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いま「配信されている演劇」の種類はとても偏っていると思う、という話。


劇場が、実質閉鎖となってからこちら、演劇についていろんなことを考えています。

僕以外の演劇関係者もそれぞれに、それぞれの思考で演劇についてを考え、発信している様子も観測できます。

事態の早い段階から、インターネットを介して世界中の劇場やカンパニーによって劇場公演の映像記録が「配信」され、自宅でもパソコンやスマートフォンの画面でこれまでより多くの演劇作品を楽しめるような状況になりました。

「ズーム(zoom)」のようなWeb会議サービスを利用した新作(または既存戯曲の改訂版)の上演を試みる人もたくさん出てきました。はじめは小劇場を主戦場としているような比較的若手の演劇人たちによってそのチャレンジが主導されましたが、5月に入るころになると、テレビドラマや商業映画で活躍する俳優たちによる「配信演劇」の挑戦も増えてきました。

5月6日には「12人の優しい日本人を読む会」という名で、リモート読み合わせが配信されました。

NHKなんかは『今だから、新作ドラマ作ってみました』という三夜連続のドラマシリーズを製作。リモートでドラマを作る、というチャレンジをしていました。

上手い俳優が、よく練られている台本を元に、芝居を立ち上げると、けっこう面白くみられる、ということも体験できました。しかしその体験が「演劇を観たこと」だったのかどうかは疑問が残ります。


家で演劇(らしきもの)を観ることについては、これまで2つ記事を書きました。

ひとつめの記事では「劇場空間という高度に専門化された空間ではない、非常に日常的な空間で演劇作品を見続けることの難しさ」について書きました。

ふたつめの記事には、「(生の)演劇にある、”なにもないのになにかがある空間”こそ、演劇の面白さだと僕は思う」というようなことを書きました。


でも、当然ですけど、いまある配信演劇を心から楽しんでいる方もたくさんいます。僕が「あまり面白くなかったな」と思ったものを、「とても面白かった」とおっしゃってる方もたくさんいるわけです。

それは、感染症の流行以前にも当たり前のように起こっていた現象でした。ひと言で「演劇」といっても様々な種類、スタイルのものがあるからです。ひとそれぞれに好みが違うわけです。「作る側」も「見る側」も。

今日はその「違い」について考えてみようと思います。

考える際には、「観客として演劇に何を求めるか」という点に注目してみました。

そうすると、いま、配信の技術で私たちの家まで届けられる作品の種類が非常に偏ったものである、ということが見えてきます。

僕は、演劇の良さは「人を救う力がある」ことだと思っています。

そして、「人を救う」ためには、さまざまな種類の演劇がこの世に存在し、そこに可能な限り自由にアクセスできる必要があるとも思っています。

病気や怪我のことを考えればわかりやすいかと思います。

ガン治療ために抗がん剤を投与する場合があります。しかし、ガン治療に効果的だから「病気の人を治す力がある」といって、風邪の患者や足を骨折した患者に抗がん剤を投与することはしません。

それぞれの病気や怪我に合わせて、対処する方法は変わってくるのです。与えられるべき薬も変わってくるし、取るべき処置も変わってきます。

演劇も同じことです。

ハチャメチャなコメディで救われるときもあれば、王道のエンターテイメントミュージカルで救われるときもあります。シリアスな会話劇に救われるときもあれば、多くの人に敬遠されそうな難解な不条理劇や表現主義的な演劇で救われるときもあります。

劇場が開いていて、さまざまな演劇が生で上演されていたときには、多様な演劇が観客に供給されていました。しかしいまは供給される演劇の種類に、かなりの偏りがあります。

この偏りは、致し方ないところでもあります。状況が状況ですから。しかし、この状況がずっと続くとすると、問題です。ある種の演劇で救えたはずの人が、救えなくなっているということですから。いまの世界の医療機関の状況と、なんだか重なってきますね。

いま配信されている演劇には、どんな種類の偏りが見えるのかについて、書いてみたいと思います。

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ところであなたは、どんな演劇が好きでしょうか。

こう聞かれて、なんと答えますか?

