【いそがしいとき日記】その30
もちろん、特にいそがしいっていうわけじゃないんだけれど、このフォーマットで書きたいがための「いそがしいとき日記」
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考えることがありすぎる。
考えるのに面白い題材が、あとからあとから現れるのだ。
いつだって、「答えのない問題」を考えるのは楽しい。そう、いつだって。どれだけ自分が窮地に立たされていても。どれだけ社会が苦しい状況でも。
これはもう、僕という人間の癖(へき)でしかない。この頃の社会の様子や、日々混乱の中に僕らを押し流そうとする情報の洪水に疲れ果てている人も多いだろうと思う。
そういう場合は、ある程度情報をシャットダウンして、自分の心と身体の穏やかさを取り戻すことを最優先した方がいいと思う。不安に思うようなことを一旦すべて忘れることが必要なときもある。
しかし僕自身は、「考えることがたくさんある」というこの状況が面白くて仕方がない。なんなら少しワクワクしている自分がいる。
日々の予定はまっさら。時間は全て自分のものになる。
外に出ることもほとんどない。部屋の中で毎日毎日を過ごす。
だから、物事を考える時間がたっぷりある。考えるのに疲れたら、休む時間だってたっぷりあるのだ。
いま僕が考えているのは「リーダーシップ」についてのこと。そして、「配信で成立する演劇とはなにか」ということ。「ポスト・新型コロナの演劇界はどうなるのか」ということ。「外出自粛要請中の舞台人の自尊心について」などなど。
このあいだは、「これ、考えたら面白そう」とピンときた事柄についてTwitterで長々と自分の考えを書いたら、それがプチバズりしてしまった。初めての経験。
これは、僕の文章がよかったからというよりは、世の中にとって注目度の高かったトピックについて、早いタイミングで長文で言及した人が少なかったからだったと思っている。
ハーバード大の研究チームによって発表された研究結果によると、新型コロナに対するソーシャル・ディスタンスなどの対策は「米国は医療体制が充実しワクチンが開発されなければ、2022年まで措置を継続しなければならない可能性がある」らしい。
これを読んで僕は、「まあ、そうだよなー」と思った。
しかしこれはあくまでも「米国は」という研究結果だ。その国、その土地によって状況は異なる。
僕がいま住んでいる日本、あるいは東京では、措置を継続しなければならない時期がもっと短いかもしれない。もちろん逆に、もっと長くなる可能性だってある。
そもそも、現時点でとっている対策も違う。すべてを横並びに考えることはできない。
それに、新型コロナのワクチンが開発されたとしても、そのあとにまた別の新しいウィルスが流行する可能性だってあるのだ。新型コロナのワクチンが開発される前にそんな事態が起きる可能性ももちろんある。
未来にはなにが起こるかわからない。
でも、だからって未来について考えることが無駄なわけでもない。
僕は、「人が集まること」のリスクが増大した社会で、「人が集まって演劇を楽しむ」ということがどんなカタチだったら成立するのかを考えている。料理をしていても、お風呂に入っていても、トイレの中でも考えているような気がする。
いまのところ、ぜーんぜん答えは出ていない。とても難しい問いだからだ。
とりあえず、今月中はなんにも予定がないことが確定している。
考え続けようと思う。
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せっかくのチャンスなので、身体を意識的に動かすようにしている。
トレーニングの頻度を増やし、ひとつひとつの動作の精度を上げようとしている。プッシュアップの1回、スクワットの1回を、これまでよりも丁寧にやろうと心がけている。
僕は典型的な「痩せ型」だから、どうにか身体を大きくしたいとずっと思ってきた。でも、日々の舞台の稽古があるとそっちに意識や体力が割かれて、なかなか「身体を大きくすること」にリソースが割けなかったりしたのだ。
いまは幸運なことに、そんな心配は一切ない。
