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温泉のすすめ


温泉に入るために地方で仕事してる、みたいなところがある。

渋川に行けば渋川の温泉に、河口湖に行けば河口湖の温泉に入る。

数日滞在するときには、日によって違う温泉に入りにいったりもする。


温泉に行くと、いつも思うことがある。


「人は老いていくんだな」


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高度に洗練された(ということになっている)現代日本の社会では、なかなかどうして「他人の裸」に出会う機会が少ない。

町内の公園で上半身裸になっているおじいちゃんとか、僕の住んでいる都内の一角のあたりでは全然見ない。

山梨県甲府市で小学生をやっていた頃には、夏休みのラジオ体操の帰り道にそんなおじいちゃんを見かけることもあったような気がするけれども。


温泉に行くと、「他人の裸」に出会う。それも、たくさん。

僕と同年代の人もいるし、僕よりも若い人もいる。子どももいる。そして、そういう比較的若めの人々の数を足したよりも格段に多くいるのが、おじいちゃん達だ。

僕は温泉に行くたびに、たくさんのおじいちゃん達の、いろいろな裸と出会うことになる。


ところで、人の身体というのは本当に面白いものだと思う。

失礼だし、倫理的になんかよくないかんじもするので、それほどまじまじと観察するわけではないけれど、それでも湯船に浸かっていれば、浴場を歩く人々の身体が否応にも目に入ってくる。

痩せた身体、太った身体、筋肉の弾けそうな身体、皮膚が柔らかくなり重力に引き寄せられている身体、骨の透けてみえる身体、角ばった身体、丸々とした身体。

「人間」という同じ生物であるはずなのに、ここまで違う身体にそれぞれ依存して生きているのか、と思う。


と同時に、おじいちゃん達の身体を見るにつけ、こうも思う。

あの痩せて、肩の骨も膝の骨もゴリゴリと透けてみえ、しわしわとたるんだ皮膚を持っているあのおじいちゃんも、50年前は僕と同じような身体だったかもしれない。

ということは、あの人は、50年後の僕かもしれない。


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そのようにして僕は、温泉に入りにいくたびにいつも「老い」のことを思う。

誰にも等しく訪れる「老い」について考える。

日常生活で目にする人間たちは、その身体の表面を衣服で覆っている。その衣服は、立派だったり、お洒落だったり、だらしなかったり、量販品だったりする。

けれどどんな種類の服であっても多くの場合、衣服というのは、とても整えられた存在だ。

日本や欧米の会社が、その大きなシステムを用いて、世界のどこかに工場を置き、細心の注意と経済的効率化をはかって作り出している、計算された鎧だ。

あるいは、日常社会生活で出会う裸も、モデルだったりグラビアだったり相撲取りだったりアスリートだったりの、鍛えられた、管理された裸であることが多い。


温泉には、計算された鎧も、管理された裸もない。

あるがままの裸がある。

その、あるがままの裸たちに僕は、「僕もいつかはああいう風に老いるのだな」ということを教えてくれる。


若者こそ温泉に入れ、と僕は思う。

そして、自らの身体の行き先を知るべきだと思う。

確実にやってくる老いにきちんと出会い、老いる自分のその身体でなにをしたいのかをよくよく考えるのがいいと思う。

自分も老いるのだ、と理解したときに、老人は自分と異質の存在ではなくなり、むしろ自分自身の別側面であることがわかるはずだ。






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