自分で自分のことを褒めたい(2)
これから、書きながら考えたいこと。それは自分で自分のことを褒めたい、と思える瞬間というのは、人それぞれなのだろうか。
幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである
トルストイの『アンナ・カレーニナ』冒頭、どこにでも引用される名文である。同じように、以下のように言えるのだろうか。
自分で自分を褒められる人はどれも似たものだが、自分で自分を褒められない人はいずれもそれぞれに自分を褒められない。
こう書いてみて、そんな気がしてくるのは、トルストイの言葉の影響であろう。あえて、逆も書いてみよう。
自分で自分を褒められない人はどれも似たものだが、自分で自分を褒められる人はいずれもそれぞれに自分を褒める。
逆を書いてみると、こちらも真実のように思えてくる。ここ以降、便宜上「自分で自分を褒められる=自尊感情が高い」と記していく。
太字の前者は自尊感情が高い人には共通点があると読み取れ、後者は自分なりに褒める方法を持っている人は自尊感情が高いと読み取れる。
生まれ育った環境や置かれた状況によっても大きく異なるだろう。特に周りに自分の行動や存在を肯定してくれる人がいたかどうか、身近な保護者との関わり方なども大きな要因だろう。
冒頭の問いに戻ろう。自分で自分を褒めたいと思える瞬間についてである。ハードルが低い人はその瞬間がたくさんあるのかもしれない。しかし、数が多ければ、一つ一つを感動することにもつかれるだろう。
ハードルが高い人は、褒めたいと思える瞬間は少ない。人生で数回しかないかもしれない。そのかわり、感動の大きさは相当なものだろう。
「感動の数(t)×感動の深み(d)」としたときに、「t×d」はハードルの高さに関わらず同じなのかもしれない。tの出現確率はハードルが高い人のほうが少ない。ない、という可能性も否めないわけだ。特に、誰かに定められた基準ではなく、自分で自分を監視しチェックしているのだから、ごまかしはまったくきかない。とても厳しい。
僕は、ハードルを低くして、たくさんの小さな感動を味わいたい。こんなことを書いていたら、頭の中で流れてきたのは、THE BLUE HEARTSの「情熱の薔薇」だ。
なるべく小さな幸せと なるべく小さな不幸せ なるべくいっぱい集めよう。
考えることは続く(そして、きっと日はまたげない)
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