俳優名を挙げて「〇〇さんが出てる作品はチェックします」という答えがあるかもしれません。劇団名を挙げる人もいるかもしれません。演出家の名前や劇作家の名前を挙げる人もいるでしょう。

製作会社で選ぶ、という選び方もありますね。劇場で選ぶ、ということもあるでしょう。

正直、これらの要素はとても密接に関係しあっています。

また、作品名を挙げてくださる方もいるでしょう。というかもしかしたら、作品名や劇団/製作会社で「好きな演劇」が決まってくるスタイルの方が、多数なのかもしれません。

そうだ、ミュージカルの場合は、作曲家の名前も挙がってくるかもしれませんね。ちなみに僕はソンドハイム作品が大好きです。


作品の「タイプ」で答えることも可能ですね。

「ハッピーエンドの作品が好きです」とか「考えさせられる社会派の会話劇が好きです」とか。「あんまり堅苦しいのは苦手」とか「ミュージカルはあまり好きではありません」という答え方も可能でしょう。

「暗黒舞踏が好きです」「表現主義的な作品が好きです」「アングラやテント芝居が好き」「現代演出のオペラが一番」「シェイクスピアだったらなんでも観ます」「ファミリーミュージカルが好き」「殺陣やアクションが激しいものが好き」「2.5次元の舞台が好き」とか、いろいろあると思います。


さて、ここで挙げられた「どんな演劇が好きか」に対する答えのうち多くは、「物語」に属する要素です。この場合の「物語」とは、ナラティブなものだけでなく、その作品の製作を取り巻く「エピソード」も含みます。

どういうことか、説明します。

基本的に「演劇」は、上演の元となる「戯曲」が存在します。この戯曲はそれ自体が「文字」によって書かれている、文学作品でもあります。

戯曲は多くの場合、というかほとんどすべてが、なにがしかの「物語」を語るために書かれています。戯曲と物語、演劇と物語は、切っても切れない関係です。

なので、「演劇を観る」ということはある立場からしてみれば「物語を観る」と同義です。

登場人物たちの境遇を理解し、そこで起こる事件に心を動かされ、放たれるセリフや行動に怯え、笑い、涙し、物語の結末に共感したり反発したりすることが、観劇の醍醐味のひとつでもあります。

この、戯曲に描かれ、舞台上で上演される、ある「筋」にまとめられるような統一性のある表現のことを「ナラティブ」とします。舞台上では、俳優の「言葉」や「行動」、つまり「アクション」によって表現されます。

その演劇作品で語られるナラティブは、その作品にとってのもっともわかりやすい「物語」であります。この「ナラティブな物語」の出来不出来や、タイプの違いを指して私たちは「あの芝居は面白かった」とか「つまらなかった」と言うことが多いのではないでしょうか。

演劇における「ナラティブ」は、その作品の物語の枠組みの「内側の物語」と言い換えることもできます。なぜならば演劇を取り巻く「物語」は、ナラティブなものだけではないからです。


たとえば僕たちは、こんな基準で観る舞台を決めることがあります。

今度の公演は、あの人の退団公演だから見逃せない。
この作品は30年前に世界的な演出家によって上演されたが、今度の上演はその弟子によって上演される。弟子が巨匠をどう乗り越えていくのか、これは見ものだよ。
ずっと応援してきた俳優さんが、今度大きな舞台で初めて主演をやる。すっごく嬉しいけど、気が気じゃない、でもあの人なら絶対に素晴らしい演技をしてくれるって信じてる、全ステチケット取る。

ここでは、上演される作品の「ナラティブ」な物語については言及されていません。しかし観客は、観劇をすることを決めています。

それは、上演作品の「物語の外側」にある別の物語に強く惹かれたからです。

この作品そのものの物語の枠組みの「外側の物語」を「エピソード」と読んでみたいと思います。

スター俳優の退団記念公演。偉大な師匠が上演した作品に弟子が挑戦するという記念碑的公演。応援していた俳優の晴れの舞台。

ここには非常に濃く、観客当人にとってはとても魅力的な「エピソード」が存在しています。この「エピソード」の力によって、観客はその舞台を観ることを決めます。

近年のマーケティングの分野ではこれを「ストーリー消費」と呼んでいます。「コト/モノ」自体の品質とは違う、その商品を取り巻くストーリーに照準を合わせた販促をすることで、消費行動をより刺激できるようなトレンドが生まれてきました。

しかし、演劇について語るときに「ストーリー」という言葉を使ってしまうと作品自体が語る「物語=ストーリー」と語感が近く、思考の混乱を招くのであえて別の「エピソード」という語を当てはめてみました。

観客は「内側の物語=ナラティブ」と「外側の物語=エピソード」を統合して、劇作品から生じる「物語」を楽しんでいます。


この、「物語」に観劇行動の際の興味が向くタイプのことを「物語指向型」と呼びたいと思います。その文字の通り、観劇の際の興味が「物語」に「指向」するということです。もちろのこの「物語」には「ナラティブ」も「エピソード」も含まれます。

どのくらい「ナラティブ」に惹かれるのか、どのくらい「エピソード」に惹かれるのかは人それぞれですし、人によっても時と場合で変わってくるでしょう。しかしどちらにしても、その人はその演劇の「物語」に惹かれているという点で変わりはありません。


