフォニックなのかもしれない。ここでの話は手法と体験は逆なのだが、そもそもコレオグラフィモンタージュは手法だけの話なのだろうか。その先の上演時においても実際にはポリフォニックな体験となっている部分もあるかもしれない。逆に各要素を独立して走らせたように作った場合でも鑑賞体験としてはある種の空間的統合がなされているかもしれない。
もうひとつ挙げてみると、人気のポルトガル建築家ユニットfalaの建築作品。建築空間を構成するエレメントを部分的に自律させることでそれぞれのエレメントが空間の中で自由に振る舞うようである。モノ的空間とでも言えるだろうか。ある種のポリフォニーがここにもあるようでありながら空間としてはひとつになっている。

非常に断片的な切り取りではあるが、「建築とは要素と要素を統合するもの」とよく言われる。かなり文脈として圧縮されているのだが、ひとつの解釈として真実味がある。これについてひとつ考えてみると建築は常に何らかの方法によって統合することを目指している。例えば、どの階層で言及するのかというのもあるが、極端に考えるとそれぞれのモノ・部材同士がバラバラなままでは建築にはなり得ないという物理的構造的な観点や、ここは全体に対して合っていないという意匠的な観点もある。さらには機能的にも統合されていなければ、つまり使用できなければ建築とは言えない。この意味でもあらゆる解像度において統合されている必要はあるし、こういった観点からも建築という形式上は統合されていないものなど無い。

建築は統合されていないものはない。舞台芸術はどうだろうか?完全にバラバラな状態のまま作り上げるのがコレオグラフィモンタージュではないのは理解しながらも、思考実験として仮にそうだとしてみる。舞台芸術では、止めることのできない時間の流れに沿って同一空間上に観客が居て、観て、体験することであらゆる要素がひとりの観客の中で統合されていくような感覚はないだろうか。事後的に身体を通して統合されていく感覚があるような気がする。というか作品を鑑賞してそのようなことを感じた。作者の意図とは関係なくだが。
逆に建築は時間の一方通行性もなければ、物理空間的な制約もない。そういう意味では自由すぎて馴染みがなく考える機会も少ないのかもしれない。

バラバラさが体験の中で統合されていく。この感覚に近しいものが何かあったと思う。これは作品の題材との関連で思い浮かんだものでもある。今回の作品の題材では、人間の内的にぐるぐる回る絶望と他者介入の間の葛藤。他者は花に模した自然だが実はあまり親身ではなさそうな程にオブジェ的で、まさに他者。踊りや声色、その言葉の自由な振る舞いが自分という人間から実は切り離された無関係な存在。そういうことに他者性を感じた。この近しい感覚をアニメ版のエヴァンゲリオンの終盤シーンにも感じた。あらゆる錯綜とも取れる表現の中にとても人間の純粋なテーマを扱っていることにも通じる。これが良い例かは分からないが、この作品にもあるひとつの統合を感じた。

舞台芸術的な文脈とはかなり違ったものかもしれないが、コレオグラフィモンタージュというものから自分なりに思考を巡らしてみた。手癖でもあるが何でも空間的に考えていくことが統合への収束に向かってしまうのかもしれない。こういった凝り固まった時に別のジャンルの芸術表現に触れることよって対角線を意識できるので今回もとても良い機会であった。

今日もまとまらずこのまま終わってしまうが備忘録としても記しておきます。

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