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自分の範囲を拡大すること ~新年の抱負のようなもの~

新年のご挨拶

明けましておめでとうございます。
本日35回目の誕生日を迎えることができました。毎年恒例の感想ですが、吹けば飛ぶような仕事を細々としていながらも日々楽しく豊かに過ごせているのも多くの方に公私ともに支えられているからだと感じています。

2023年もどうぞよろしくお願いいたします。

これからの考え方

昨年は子どもの誕生という人生でも大きな変化のある年でした。それも相まって自分の思考の変化も生まれてきました。正確にいうと変化しつつあった思考がよりその方向性が定まった、というところです。これが誰かのためになるとかどうとかはわかりませんが書き記しておきたいと思います。

興味関心が狭くなってきた(良い意味で)

年々歳をとるにつれて一部の分野を除いて自分への興味関心がなくなってきています。特に他者から見られた際の自分。簡単にいうと「見た目・見栄」ですね。
流行りの服を着るだとか、髪型を整えることから人から羨ましがられるようなモノの所有まで興味が薄れてきました。おっさんになると見た目気にしなくなるというのはこういうことか・・・

これをポジティブに捉えると「不惑」に一歩近づいたのでは無いかと思います。

【ふ-わく 不惑】
物の考え方など迷いのないこと。
《「論語為政の「四十にして惑わず」から》40歳のこと。

デジタル大辞泉より

もちろん、仕事柄それなりの身なりはしますが最低限度。ヘアワックスなんていつから使用していないもんだろうか・・・
他者から見える部分で良いように思われたいという気持ちがなくなってきたんですね。わかりやすいもので「モテたい」とか。

モテたいが故に自分に負担をかけて動きづらい服を着る、歩きづらい靴を履くなどに我慢できなくなってきました。(もちろん、モテるならモテたい)
そんな対外的なことよりも自分に対して興味関心があるのは「内面的」な部分。

自分の感情の起伏が少なく落ち着いていることや肉体的に壮健であること、仕事へのモチベーションやら読書などでの知的好奇心が満たされることなど日々の生活を豊かに過ごすことができることだけにドップリ。
健康の3大要素である運動・栄養・休養+知的満足・精神修養に関わることにしか興味がなくなってきたようです。

人間の土台の重要な一部である「健康」とそれに伴う「修練」にしか焦点が合わなくなってきた

雑音(Noise)を減らすこと

東京都在住とはいうものの住まいは高尾山の麓。近くに駅があり利便性はかなり高い。でもよる9時には道は暗いし人もまばら。裏山の入り口まで徒歩3分。
都市でもあり田舎でもあるそんな場所に居を置いてから日々の雑音が減ってきました。

日々の雑音とは先に書いた見栄や雑踏の中を移動する時間、不必要なストレスや刺激です。
適度なストレスや刺激は人生を豊かにするのに必要です。しかし、都市部に住んでいると基本が過剰傾向。情報量も多すぎるし人も多すぎる。(電車広告のほとんどは収入アップや美容系。欲望を掻き立てますね。)
毎週末のようにあちらこちらでイベントが開催されるやらなんやらで頭も心も休まる暇もない。そりゃ病むぜ現代人。

基本的に在宅仕事(施術院は自宅の一室です)、事務作業も自宅、たまに近くのカフェへ行くくらい。趣味は運動と読書程度なので自宅でやるか裏山を走れば満足。本は図書館かまたはKindleで。

そんな自宅の半径5km以内で完結するような日常なので刺激量がかなり少ない。
しかし、その少ない刺激の質はかなり高い。1つ1つに意味があり、自分の力になる。特に子どもと接する時間は良いものです。変化(ほとんどが成長)が日々わかるって親も前向きになりますね。加えて、子ども中心の生活にならざるを得ない(別に嫌じゃないです)のでやるべきことや得るべき情報の取捨選択にシビアになりました。
適切な無駄はこれも人生の豊かさに必要ですが本気で無駄なことはやめられるようになりました。

