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山に落ちている錆びた空き缶を見て思うこと

先日、奥秩父の沢に沢登りに行った。
少しゴミの多い人臭い沢だった。

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登山者は自然だけがそこに存在する非日常の世界を求めて山に来ているわけで、ゴミという身近な人工物が山にあっては期待外れな景色となってしまうかもしれない。しかし、ゴミが景観を損ねるという価値観を考えたのも人間だ。ちょっと人の気配を感じるような雰囲気も里山の本来の姿なのかな…と私は思う。

奥多摩や丹沢の沢に行くと空き缶のゴミをよく見かける。

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はちみつレモンの空き缶、「Meiji」のロゴがレトロだったので調べたら1970年代に発売されたもの。(違ったら教えてください)

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長野県川上村天狗山頂上付近にて。
1972年発売のファンタグレープ。

ときたま自然の中にぽつりと存在する人工物に先人の気配を感じて胸が熱くなる。
そして、サビに覆われ辛うじてパッケージが読めるような空き缶を見ていると、長い時間かけて自然が人工物を破壊していく様を見ているようで胸が熱くなる。

「自然は人工物によって破壊されるものだから意識的に人間が自然を守るべき」という謙虚にも聞こえるような風潮は、前提に人間は自然より強い(何をもって”強い”とするかは置いておいて…)という傲りがあるように感じる。
私たちが考えるより自然は圧倒的に強く、本当は長い年月をかけて人間の方が淘汰されているかもしれない。人間が自然に手を加える行為は一瞬で、そこから長い年月をかけて自然に侵食されているのではないか。そして、それに抗うように人間は自然の習性を読み解こうと努力し、壊されない術を身につけ自然環境の隅で息を潜め続けているだけではないか。

以上、山で見つけた空き缶を見て思ったこと(厨二病)でした。自分でもちょっと何言ってんだろうと思いますが、とりあえずゴミは持ち帰ろう。

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