これからの大学での学びの可能性。リベラルアーツとしてのデザイン。
山縣ゼミ12th(2022年3月卒業予定)は、もろに新型コロナウイルス禍の影響を受けた代です。合宿にも行けず、飲み会もコロナ以降は、2020年の秋ごろ、蔓延が収束していたときに一度だけ。2020年度の後期はほぼ対面でやりましたが、それ以外はオンラインでゼミをやることが多かったです。
ただ、一方でオンラインをフル活用するということもできたという側面はありました。そして、今まで私自身が取り組んできたことが促進された部分があったのも事実です。
そのひとつのあらわれとして、こちらのインタビュー記事を。
インタビューされているのは私ではなく、12thメンバーのよしきです。詳しくは、ぜひこのインタビューをお読みくださいませ。
学史研究者が実学を意識するということ。
私自身の研究は、経営学史や経営学原理といった、経営学のなかでもきわめて抽象性の高い領域 / アプローチです。最近でこそ、サービスデザインやデザイン経営といった領域にも関心を持っていますが、やはり出自は経営学史です。
経営学史って、経営学の理論や経営思想がどう展開してきたのかを明らかにするところに最大のポイントがあります。そうなると、経営実践との関係性は間接的になりやすいところがあります。むしろ、短絡的に経営実践と結びつけると、理論や思想の理解がブレてしまう危険性すらあります。
一方で、私は今まで講義科目としての「経営学史」を担当したのは、大学教員生活まる19年のなかで、とある大学で非常勤として1年やっただけです。
その点で、経営学史そのものを講じるというのではなく、経営学史を「織り込む」ということをつねに考えないといけない状況にあります。今も「企業行動論」や「企業発展論」という科目を担当していますが、経営学史的な知見を活かしつつ、テーマ的には現代の企業、あるいは価値創造実践を考えるということになってきます。
まして、今の勤務先は教育理念のなかに〈実学教育〉を掲げています。実学というのをどう捉えるか、それだけで議論百出でしょうから、ここでそれについては触れませんが、少なくとも社会とどのようなかかわり方をしていくのかを考えるきっかけにはなります*。
その一つの試みとしての《価値創造デザインプロジェクト》
その一つの試みとして、2017年度から展開しているのが、価値創造デザインプロジェクトです。中小企業さんだけでなく、地域とご一緒させてもらうこともあります。究極的には「価値の流れをデザインする」というのがテーマ。考える枠組としては、企業行動論という講義での捉え方をベースにしています。
具体的なことは省略しますが、商品企画というかたちをとることもあれば、伝える(プロモーションなど)、届ける(流通など)といった側面に焦点を当てることもあります。実際に商品化されたものもありますし、学生たちがECサイトを立ち上げたというのもあります。
その際にも、できるだけ根本的なところから考えるようにしてほしいので、他大学との合同研究報告会でもプレゼンテーションできるように、理論的に鍛えるということも試みています。
徐々にではありますが、プロジェクトも内容が濃くなってきているように感じています。手前味噌で恐縮ですが(笑)
原理・基礎学問と実験・実装のあいだに。
さて、どんな学問でもそうですが、原理や基礎理論はそのまま実践に使えるわけではありません。個々の対象についての実証的研究に支えられ、さらにどうやって実装していくのかが課題となります。
もちろん、学問は実践に直接的に役立つことをめざす「義務」はありません。そもそも、「役に立つ」かどうかなんてのは、状況や視座によって変わってきます。今まで目を向けられてこなかったところに光を当てることも、学問の重要な役割です。何なら、そっちのほうが大事かもしれません。
同時に、実践とどうかかわっていくのかをまったく無視していいわけでもありません。学問的知見が誤用・悪用される危険性にも、やはり留意しておく必要はあるでしょう。それに、学問的知見によって、実践がよりよい方向へと展開していくなら、それはそれですばらしいことです。
学問って、包丁みたいなもんだと思ってます。素材に合う包丁を使えば、ものすごく効き目を発揮しますが、研いでなかったら素材がボロボロになりかねませんし、素材に合わない包丁を使ったら、そもそも使えない(マグロ包丁でリンゴを剥く人はいないでしょう)、下手をすると大けがをすることだってありえます。その意味で、私自身は原理や基礎理論を主とするとしても、実験・実装を視野に入れておくこと自体は、それなりに意味のあることだと思っています(原理や基礎理論にかかわるすべての研究者がそうする必要があるかどうかは、また別です)。
ちなみに、その観点から、私が担当している企業発展論は視座と方法としてのデザインを摂り込んで、2020年から内容を大きく変化させました。
このおかげで、企業発展論という講義は、かなりハードな科目になってしまいました(笑)しかし、今のところ、これ自体はこれからの価値創造を考えるうえで大事だろうとかんがえているので、もうしばらくはこれでやるつもりです。
実践的課題は、学問領域を超える。たいがいの場合。
実践的課題というのは、学問領域・学問体系と完全に合致するわけではありません。重なり合ったり、ずれたり。それがふつうです。
このあたりをどうするか。しばしば、学際的な問題解決ということが言われます。たとえば、私が専門にしているドイツ経営学においても、1960年代なかごろに、コジオール(Kosiol, E.)やシュミーレヴィッチ(Chmielewicz, K.)、スツィペルスキー(Szyperski, N.)が、諸学協働の枠組としてシステム思考を摂り入れようとしていました(1965年論文)。ただ、その試みがうまくいったかと問われると、微妙なところではあります。
学問体系という観点だけでいえば、隣接諸学の研究成果を、自らの学問体系に摂り込むことは可能です。もちろん、その際の概念の使い方や論理構築において、しっかりと練り上げる必要があるのは言うまでもありませんが。少なくとも、学問それ自体の統合ということについては、私はあまり乗り気ではありません(というか、意味がない)。しかし、諸学問が協働することは、大いに賛成です。
では、実践的課題の場合はどうなるでしょうか。
さっきの料理のたとえでいうなら、素材の取り合わせ、料理の仕方、そのための道具揃えなどを考える必要があります。
実装原理(姿勢&方法)としての、そして同時にリベラルアーツとしてのデザイン。
学問体系とはいちおう別個に生じる実践的課題は、当然ながら学問の境界を越えます。その境界の「あわい」はひじょうにおもしろいわけですが、同時に野性的な乱雑さにも満ちているといえそうです(すべてが、野性的で乱雑だといっているわけではありませんw)。
そこで、いかにして学問的知見を活かしていくことができるのか?
