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オンラインセッションに生で参加した。#QUM

今日は、先月に開催された #QUM の続篇的イベントである #QUMオンラインセッション に生参加してきました。ゲストは、元Lenovo代表取締役で、来月から資生堂のCSO(Chief Strategic Officer)に就任されることが決まっている留目真伸さん。こないだまで、スイスのローザンヌで開催されてたIMDにも参加しておられたとのことで、その折のことも踏まえながらのお話でした。

興味深い話ばかりで、明日を気にせず議論に参加したかったです(涙)

それはともかくも。
今日の話から、私がことさら反応した点をいくつか。若干、私の解釈が混じってますので、そこはご容赦ください。

かなり冒頭に登場した議論がこれ。


「新規事業とは、会社の目的を再定義していくことである」


これはのっけから、真っ芯を衝いてくる話で、個人的に大昂奮。今日の話のなかで、会社の目的という点に、かなりのポイントが置かれていたように思います。会社の目的とは、企業理念を含む、その企業の“コンセプト”。これは、顧客のどんな欲望や期待を充たすのかという問いに対する、その企業みずからの表明です。

ちなみに、組織を複数の個人の協働として捉えたバーナードは、組織が解体されるのは〈目的が実現不可能とメンバーによって判断されたとき〉とともに、〈目的が実現され終わったとき〉の2つの可能性があると指摘しています。それゆえにこそ、組織が維持される=協働が持続的に展開されるためには、目的を達成・実現するのみならず、目的を再定義・再設定することも必要であると述べています。この点を考えると、今日のこの留目さんの議論は、バーナードの主張と大いに重なり合います。

さて、その際に大事になるのが、“想像力”。話のなかで、留目さんから「将来のことを想像するのは難しいことではない」という発言がありました。私も将来のことを想像するのは大好きなので、その発言の趣旨には大いに賛成しつつも、あえてこう問うてみたいのです。

「想像(特に他者に対する)ができる、あるいは想像するのが好きであるというのは、重要なcapabilityなのではないか?」と。

想像することが日常である人は、この点を当然すぎることとして、問いとして認識しません。一方、想像できない人、しようとしない人もまた、そもそも他者に想いを巡らすことが、結果としてどんな将来を引き寄せるのかを考えることさえしません。ゆえに、対極でありながら、この点はなかなか問いとして認識されないのです。

もちろん、その想像は何らかの事実的手がかりに拠らなければ、ただの妄想にとどまります。ここを徹底的に考え、実践しようとするのがUXデザインであり、サービスデザインであると、私は捉えています。

さて、この想像の重要性から次いで出てきた論点が、“期待を惹き寄せる”ということ。これに関して、株主は本来的に配当や株価にしか興味がないという理解に立ったうえで、“だからこそ”(←これは山縣が補足した接続詞)「株主に期待させる」ことが重要という指摘には、「まさに!」と膝を打ちたくなりました。

これは、株主やベンチャーキャピタリストに限ったことではなく、「おもしろいから、一緒にやろや!」という巻き込み(stakeholder involvementによる資源動員)そのものです。

留目さんは、みずからの会社であるHIZZLEを立ち上げるにあたって、「会社人から社会人へ」というメッセージを提示しておられます。ここにいう社会人とは、

社会の課題を理解し、それを解決していくことで社会と価値交換を行っていく


人であると定義されています。つまり、社会に対して何がしかの価値を創造し、他者にそれをもたらすことができる(それによって、相手からも価値を受けとることができる=価値交換)人を、社会人と呼んでいるわけです。

こういう人間像に立脚するならば、まさに社会は「異質な存在である個人が、それぞれの能力を発揮することで補完しあう」というアリストテレスが提示した本来の意味での共同体として捉えうるでしょう。もちろん、それはあくまでも理想的な姿であって、つねにそれがうまくいくとは限りません。しかし、それをめざしていくこと自体は、むしろあるべき姿勢でありましょう。

では、なぜこういった姿勢が必要となってきたのか。それは、まさに社会経済のありようが変化してきたからに他なりません。それを示す表現が〈デジタル・トランスフォーメーション〉。

既に多くの人が認識しはじめているように、20世紀型の工業化社会は終焉に近づきつつあります。ということは、これまでの思考様式や実践のありようが通用しなくなるわけです。その際に大事なのが、次の点。

工業化社会:同製品・サービス一つあたりの価値は不変。


現代社会:一つの製品やサービス、コンテンツ(そもそも複合化している)の価値は変化する。


後者について、何のこと?と思われる方もおられるでしょう。

工業化社会においては、製品やサービスの価値の均一性が重視されてきました。したがって、コストをいかに抑制するかが課題となります。それに対して、現代社会では、製品(モノ)やサービス(コト)、コンテンツ(情報)がさまざまに結合されて顧客の生活に入り込むことで価値をもたらします。

となると、コスト抑制よりも、ネットワーク効果によって、顧客に「おカネを支払ってでも!」と感じさせ、また実際に満足を生みださなければなりません。これはBtoCに限らず、BtoBであっても同様。この点の留目さんの指摘は、まことに鋭くておもしろい点でした。私は、この主張にオーストリア学派の資本理論を想起しました。

そして、こういった新しい価値創造のためには感性が重要だという指摘もありました。この点、オンラインセッションが始まる頃合いに議論になっていた、個人が所属するコミュニティの複数性と重なり合うように、私は捉えました。

一つのコミュニティにしか属していないと、そこでの価値観やものの見方しか出てはこないでしょう。さまざまなコミュニティに参加すること、さらにはそのなかで〈自分自身〉という存在を創り出していくこと、これこそが感性を磨いていくことに他ならないと、私は考えます。おそらく、この理解に関して、留目さんも同様なのではないかと、私は推量しています。

関係性のなかで自己を捉えるという視座は、きわめて重要な点です。じつはマルクスもそうでしたし、最晩年のメンガーもそういう視座を共有していたのではないかと推測できるところがあります。ニックリッシュの〈良知(Gewissen)〉の議論なども、単なる規範論として捉えるのでなく、この文脈で読むべきなのは明白です。最近では、ガーゲンの社会構成主義などがこれに該当するでしょうし、エンゲストロームの拡張的学習の議論もまた、この流れに属するでしょう。

てな感じで、ひじょうに濃密な1時間ちょいを過ごさせてもらいました。現場聴講されてたみなさんや、オンラインで聴講されてたみなさんがどう受けとめておられたのかも気になるところです。私は、経営学史という経営学のなかでも超絶ニッチにして、かつ、ぱっと見には実用性ゼロとも思われがちな領域で研究をしているわけですが、そんな私にとって今夜はひじょうに実りのある、思索に満ち溢れたひと時となりました。

ありがとうございます!!

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#経営学史
#経営実践と経営学史の対話



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