良い無駄と悪い無駄を切り分ける

一例として適切な無駄とは「直接的な収入の多寡に関わらないが愉しいと感じる経験」と捉えてみるとわかりやすいかと思います。僕の場合だと知人の畑を手伝うことがその1つ。
畑仕事をしたからといって農作物を売るわけでもないので収入になりません。
リターンとしては収穫できた野菜くらいでしょうか。これを数字だけで考えると本気で無駄、となります。野菜なんてスーパーで買えばいいよね、と。
しかし、畑仕事をすることで土に触れながら身体を動かすことは心身の健康に寄与します。これ、感覚的な話じゃなくて運動学や土壌微生物学の話から説明できます。(ここでは割愛)
なので僕にとって畑仕事は適切な無駄、と言えます。
本気で無駄なことは例えばダラダラYoutubeを見ること、ながら食べをすること、意味もなく深酒すること、服をたくさん買うこと、あてもなく街へ行くことでしょうか。お菓子は少し食べますけどその度合いは減りました。どれも自分も他者も幸せにしないので無駄と思います。
もちろん、人によってはあてもなくふらふらと街歩きをすることでインスピレーションが湧き創作活動に活かすことができる方もいます。その方にとってはその時間は大切な無駄な時間。大事にしてください。僕の場合は裏山を走ることがそれに当たるだけです。行動の良し悪しではなく、その行動に対してどういう反応が本人の体内で起こるかが大切です。

無駄かどうかは自分自身が決めるもの。他人からどうこう言われるものではない。

本気で無駄な雑音(Noise)を減らすと時間に余裕ができてその結果心のゆとりが生まれる。こっちのが心地よく夜眠れて朝起きられるのですこぶる調子が良いと感じています。

99%の雑音と1%の金言で構成される現代社会では能動的にノイズキャンセリングしないと心身がやられる。そう思っています。

能動的に「動かない」という選択を意識的に行う

独りと孤独の違い

雑音を消すためには適切に「独り」になることが必要。自分の内面を正しく見るために時には一人の時間が必要なのはなんとなく理解していただけるのでは。
おすすめなのは車の音も聞こえず、視界の360度人工物の見えない山の中に入ること。人工的な音や物がないだけで一気に独り感でます。(独り感ってなんだ)
野生を呼び覚ます、というと格好いいですがそれに近い。普段雑音に惑わされているカラダに喝を入れるかの如く自然の中に飛び込むと良い。
しっかりとした準備や装備なんかなくても少し裏山に行って帰ってくるくらいならすぐにできます。それで十分ですよ。

独りではあるものの自然の中には見えない微生物から草陰に隠れている野生動物、鳴き声だけ聞こえる鳥など生き物はたくさんいます。これくらいの緩いつながり、距離感がちょうど良い刺激となります。

対して「孤独」。これはまずい。「独」と同じ漢字を使いますが別物としてください。日常で誰とも会わず、関わりもなく適度な刺激がない、かつ意識・無意識関係なくネガティブに捉えてしまっている状態です。

もちろん、独りきりでひたすら趣味に没頭することが最高に楽しい、と感じる方もいらっしゃいます。そういう方は「孤独」ではなく「独り」を楽しんでいるので問題なし。

これも同じように一人きりでいてもそれの愉んでいるのか退屈と感じているのか、捉え方の違いでで独りと孤独の差が生まれます。

全ての事象の「捉え方」次第で独りにも孤独にもなる

「自分」を拡大解釈すること

心身と時間的なゆとりが生まれると優しくなれる。
なんか聞いたことのあるフレーズですがまさにそれ。

余裕がないと自分のことで手一杯なので優しくなんてなれません。なれる人はよほどの聖人君子なんでしょう。そんな凄い人間ばかりではないですし、大抵悪いやつにいいように使われると思っています。(割と悲観的かつ現実的です)

新年なので前向きに考えましょう。

先に書いた雑音を減らすとその分心身・時間のゆとりができます。そのゆとりのスペースに他者を含めることができる、という選択肢が生まれる。
この他者を含めたスペースを自分と捉えても良いのでは?ということ。