「疲れすぎること」を心配せずに、トレーニングに励める。だって、他にやることがないのだもの。というか、これまでの生活がそもそも「やることが多すぎた」のかもしれない。わかんないけど。
食べる量も増やしている。具体的には、1日に食べるお米の量と、タンパク質の量を増やしている。外食を全然していないのに、エンゲル係数は高めだ。
その甲斐あってか、1.5kg体重が増えた。たかが1.5kgと笑うなかれ。僕にとっては金の延棒よりも価値のある1.5kgだ。うん。あ。うそ。金の延棒のほうがいい。ください。
僕の中での目標としては、7月までに5kgは体重を増やしたいと思っている。そしたらずいぶんと見え方が変わってくるんじゃないかなあ。ちなみに、僕の身長の標準体重まではあと12kgぐらいある。12kgて………
外出自粛中でも散歩はいいということなので、ウォーキングをしてみようとしたんだけど、気合を入れすぎたのかなんなのかはわからないが、歩き終わったあとにフラフラになってしまうというのが続いたのでちょっとやめている。
歩くことに身体が慣れたら、また違うのかもなと思って、いまは買い物にいくついでに少しだけ家の周りを余分に歩いたり、部屋の中でする有酸素系の運動を増やしたりしている。
もっと早くから身体づくりをやっておけばよかったなあと思わなくもないが、思い立ったが吉日、「いまだ!」と思ったときにはじめたらいいのだ。
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ところで、たとえば2022年まで厳しいソーシャル・ディスタンスの措置が続くとして
みんな、いつ恋愛をするんだろう。
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この記事が面白いと思った。
これは「コンセプチュアル・シアター」とでも呼べるんじゃないかと思う。
デュシャンの「泉」や、ジョン・ケージの「4分33秒」みたいな感じだ。(ちゃんとした研究者が厳密に分析したらそうじゃないのかもしれないけれど)
これは、「作りあげられた演劇」というソフトを売っているのではなく、「演劇的瞬間」という体験を売っているのだ。
このプロジェクトに賛同した上で3000円を支払うことにより、「一度、大きく息をその場で吸」うという日常的な行為に新しい意味が付与される。それによって日常的な行為が「演劇的行動」になり、日常の風景が「演劇的空間」に置き換わる。
今までだったら劇場空間にしかなかったはずの「演劇的体験」が、このプロジェクトでは、参加した人たちの日常の中にはみ出してくるのだ。
じつのところを言うと、僕たちの日常や、あなたの日常には、演劇的瞬間が満ち溢れているのだ。僕ら演劇関係者は、演劇的瞬間を意図的に作り上げるのが仕事だから、それを見つけることも得意なのだ。
だから、よくよく真剣を研ぎ澄まして日常の風景を眺めていると、演劇的瞬間をあちこちで見つけることができる。そういう視点を持っていれば、演劇的な瞬間は、僕らの身の回りに溢れているのだ。
その、僕らの日常に散りばめられた演劇的瞬間が、もっと輪郭を持つようになってくるのかもしれない。このような「コンセプチュアル・シアター」が発達し、演劇好きのなかで市民権を得ていくと。
なんにせよ、いまは歴史が変わる瞬間だ。
スタニスラフスキーが演劇の歴史を変えた。
ブレヒトも、演劇の歴史を変えた。
ベケットやイヨネスコ、ピンターも、演劇の歴史を変えた。
そして、それぞれの転換期には、それを引き起こした社会的な要因があった。
いま、僕らの周りには、めちゃめちゃ巨大な「社会的要因」がある。
新しい演劇の理論が登場する時代なのだ、いまが。いまこそが。
それは単に、「劇場で上演した演劇をインターネットを介して家で見ることが非常にポピュラーになった時代だ」みたいなやつじゃないのだ。絶対に。
変革が起きるのだ。絶対に。
その変革の旗手に、誰がなるのか。見ものである。可能なら僕がなりたいぐらいだ。
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そんなこんなで、今日も僕は元気です。
明日も元気に生きようっと。
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