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次に、「物語指向型」と対になるような状態を考えてみます。

上に挙げた「「演劇」と「映画」という似て非なるもの。」という記事の中で僕は、映画と(劇場)演劇との違いとして、演劇では「「物ではないもの」を観ることもできる。」と指摘しました。

少し長くなりますが引用してみます。

僕らは劇場の座席に座って演劇を観るときに、「なにもない空間」を観ることが許されている。そして、そこに漂う「空気感」みたいなものを受け取る自由を与えられている。

AとBという人物が対話をしている。そこで語られる言葉を聞き取っている。彼らの仕草や表情が何を表出しようとしているのかを読み取ろうともしている。

そして僕は、そういった目に見えたり耳に聞こえたりするだけではない、AとBというふたりの人物の「あいだ」にある「なにもない空間」に「何があるのか」をも、よくよくキャッチしようとしているのだ。

あるいは、そのふたりが立っている場所の上や、うしろや、横に広がっている空間。そこに「何が漂っているのか」「何が流れているのか」「何が居座っているのか」をも受け取ろうとしている。

僕にとって劇場で演劇を観る、という行為は、「そこに起こっていること/表出されているもの」を受け取る行為であると同時に、「そこには起こっていないこと/表出されていないもの」を受け取る行為でもあるのだ。

ここで表現した「なにもない空間」は、ナラティブなものではありません。なぜならなにもない空間は、言葉による物語を紡がないからです。また、本質としてエピソード的でもありません。もちろんそこにエピソードを「読み取る」ことは可能だと思いますが、「空間」や「そのモノ」の存在にはじめからエピソードが織り込まれているわけではありません。

舞台上にのせられたモノや出来事を、物語志向型に消費することだけに慣れてしまっている人にとっては、舞台上に「物語ではないもの」が存在し得るということを、急に理解することは難しいかもしれません。

しかし、舞台上には多分に「物語ではないもの」が存在しています。

俳優の身体は本来、物語ではありません。ただそこにある肉体、は、はじめから物語としてそこに素材するわけではありません。しかし、そこに物語を「読み取ろう」とする観客の意識によっては、そこから物語を読み取ることは可能です。

美術や照明や音響も、本来の存在としては物語ではありません。もちろん、作り手がその美術や照明や音響に物語を語らせようとすることは可能ですし、作り手の意図がどうであれ、観客がそこから物語を読み取ろうとすることも可能です。

しかし、「ナラティブ」に語られてはいないそれらの「物質」や「空間」や「現象」は、本来的には「物語の軸」をその存在の軸としません。それらは、「それら」であること自体によって、そこに存在しているのです。


演劇を観るとき、この「存在」に注視をしてそこに起こる出来事を受け取る、ということが可能です。僕はこれを「存在指向型」と呼ぶことにします。


「存在指向型」の視点から演劇を観ていくときに重要になってくるのは、「現象」や「状態」です。「なにが起こったか」や「どのようにそこにあるか」が重要なのであって「なぜそれが起こったか」や「どうしてそこにあるのか」は重要ではありません。

目の前の出来事に対して理由や因果関係を読み取ろうとする姿勢は、「物語指向型」の観方だといえます。しかし「存在指向型」の観方では、理由や因果関係を推測/理解することは一度棚上げし、目の前に起きている出来事をそのままに受け取ろうとします。意味から離れる、という言い方もできるかもしれません。


たとえば、神秘主義の影響が強い表現などは、「物語指向型」の観方で対峙してしまうと往々にして「意味がわからなかった」というような感想を生み出しがちです。これはそもそも、作品自体が「物語」を扱っていない場合があるからです。

また、物語を扱っていたとしても、従来の「筋の通った」物語のかたちとは違っていたり、作品中の物語の重要性がかぎりなく低く設定されている、という場合もあります。

人間が笑ったり泣いたり怒ったりというのは、多くの人にとっては「物語」によって引き起こされる現象だと理解されますが、「存在指向型」の立場からすると「現象」や「状態」によって喜怒哀楽が引き起こされるという理解もできます。

かぎりなく美しい青空を見て涙がでるとか、舞踏家の指の動きを見たら自分の内側の怒りが触発されたとか、そういう出来事は私たちの人生の中にもたくさん起きていることです。

僕自身は「物語指向型」と同じかそれ以上にこの「存在指向型」の観方に楽しさを感じます。意味に必要以上に囚われず、目の前の現象や状態と自分とのつながりのなかになにを見、なにを感じるかという物事の観方は、非常に面白い観劇体験を僕に与えてくれます。

