Artifactのライフサイクルとエコロジー:クリッペンドルフ『意味論的展開』第5章&第6章読書メモ。
以下は、クローズドな読書会での輪読メモです。読めばわかる内容ですが、個人的備忘としてnoteに書きました。
デザイン思考の障壁=なぜデザインという思考姿勢が重要なのか(5.0)
(1)意味的に閉じた決まり文句を事実だと思ってしまう
→日常的に用いられている言葉は、それだけでモノとヒトとの関係性を固定させる。それに対して、デザイナーは事物を生じさせることの意味に対して関心を持つ。
(2)かかわる人々についての概念を制度化してしまう
→いわゆる個々のステイクホルダーにあてがわれる名称(従業員など)が、これに当たるだろう。山縣自身が、ここ数年「ステイクホルダー」という言葉を用いるときに、「アクター」という表現を用いるべきかどうか立ち止まって考えるようになったのは、この点と深くかかわっている。
(3)個体発生論の代わりに存在論に注目する
→科学は、観察者とは独立に存在する事柄に関する一貫した理論としての存在論に立脚している。しかし、多くの物質は一時的なものであり、新たな人工物はつねに引退へと向かう途中過程にある。これが、本章のライフサイクルの議論につながる。一瞬、ホワイトヘッドを想起したが如何。
(4)線型的な因果関係の思考
→ベイトソン。岩波文庫の翻訳待ち。デザインという概念を導入するとき、線形的な因果関係の思考では整理できない局面があることは、いうまでもないだろう。
Artifactのライフサイクル(5.1)
ここに関して、本文の摘読はしないけれども、ひじょうに重要な指摘であるといえる。経営学のなかでも、こういった価値の流れについて考えるべきだと思うし、少なくとも古典的なドイツ経営経済学であれば、もともとこういった価値の流れを捉えることに眼目を置いていた。
その意味で、Artifactのライフサイクルを捉えるという視点は、デザイン×経営を考える際に、すごく重要になってくる。
ステイクホルダーのネットワーク(5.2)
クリッペンドルフはArtifactをめぐって生じるステイクホルダーのネットワークに注目する。彼によれば、考慮する必要のあるステイクホルダーの特徴を以下のように指摘する。
この考え方は、R.-B.シュミットの企業用具説と親和性がある。シュミットは、企業という存在を「個人や集団が、自らの利害を実現しようとするための用具 / 手段」であるという考え方を提示した。クリッペンドルフの考え方に立てば、生み出されるArtifactが中心に置かれ、それをめぐるステイクホルダーが、それぞれの欲望や期待を充たそうとして影響をおよぼそうとする時間的―空間的な現象として、「デザインがなされゆく」という事象が描き出されている。
この、さまざまなステイクホルダーが関与するArtifactの生成に、よりよく惹きつけるために、プロジェクトが必要となってくる。
プロジェクト(5.3)
デザイナーは、他のステイクホルダーの参加のための余地を提供しなければならない(212頁)。これは、ひじょうに重要な指摘。最近、広義のデザインというのが広く言われるようになった。同時に、デザインとは何かという点についても議論されている。
クリッペンドルフは、プロジェクトを「本質的に、ステイクホルダー間の協力を励起する」(212頁)と指摘し、以下のような特徴があるという。
そこから、プロジェクトの開始者あるいはデザイナーは、以下のことにかかわる必要が出てくる。これは、バーナードの『経営者の役割』とも重なり合う。
生成的な意味づけ(5.4)
意味は、Artifactがそこに参加するステイクホルダーにとって、どう映るのかを示している。「生成的な意味づけは、Artifactが成熟し、進み続けるための方向性を提供する」(214頁)。そう考えると、「成功したデザインのプレゼンテーションは、単にArtifactのモデルを示すのではなく、デザインによって開かれる可能性を、予測されなかったかもしれないが、今や意欲をかき立てるものだとわかる可能性を、クライアントに伝えなければならない」という文言も、その言わんとするところが浮かび上がってくるだろう。つまり、デザインするという営みにおいて重要なのは、そのArtifactが開示する可能性としての意味を生成させることなのである。
