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批判によって乗り越え、新たに提示していくという営み。クリッペンドルフ『意味論的展開』第9章読書メモ。

クリッペンドルフ『意味論的転回』の読書会も最終回。最終章の第9章は「ウルム造形大学のルーツ」というタイトル。ただし、原著でのタイトルは“Roots in the Ulm School of Design?”となっている。そう考えると、「ウルム造形大学に(意味論的転回の)ルーツはあるのか?」くらいが適切だろう。クリッペンドルフが自らの学びの過程において、重要ではあるが、批判的に乗り越えてきたウルム造形大学におけるデザインの学びについて述べられている。

なお、このnoteは読書会のための私的メモであり、論文としての厳密性は保っていません。誤った理解もあると思いますので、その点はご容赦ください。

ちなみに、バウハウスの理念を受け継ぎつつもわずか15年の命脈しか(制度的には)保ちえなかったウルム造形大学については、さしあたって以下のような紹介がある。

摘 読。

本章で採り上げられているのは、初代学長でもあるビルの機能主義、ベンゼの情報哲学、マルドナードの記号論、チェルニシェフスキーの美の政治経済学、リッテルの方法論である。

バウハウスの伝統を受け継ごうとしたウルム造形大学において、ビルが提唱した機能主義はきわめて重要な地位を得ていた。ビルは機能を技術的機能、素材的機能、生産的機能、美的機能の4つに分けているが、とりわけ美的機能以外の3つを重視した。美的機能も軽視されたわけではないが、それ以外の3つの機能によっては説明できないものすべてを含むものとされる。この機能主義的な考え方それ自体は、技術的機能や素材的機能、生産的機能の3つに含まれないものをも視野に入れた点で、意味論的転回への可能性も潜在させていたが、クリッペンドルフによれば、ウルム造形大学では二次的理解に対する開放性がなかったがゆえに、自らの限界に自分たちを押し込めてしまう結果にもなってしまった。

ベンゼ(Bense, M.)は情報美学の研究者である。クリッペンドルフによれば、ウルム造形大学では情報理論への理解は「散漫なもの」であったようだが、それは情報理論の形式的な思考を見抜くための数学的トレーニングが欠けていたこと、コンピュータがなかったこと、計算することが科学的であると素朴に考えたことに理由があった。それに、ベンゼ自身はこの情報理論から意味論的転回へと進もうとしたわけでもなかった。

このベンゼの情報美学と密接な関係を持っていたのが、マルドナードの記号論である。マルドナードは、統一科学運動に近い立場を採り、記号論を普遍的なものとして捉えていた。当然、これはステイクホルダーの理解をデザイナーが理解するという二次的理解を排除するものであった。彼の記号論は、記号やシンボルの世界と物質的対象の世界という二つの世界を軸にした存在論のうえに成り立っていた。記号→モノという関係性であって、モノ→記号という関係性は想定されない。ここが、クリッペンドルフをして記号論との距離を置かしめた分岐点だったのだろう。

その次に出てくるチェルニシェフスキーは、クリッペンドルフが生まれる前のロシアの哲学者・経済学者である。

『現実に対する芸術の美学的関係』という書物を1855年に出している。日本語でも著作選集に収められている。クリッペンドルフの叙述や、チェルニシェフスキー(チェルヌィシェフスキー)についてのその他の叙述に目を通す限り、彼が美的感覚の社会的性格あるいは政治経済とのつながりに注目していたことは容易に推量できる。つまり、社会経済体制や政治体制、その根底にある思想的基盤(イデオロギー)と美的感覚 / 感性は無関係あるいは中立的であるとされることが少なくないが、そうではないという点をクリッペンドルフはチェルニシェフスキーから得た。それが、クリッペンドルフの美学批判につながっているわけである。

上のパラグラフを書いた後に、大学の図書館でチェルヌィシェーフスキーの著作選集を借り出し。チェルヌィシェーフスキーによれば、「芸術のすべての作品の第一の、そして一般的な意義は、人間にとって興味のある現実生活の諸現象の再現であ」り、「現実生活ということでは、いうまでもなく、客観世界の対象や存在物への人間の関係だけでなく、人間の内面的生活をも理解する」と述べる(著作選集第1巻、119頁)。この〈生活〉は、もしかすると〈生〉と訳してもいいのかもしれない。