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この「物語指向型」と「存在思考型」というふたつの観劇姿勢は、それぞれ異なってはいますが、相反するものではありません。ひとりの観客の中に共存することが可能です。

ですが今回は、あえて、このふたつの観劇姿勢をひとつの軸の両端に置いてみることにします。

そしてさらに思考を深めるために、その軸に垂直に交わる軸を設定し、その新しい軸の両端には「能動的受容」「受動的受容」という状態を置いてみたいと思います。

この「能動的受容」と「受動的受容」は、観劇をする際の観客の姿勢についての、もうひとつの分類です。


「能動的受容」とは、舞台上で起きている出来事や、舞台上に存在している現象や状態について、観客がより「能動的」に掴みにいっている受容の仕方のこととします。

芝居の主題やテーマを批評的観点から読み解こうとする観方や、装置や衣装、音楽、照明の細部までキャッチしようとする観方は、能動的受容の姿勢でしょう。ある特定の俳優をオペラグラスで終始追いかける、というのも能動的受容だと思います。

セリフを一言一句聞き逃さないようにとか、歌われている歌詞をすべて理解しよう、みたいな観劇の仕方もかなり能動的な受容の形態です。


一方、ぼんやりと全体を眺めるような、焦点の合わない状態での観劇は「受動的受容」といえるかもしれません。他の考え事をしたり、どうにも舞台上に集中できないときは受動的受容の状態になっていると考えられます。

目の前の演劇にそれほど興味はないのだけど、学校のカリキュラムの一環として、仕事や家族との付き合いとしてその席に座っている、という場合にも受動的受容の状態になりやすいかと推測されます。

また、「お芝居の世界にすべてを任せて夢見心地になりたい」「音と言葉の波に飲み込まれたい」というのもある種、受動的受容の姿勢かもしれません。


ひとつ補足しますが、例えばテレビと映画を比べて、視聴者にとってテレビは受動的なメディア、映画は能動的なメディア、と言及されるようなことが多々あります。

確かにテレビはそれが自分の居住空間に置いてあればスイッチをつけるだけで情報がプッシュされてきます。映画の場合は、映画館に足を運ばなければなりません。そういうレベルにおいてはテレビは多分に受動的に見れるメディアだし、映画は能動的に見るメディアです。

しかし、映画館の客席に座った瞬間に、観客にはもういちど選択の瞬間が訪れます。目の前で上演される映画を「能動的」に観るのか、「受動的」に見るのか、です。

映画館に行くという行動は非常に能動性を伴いますが、だからといって映画を鑑賞するという行為まですべて「能動的」であるかというと、疑問なのです。観客は、その目の前の映像や音情報を、能動的に受容することも、受動的に受容することもできるからです。

演劇も、同じことが言えるでしょう。

「興味ないんだけど、なんか、チケットをもらった」みたいな状況じゃない限り、演劇を観に行くという行動はかなり能動的です。演目に興味を持ち、公演の情報を調べ、チケットを確保し、振込・発券などの手続きを済ませ、日常のあれこれと折り合いをつけて劇場に足を運ぶ。かなり大変な工程です。

しかし、その大変な工程を「能動的」にクリアしたとしても、客席についた瞬間、観客にはまた「能動的」に芝居を観るか、「受動的」に芝居を観るかという選択肢が与えられます。

もちろん、一貫してどちらかの状態でなければいけない、というわけではありません。僕らは観劇中に「能動」と「受動」の両端のあいだを行ったり来たりすることが多いでしょう。初めは受け身的に観ていた芝居がけっこう面白くて、どんどん能動的に観るようになる、みたいなことは確かにあります。逆もまた然り。

ですが、どうやら人によって、「能動的受容」と「受動的受容」のどちらの要素をより多く持っているかには、ある程度の傾向があるようです。観劇の仕方の「癖」ともいえるかもしれません。


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ここまでで「物語指向型/存在指向型」という観劇姿勢の軸と、「能動的受容/受動的受容」という観劇姿勢の軸の、2種類が見えてきました。これを組み合わせたマトリクスを考えると、以下の4つの観劇姿勢の傾向が現れます。

A1. 物語指向型/能動的受容
A2. 物語指向型/受動的受容
B1. 存在指向型/能動的受容
B2. 存在指向型/受動的受容

もちろん、観劇をしている人物がこの4種類の観劇姿勢のどこかに属し、常にその状態であるかと言われれば、そんなことはないと僕も思います。

これらの状態はグラデーションであって、ひとりの観客のなかにも、それぞれの状態が共存しているはずです。

しかし、その人特有の傾向というのももちろんあって、「私は物語指向型の観方が強い」とか、「僕は基本的には能動的受容の姿勢で芝居を観ようとしている」とかいうことは、自分の観劇の癖を冷静に振り返ってみると発見することができたりします。