したがって、意味とはデザイナーだけが創出できるものではなく、多層の意味を備えた玉ねぎのように、ステイクホルダーのネットワークを通りながら一枚々々皮をむいていくことで立ち現れるものなのである。むしろ、この比喩よりも、そのあとにつづく説明のほうが、よりわかりやすい。それは、生成的な意味づけを「あるストーリーが、ある人に語られるあいだに、次の人に語られる複数のストーリーを取り入れていく」というものである。それが多様なかたちであらわれるのが、デザインのナラティヴといえるかもしれない。それが成り立つためには、以下の4つが必要になる。
このクリッペンドルフの言説と、ベルガンティの意味のイノベーションについての議論を重ね合わせることは、その理解に際して重要な一段階となる。つまり、意味はもちろんデザイナーによっても描き出されるが、それはそこにかかわるステイクホルダーそれぞれによっても解釈され、受け取られていくということである。したがって、Artifactが生み出され、それが享受される一連のプロセス、つまりライフサイクルをめぐって、多様なステイクホルダーが登場し、それぞれの接点においてストーリーが生まれ、それらの複数のストーリーが絡み合うプロセスにおいてデザインのナラティヴが生成されるという事態、こここそがクリッペンドルフからベルガンティにいたる重要な思考枠組であるといえよう。
それを支えるのが、支援コミュニティであり、そのcriticalな規模の問題が5.5で論じられている。これは、まさに意味が生成され、共有もされうる関係性の規模のことをさしている。ただ、これについては省略。
ライフサイクル全体の計算(5.6)
ここについては、このnoteには詳述しないけれども、経営学、とりわけドイツ語圏の経営経済学という観点からは、きわめて興味深い議論がなされている。
武蔵野美術大学大学院造形構想研究科の修士課程で学んでおられる峯村昇吾さんが、修士論文(!)で以下のような図式化をされているのだが、これはまさにクリッペンドルフがここで述べていることの具体化といえる。
私自身も、この5.6はデザインと経営学がちゃんと切り結ぶために、避けて通れない一節であると深く思う。
Artifactのエコロジーにおける意味づけ(第6章)
ここもおもしろい章だ。ただ、ちょっと時間もないので、簡単にだけまとめておく。
ここで採りあげられているのは、Artifactがどのような生態系に存在しているのかという点である。ここで重要なのは、保守的でロマンティシズムに満たされた「自然」ではなく、人間もまた「技術」をもって介入していく相互作用とその帰結としての生態系という視座である。
そこから、クリッペンドルフはArtifactをめぐる生態系について説明する。その際、通時的な説明と共時的な説明という2つの観点を提示しているのはおもしろい。これはまさに、時間的把捉と空間的把捉である。そして、ここでの説明は、サービスドミナント・ロジックともつながってきそうである。
そして、生態系の相互作用からどのようなありようがありうるのかについて、6.3において論じている。さらに、6.4では人間がかかわってくる生態系における技術の協働体という側面の議論が展開される。クリッペンドルフが、技術と意味との関係性に目を向けているのは興味深いところである。
ただ、クリッペンドルフは技術決定論に与するわけではない。そこで注目するのが、神話である。神話とは、人間の考え、物語、共同の慣行の基礎となる、大部分は無意識なナラティヴ(235頁)のことをいう。この神話によって、技術にしても、さまざまな行為にしても、そしてまたArtifactにしても意味づけられることになる。「神話は文化に統一を与え、デザインの取り組みを正当化し、Artifactに生態的意味を割り当て、人間個人と地域社会のかかわりを指示する」(235頁)。
その意味において、クリッペンドルフは意味を通じた文化の醸成という点に、デザインの主たる役割ないし意義を見いだしていることがわかる。
個人的まとめ。
この2つの章は、経営学的にみてもひじょうに興味深い。このあたりは、ウルリッヒとプロープストの『全体的思考と行為の方法』とも重なり合うが、よりArtifactに目を向けている点で、さらなる展開を期しうる。
(若干の追記を予定)
ちょっと訳文がわかりにくかったので、ついに原書のKindle版を購入した。
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