ゆとりのない自分


ゆとりが生まれた自分


ゆとり部分に他人を受け入れられている自分


お互いの関係性

元々自分のために有していたスペースを他者に分けることで他者も自分の一部となる、という考え方。こうなると他者に優しくすることは自分に優しくすることでもあるので色々良い結果が生まれやすい。
で、その他者Aが雑音を減らし、他者Bを自分に含めるとする。


ゆとりの拡大とともに広がる「自分」

こんな感じでゆとりが繋がっていく。結果みんな豊か。
「自分」を拡大解釈することで「孤独」にはならずにゆとりある「独り」を愉しむことができる。なんかあっても頼れる人がいる、そんな安心感。これを「愛」と言い換えても間違いはないかと思います。
そのためにはまず自分にゆとりを作ることから。ゆとりを作るためには雑音を減らす必要があります。何事も1つづつ。

自分の拡大には雑音を消すことから。利他の精神とも言える。

愛とは区別することでもある

綺麗事だけ述べても仕方がない。この自分の拡大解釈(=愛)には難点もあると考えます。

自分の拡大解釈(愛)には「区別」が含まれる?

僕もただの人間なので生理的にも人格的にも受け付けない人は必ずいます。そうなるとどうやっても「自分」の中に含めることができない。
自分の拡大解釈が「愛」であるならばその愛の中には「区別」が必ず含まれてしまう。「博愛」という言葉がありますが、本当にそれが実行できるほど人間できていません。

はく‐あい【博愛】
読み方:はくあい
すべての人平等に愛すること。「―の精神

デジタル大辞泉

可能な限り雑音を減らし、ゆとりを作り、他者を自分と解釈できるようになりたいとは思います。それでも区別せざるを得ない人も出てくることを念頭に置いて生きていかなくてはいけません。なんとかしたいとは思いますがおそらく難しい。

なのでまずは自分の近しい人だけでも愛することから。たとえ受け入れられない人がいたとしてもその人はその人で他の方とゆとりを分かち合い、孤独にならなければOKだと考えます。みんな違ってみんな良い、そう思いましょう。

分かち合えなくてもそれぞれで愉しく豊かであればそれで良い

まずは己の身体を正すことから

長々と誰かの役に立ちそうでどうなんだ?ということを書いてきました。(役に立ってくれていれば嬉しい)
最後に万人に当てはまりそうなことを。

僕の生業でもある健康的な生活の維持も立身出世、家庭円満、病気平癒など全て「自分を正すこと」から始まると常々考えています。

自分を正すことには何度も書いてきた雑音(Noise)を減らすことが含まれます。
氾濫する情報の波に飲まれず、不摂生をあらため、鍛錬を怠らず、目の前の人を大切にし、それでも有頂天にならず粛々とやるべきことをやる。

言うなれば「道(Tao)」のようなものでしょうか。

ちなみに自分を正したところで金銭的なリターンが得られるとは限りません。
何でもかんでも金銭的な利益を念頭に置く現代最大の雑音からも適度に離れることが豊かな生活の第一歩とも考えることができます。

そのために僕としてのアプローチはやはり「健康」。自分のカラダが一番コントロールしやすい。コンビニで買い物をするのを減らす、15分のジョギングを始めるなど今の自分のライフスタイルや体力に合わせた上で取り組めることから始めるのが大事。そのサポートのために施術をしますし、完全予約制で時間をかけて対話・コミュニケーションをします。(今年はさらにサービスを拡充します)

まず、変えるべきは「カラダ」。そのためのフィジカルアプローチとしての施術の提供

僕を頼ってくれるクライアントは自分を拡大解釈した「自分」でもあるから大切にしたいものです。おかげで良いクライアントに恵まれています。感謝しかない。

さらに自分を拡張するためにも先陣切って僕が雑音や贅肉を減らし、背中で語れる漢になろうと思う年始&誕生日です。

まだまだ惑わされてばかりの35年目のルーキーイヤー。
迷いながらも前向きに進もうと思います。

よろしくお願いします。

ケトルベルを振る私

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