さて、ここからが今日の記事で書きたかった本題です。ここまで長かったな・・・。

僕が今日書きたかったのは「いま、配信の技術で私たちの家まで届けられる作品の種類が非常に偏ったものである」ということです。

特に日本の演劇者によって配信される作品の多くは「会話劇」の形態をとっています。そして、「配信」というシュチュエーションを違和感なく作品の中に組み込むために、「登場人物がリモートで会話をしている」という状況の演劇が多く作られました。

これはある種、「物語指向型」の切り口で作品を作っていく姿勢です。登場人物たちが巻き込まれる物語を、状況とセリフを利用して描いていくという作劇の方法ですから。

すると観る側としても「物語指向型」で受け取る方が、その劇世界を違和感なく享受することができます。これは、劇場で行われる芝居でもよく観察できる傾向です。

劇作家や演出家が「物語(や言葉)を伝えること」に主軸を置いて芝居を作る場合、受け取り手も「物語を受け取る」という観劇姿勢で最適化されていきます。また、「キャスティングの豪華さ」や「演出家や出演者のエピソード」をアピールポイントとして製作される場合も、「物語指向型」な受け取り方が想定されています。

そして、世にイメージされる演劇はこの「物語指向型」の切り口からスタートして成立しているものが多いのが事実です。

しかし、演劇が劇場で行われる場合には、「物語指向型」の切り口で作られた作品に対しても、「存在指向型」の観方を持ち込むことが可能です。その空間の「どこを観るのか」はかなりの割合で観客側の自由になりますから、「あえて物語を見ない」という選択もできるのです。

対して、配信される演劇ではどうでしょう。

演劇と映画を比較した記事にも書きましたが、映像表現の場合、観客が「どこを観るか」を選ぶ余地はあまり残されていません。カメラという視点が切り取った画面の外はそもそも感知できないし、その視点も制作者によってコントロールされています。

この、制作者によって限りなくコントロールされ、画面によって切り取られた映像から、「物ではないものを観る」のは非常に難しいと、僕は感じています。つまり、配信された演劇は「存在指向型」の観方をするのが非常に困難なのです。

もちろん、ぼんやりと、存在指向型の視線で配信された演劇を観ることは可能です。言葉として表出していない、俳優の身体の状態や、俳優のいる空間に漂っている空気の質感をなんとなく受け取る事は可能です。

しかしながら、これを「能動的」に掴んでいこうとすると途端に壁にぶつかります。B2の「存在指向型/能動的受容」で配信された演劇を観ようとすると、画面から与えられる情報量が、圧倒的に少ないのです。

ある存在が反射する光が電子情報に変換され、僕の目の前のディスプレイに再び像を結ぶ。音にしたって、物理現象が電気信号に変換され、スピーカーから再現される。

この工程を経る事で、「リアル」なものよりも「配信されたもの」が持つ情報量は、圧倒的に少なくなります。ディスプレイもスピーカーも、「リアル」が内包しているすべての情報を再現してくれるわけではないからです。


「物語」は、ナラティブなものも、エピソードなものも、十分に配信で伝えることができるでしょう。もちろん、失われる情報もあるけれど。

問題は、「存在」を受け取りたくて演劇を観る人々です。そういう人たちにとってある程度満足できる配信演劇は、まだ登場していないのではないか。あったとしても、非常に少ないのではないか、と思っています。(僕自身の観測範囲では、まだ登場してないと思ってる)


僕にとっては、「存在指向型」の観劇を愛している人々にとっても満足に値する演劇を、配信のかたちでも成立させることが急務に思えて仕方ありません。けれどもどうにも、その方法が思いつきません。

あるゲームチェンジが起こったとき、それまで当たり前に存在していた表現や文化が消えていくというのは、歴史を振り返っても頻繁にある事です。ある種、自然なことかもしれない。

しかし僕は「存在型指向」で観劇することを非常に愛しているので、「配信になったから諦めよう」とは思えないのです。

もしかしたら、「配信」という手段ではなく、存在指向型的切り口の演劇をみなさんの手元に届ける方法があるのかもしれません。そう、「配信」だけにこだわらずとも、演劇を届ける方法はあるのです。きっと。


次の記事では、「配信でなく、演劇を届ける」ということを書いてみようと思います。

読んでくださってありがとうございました!サポートいただいたお金は、表現者として僕がパワーアップするためのいろいろに使わせていただきます。パフォーマンスで恩返しができますように。