クリッペンドルフが直接的に影響を受けたのは、リッテル(Rittel, H. W. J.)であるという。リッテルは数学者であったが、その任務は情報とコミュニケーション理論に関する講義であった。このリッテルのアプローチは、デザイナーが使用しているヒューリスティクスを体系的に探究するものとなった。オペレーションズ・リサーチや数学的決定論、ゲーム理論、システム分析、計画手法(←目標計画法のことか?)を導入した。こういったアプローチは、より複雑な世界を提案するとともに準備し、経験的な研究の可能性を開き、不確実な情報で意思決定する場合に行われる推論をテストすることや、提案するデザインが起こりうるカウンターデザインに対抗しなければならないことに気づかせた。さらに、あらゆることがほかのすべてのものとかかわる複雑なシステムにおいて、デザインがむしろ予期できない結果を持ちうることへの理解を促した。当然、こういった議論の方向性はデザインにおけるステイクホルダーの存在の浮かび上がらせる。リッテル自身がそこから意味論的転回に進んだわけではなかったようだが、クリッペンドルフがシステム志向からデザイン・ディスコースへと進んだのは、このリッテルからの影響も大きかったといえそうである。

このあとに、ウルム造形大学におけるデザインの6つの実践的成果が紹介されている。ここについては、読書会の他のメンバーの方からのコメントに俟つとして、最後の叙述に進みたい。

クリッペンドルフによれば、ウルム造形大学は意味を盲点としていたにもかかわらず、意味論的転回の基礎をなしてもいた。ウルム造形大学でのデザイン原理は「形態は機能に従う」であったが、意味論的転回を通じて、クリッペンドルフは「インターフェイスは認識可能な意味に従う」というかたちで提示しなおす。その根底にあるのが、デザイン・ディスコースなのである。


私 見。

時間の関係上、原著をほぼ確認しないまま、翻訳に即してクリッペンドルフの叙述をなぞってきた(ここは、H先生におすがりします)。クリッペンドルフの意味論的転回の主張は、それまでのデザインをめぐる言説や議論に対して、きわめて厳しいものがある。しばらくのあいだ、その厳しさに私自身は面喰うとこをがあったのも事実である。ただ、私自身はそれほど直面はしていないが、それでも少し身近なところでそういった感覚を覚えることが出てきて、クリッペンドルフの主張がわかるような気がしつつある。

その点で、クリッペンドルフはそれまでのデザインをめぐる実践や言説を、その功績も理解しつつ、それがそのままではだめだという認識に立って、デザインをめぐる批判的な議論を展開してきたということなのだろう。その意味において、この『意味論的転回』という文献は、きわめて骨太なデザインをめぐる理論的成果ということができる。

これに関して、ドイツ経営経済学の研究から(!!!!!)基礎デザインの研究や実践へと転身した向井周太郎の捉え方とのニュアンスの差も興味深い。ここは個人的な姿勢の違いなのか、それともideaというものに対する文化的な相違なのか、ちょっと気になったりもする。

そういったからといって、これは向井に対する批判ではない(むしろ、この本はものすごく好感をもって読んだ)。

クリッペンドルフのこの本を買ったとき、その最たる理由は〈意味論的転回〉という言葉以上に、ステイクホルダーという存在にかなりの重点を置いているというところに魅かれたからだった。ただ、あまり読みやすくないこともあって、長らくちゃんと読まないまま放置していた。あらためて、この読書会で通読してみて、クリッペンドルフの意味論的転回とは、

(1)他者(ユーザーなどのステイクホルダー)に自律性を認めている
(2)多様なステイクホルダー、というよりアクターの相互関係性に重点を置いている
(3)それを考える枠組として、システム思考 / サイバネティクスに立脚している
(4)その関係性において生じる〈意味〉に、デザインを考えるための論軸を設定している

というところに、その特徴を見定めることができるように、私自身は受け取った。これらは、少なくともウルム造形大学において、このかたちで論じられたり、実践されたりしたわけではなかった。むしろ、乗り越えられるべきものとして位置づけられた、ということであろう。

それにしても、クリッペンドルフによる〈デザインの意味論的転回〉は、最近になってようやく具現化しつつあるといえるのかもしれない。同時に、この流れと直接は結びついていないにもかかわらず、ドイツ語圏におけるシステム志向的経営経済学、そしてStakeholder-orientierte Ansatzとクリッペンドルフ、さらにはサービスデザインの親近性は、やはり個人的関心として魅かれる。


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