そのための基本的な視座というのは、今までこれといってなかったのが現実ではないかと思います。その際の実装原理になるのが、デザインではないかと、私は考えています。
幸いなことに、デザインの領域においても、具体的な方法だけでなく、視座をめぐる議論も多くなされるようになってきました。たとえば、須永剛司先生や上平崇仁先生の著書などは、その好例だと思います。
さらに、将来を構想するという意味でのproject(投企)という点まで視野に入れると、いわゆる企業者的姿勢(Entrepreneurship)の議論も参照できるでしょう。ここには、美学や詩学といった感性にもとづく制作(making / poiesis)もかかわってきます**。そして、いうまでもなく、その構想を具現化するはたらきとしての技術も浮上してきます。
タイミング的にたまたまちょうど合致したのですが、2022年度の後期から、勤務先で理工学部の冨田義弘先生と一緒に、全学向けの共通教養科目「教養特殊講義C」という授業を開講することになりました。サブタイトルは「デザインマインドが拓く価値創造」で、2022年度のテーマが「バイオコークスから広がる新たな循環型社会を構想する」。
こんな感じで、デザインという視座&方法は、さまざまな学問的知見を実践的課題という対象に結びつけることを可能にしてくれると、私は考えています。だからこそ、デザインは単なる手法だけの話ではなく、まさに現代のリベラルアーツであるといえるわけです***。
だからこそ、学問のおもしろさと実践的課題とのつながりを体感してもらうための組み立てを。
ここまでお読みくだされば、趣旨はご理解いただけるかと思いますが、私は専門的な学問体系を解体しようとかそんなことはまったく考えていません。学問体系には学問体系の意義があります。何より、知識というのは、一定の体系化を必要とします。
ただ、同時にそれは一つの行き方であって、それだけがすべてではありません。実践的な課題****において、さまざまな学問的知見が糾合されることもまた必要です。
冒頭に掲げた、このインタビュー記事で出てくるUX Challengesでよしきや他の大学の学生さんたちとがチームを組んで挑んだ“macoma”は、大学が異なるだけでなく、学部や学科など専攻も違っていたわけです。
このチームメンバー、最初から専攻分野の違いを意識して集まったわけではないと思います。たまたまそうなった。しかし、デザインという視座と方法(もちろん、その理解や習熟の度合い、さらには捉え方など、さまざまな違いはあったはず)を解釈の違いに驚き、時に衝突もし、対話しながら共有していったことで、結果的に評価してもらえる提案を示すに至ったわけです。
こういうケースから、デザインという視座や方法を、現代におけるリベラルアーツとして位置づけることが必要だと、私は思うのです。単独の学問体系の実装原理としても活かせるし、複数の学問体系から知見を実装へと落とし込んでいく際にも活かせるところが、リベラルアーツとしてのデザインの最大の魅力かな、と。
2013年ごろから「アクティブ・ラーニング」という名称でいろいろ試みはじめて、もう丸8年。今となっては「アクティブ・ラーニング」という言葉に執着することもまったくなくなりました。今でもその当否を問う向きもあるようですが、そこは私にとってどうでもよくなりました。なぜなら、知識獲得と知識活用を切り離して論じることに何の意味もないからです。だいたい、この文脈ではアクティブ・ラーニングを知識活用という側面でしか考えていません。しかし、知識を持ってないのに活用することなんてできませんし、そもそも知識は状況によって規定されるので、状況を知る、あるいは体験するというプロセスなしには、知識もなかなか頭に入ってこないでしょう。その意味で、いったん受動的に講義を受けることにも意義はありますし、でもそれだけでいいなんてことはありえなくて、じゃあその知見は実践とどう切り結んでいるのかというところまで考えて初めて、学びが進んでいくわけです。
リベラルアーツとしてデザインを捉えると、生活世界としての環境(Umwelt=周界)がより活き活きとした姿で現前してくるし、だからこそ知識を獲得することにもおもしろさを感じることができる。ここにこそ、デザインという視座と方法の大きな意義があると、私は考えています。
附 記。
以上の雑考は、2月に開催される、とある成果報告会でしゃべる内容を自分で整理するために書きつけたものです。ネタバレ感ありますが、公開します。
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