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何かの視点を持つ、ということは、それ以外の視点を選択しない、ということ。


以前、歌の先生からレッスン中に


ウチの玄関のドアの色とデザイン、覚えてるか?


と、唐突に聞かれたことがあります。

レッスンは先生のご自宅で受けていたので、ほんの数十分前にそのドアを僕は自分の手で開けたはず。でも、ぜんぜん覚えてないのです。


ドアのデザインなんて普通気にしないけど、この家を建てるときに「どんなドアにしよう」って悩んだことがあって。そうすると、街を歩いていてもいろんな家のドアが目に飛び込んでくるんだよ。で、あの家のドア、カッコイイなとか思うようになる。


と、先生曰く。


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僕らはふだん生きていて、ありとあらゆる情報のインプットをしています。

自宅から最寄り駅まで歩くにしたって、街並みや、人の流れや、車の往来、信号の色、駅までの所要時間と今いる場所を照らし合わせて乗りたい電車に乗れるかどうか考えたり。曲がり角の手前で耳をすませて、急に車や自転車が出てこないか判断したり。

で、そうすると、処理すべき情報が多すぎるので、どうでもいい情報は自然とスルーしたりします。

それこそ、家々のドアの色とか、道端に咲いている花とか、いつも通っているけど利用はしないであろうお店の看板が変わったこととか。


別に、先生は「ドアの色を覚えていられるようになりなさい」と言いたかったわけじゃありません。

「自分が持つ視点が変われば、日々の中から得られる情報も変わるものだよ」

ということを伝えたかったんだと思います。


たとえば僕は舞台芸術家なので、人間のことに対してとても興味があります。

その人の表情や振る舞い、声の色や選ぶ言葉の種類などから、その人の人生に想いを馳せることが習慣になっています。

あるいは、自然という存在にもとても惹かれます。道に咲く花や草木の季節ごとの移ろいに目をやりながら道を歩きます。夜になれば星や月を見上げます。

けれど、僕が経済学者だったとしたら、きっと同じ景色をみても、目に飛び込んでくる風景はまったく違ったものになるんだと思います。


「その人が何であるか」によって、つまり、どんな視点を持っているのかによって、みている世界はまったく違うものになる。

それは同時に、自分がどんな視点を持つのかを選ぶことによって、みている世界の景色を一変させることもできる、ということです。


人の優しさに留意しがちな人は、日常のなかでたくさんの「人の優しさ」を見つけることができるでしょう。

反対に、人の醜さに留意しがちな人は、日常のなかでたくさんの「人の醜さ」を見つけることができるでしょう。


だから、人の優しさに目を向けましょう、なんて、僕は一切思いません。

人の優しさに留意しがちな傾向を持つ人は、人にとってのもう一方の側面である醜さについて、目を瞑ることが多いです。あるいは、目にしてもなかったことにしたり、「関わらないように」と自分の範疇から排除したり。

逆に、人の醜さに留意しがちな傾向を持つ人は、人の優しさに出会っても「私には関係ないから」というスタンスを取りがちです。


何かの視点を持つ、ということは、それ以外の視点を選択しない、ということ。

「表現者である」という視点を持っている僕は、「表現者ではない」という視点をナチュラルに持つことができません。

表現者でない人たちの目にはこの世界がどんな風にうつっているのかを知るには、そういう人の話をじっくりと聞くか、そういう人たちのみている風景を想像するしか方法がありません。


ある視点を持つ、というのはとても大切なことだと、僕は思います。

それこそが、自分自身が世界とつながっていくための一歩、だからです。

けれど、その視点に固執することも危うい。その視点から見える景色だけが、世界の唯一の景色ではない。

必要なのは、自分の視点を定める勇気と、他者の話を聞く労力を惜しまない柔軟さ、そして想像力。




読んでくださってありがとうございました!サポートいただいたお金は、表現者として僕がパワーアップするためのいろいろに使わせていただきます。パフォーマンスで恩返しができますように。