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残置ハーケンが抜かれた


「水根沢と逆川大滝の残置ハーケンが抜かれている」
とあるガイドさんが憤った様子の文調でツイッターに投稿されていた。

以前から、沢のハーケンやスリング等の残置物を回収する行為があることは認知していた。てっきり、ホラの貝ゴルジュや大滝といった中上級者向けの場所ばかりだと思っていたから、水根沢や逆川のような初級者が来るような沢でも残置物を回収する人がいるというので驚きだった。
沢で良いリス目を見つけて墜落しても抜けない強度でハーケンを設置する作業は、そこそこの技術と経験が必要だ。初級者だけでは厳しい作業に感じる。
とはいえ自然の中で遊ぶのに残置物を当てにするのもお門違いだ。ハーケンは自然に生えてくるものではない。

私は残置物が好きだ。
戦後に小田急線が厚木や秦野を走るようになってから丹沢での登山や沢登りが盛んになり、大倉まで夜行バスが出ていた時代もあると聞く。穂高や丸山の岩場を夢みて丹沢の沢で修行を積んでいたらしい。そんな時代の残置物かもしれないと思うとロマンを感じる。
今ではガイドさんや遭対協が安全のためにハーケンを打ち足したりすると聞いた。東丹沢の沢には滝ごとに案内看板があるほどだ。少し過保護なような気もするが、安全にレベルアップしてほしいという初級者への思いを感じる。
どうやって両手を離したの?というような場所にハーケンがあったり、不安定なアブミの最上段に乗ってリングボルトを打ち込んだのかな、とか昔の登攀者の強さも感じることができる。
実際に私も、残置物に助けてもらった経験はたくさんある。沢登りをはじめた頃はハーケンは上級者が持つものだと思っていた。
残置がほぼない中くらいの滝を登った時は、バランシーなクライミングだったために核心ではハーケンも打てず、ヌメッた岩にきめた黒のエイリアンでランナウトして、頭がくらくらした。心の底から残置物が恋しくなった。

残置物を回収する人は、どのような思いで回収しているのだろうか。自然の中に人工物など存在せず自然な状態のままであるということに趣を感じる、というところもあるかもしれないが、「自己完結」させた山にこそ価値がある、という思いではないだろうか。
バリエーションやクライミングを始めた頃から「自己責任」という単語をよく見聞きする。自分で選択したルート、自分で選択した支点、それによって事故があったとしても自分の責任で、誰を責める権利もない。「自己責任」を負うことは山に入る者の義務だ。
少し似た言葉でも、山を「自己完結」させることは義務ではないと思う。同行者に頼ったり、記録を参考にしたり、自己責任で残置支点を使うなど、他力を頼る選択肢があるのならそれを選択する権利は間違いなくある。
見当違いしれないが、残置物を回収するという行為は、その沢を遡行する者に対して「自己完結せよ」と主張をしているように感じてしまう。水根沢の残置が抜かれたのが腑に落ちないというよりも、水根沢でしかめつらしい主張を感じたくないという気持ちが強い。

もちろん自己完結させる山はかっこよくて、私もそういう姿勢でありたい。登山道を外れて山で遊ぶ者として自己完結された山は理想である。私は歴も浅ければプロテクションのセットも上手くない。先人が残置したハーケンに感謝しつつ、自己完結した山を目指したい。

新緑の水根沢

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