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「用の美」から「美の用」へ


こんにちは!山野靖博です。


さいきんの世の中は「好きなこと」を語るのが良い、という風潮が強いですよね。

たしかに、自分以外の誰かの「私これが好きなんです!」「ワタシあれのこんなところが好きなんです!」という意見は、読んでるだけでこっちも嬉しくなったりするし、興味も惹かれます。そんなに良いなら僕も一度試してみようかな、と思うこともあります。

日々生活をしていたら誰しも、ひとつやふたつは好きなものや好きなことがあるはずですし、そういった「好き」を表明することで人と繋がれたり、思いもよらない出会いがあったりして、それもまた楽しいですよね。

反対に、ネガティブな意見というか「嫌い」という意見は敬遠される雰囲気があります。

他の誰かが「好き」だと思っているものに対して「嫌い」の意見を掲げると、「好き」と思っている人を傷つける可能性だってあるし、なんなら時と場合によっては対立や喧嘩を引き起こすこともあります。そこから炎上に繋がったりもありますよね。


たしかに誰しも、自分が「良いな」と思ってるものに対して否定的な意見を言われるのは気持ちよくありません。自分が否定された気持ちになるし、自分がそれを「好きだ」と思っていた気持ちや時間を汚されたような気持ちになるのも理解できます。


と言いつつ僕は、基本的にすべての場面において、あることに対する否定的な意見は社会として許されるべきだなという気持ちでもあります。

むやみやたらに人を攻撃するような否定的な言説は社会人としてのモラルとして自制されるべきですが、フェアな立場での批評性を含んだネガティブな意見が「それがあると誰かが傷つくから」という”フワッとした理由”で封殺されることも恐ろしいことだと思います。社会としてね。

僕は舞台や映画、骨董、本、和菓子、音楽と、好きなものをたくさん抱えて生きています。日々の暮らしのなかには僕自身の「好き」がたくさん編み込まれています。

ただ、「好き」があるということは「嫌い」もあるということです。僕が音楽を好きだから、すべての音楽を好きかというと、それは違うのです。どれだけ音楽が好きであっても、なかには好きじゃない音楽があるのも人間なのではないでしょうか。


今日はここから、僕にとっての「嫌い」、というか、「居心地が悪い」ことについて書いていこうと思います。

そういう文章を読むのが苦手な方はぜひ、ここでブラウザを閉じてください。

また「好き!!!」が詰まった記事を僕が書いた時にお会いしましょう。

それでは、書いていきます。

「民藝」について、前から思っていたことです。


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世田谷美術館で開催されている「民藝 MINGEI ー美は暮らしのなかにある」という展示を観てきました。

これは、1926年に提唱された民藝運動についての企画展で、主に、その運動の精神的・理論的支柱であった柳宗悦の存在とその言葉をガイドラインに、民藝運動のなかで柳が評価したさまざまな民藝(=民衆的工芸)の品を展示したものでした。

民藝運動はその成立から100年を経ましたが、時代時代に注目と再評価を繰り返し、今なお民藝ファンをたくさん生み出している、時代を超えた稀有なムーブメントです。

民藝運動から抽出される柳宗悦の美学は、平成や令和になってからもたびたび雑誌などで取り上げられ、「民藝ブーム」とも言えるような熱狂を起こすことも少なくありませんでした。


民藝運動とはなにか。

これを正確に語り始めるには専門的語彙と専門的な知識が必要ですが、僕の理解のもとにざっくりいうのなら

「日本の各地で生産される無名の職人の手による日用品に美を見出し、それらを再評価しよう」

という運動です。

むかし、日本の地方の町や村で使われている生活の道具の多くはその近辺の職人たちがせっせと作り上げた生活雑貨でした。もちろんその職人たちは自分たちの名前で商品を売ったりしません。

その「名もない名工」が作り上げた生活雑貨は、芸術的な目的ではなく、純粋に「使いやすい」ことを第一に生産されます。また、ひとつひとつを作り上げるのに膨大な時間がかかっては生活が立ち行きませんから、ある程度の効率化も自然と進められます。

そういった状況下で作られていく生活雑貨は自然と無駄が削ぎ落とされ、用途にあった形をもち、それでいて単調にならないようなフォルムを与えられます。これを柳たちは「用の美」と呼びました。


正直いって、素晴らしい着眼点です。

たしかに柳たちの審美眼によって選ばれた「民藝」の数々は、いま見てもなおハッと息を呑むような美しさを持っています。それでいて、その美しさは、美しさのために生み出された美しさではないこともよくよくわかります。

ある作業、ある用途のための「必要」を突き詰めて行ったときに生まれる「美」が、世田谷美術館の展示室に並べられた品々のなかにはたしかに息づいていました。


ところで僕は、この「民藝運動」というのがどうにも苦手です。だからこれから、なぜ僕が「民藝運動」を、そして「柳宗悦」を苦手としているか、時には嫌悪感すら覚えるのかについて書いていこうと試みていきます。

しかしこれは(多分に言い訳がましいですが)、民藝運動を好きだという方を攻撃したくって書くのではないのです。もちろん、柳宗悦という人物を攻撃したくて書くのでもありません。可能な限り、フェアな立場から、僕なりの思いを書いてみたいのです。


民藝運動が達成したことは、非常に偉大です。

じじつ、僕は2024年の時代に生きて器や骨董を愛でる生活をしていますが、いまの時代の骨董の市場も、民藝運動が提唱した美の基準にとてつもなく大きな影響を受けています。

そんな言い方では生ぬるすぎるかもしれません。言うなれば、日本の骨董や器の世界では、100年のこの方、民藝運動が提唱した美の基準から全くといって良いほど脱却も進歩もしていません。

いや、正確に言えば、2020年にお亡くなりになった古道具坂田の店主、坂田和實さんの影響も特に1980年代以降はあります。が、それも民藝運動の反転といいますか、柳宗悦的美意識の対抗軸としての立ち位置のように僕からは見えます。

そもそも日本の器や骨董に関する美意識にとって最も太い幹となっているのは安土桃山期に成立した千利休の侘び茶の精神です。

千利休はそれまでの武士の茶の湯における「名物」とされた中国や朝鮮渡来の品々の権威を否定して、洗練しすぎないぽってりとした素朴なフォルムで黒色の楽焼をはじめとした、新しい「美」を提唱しました。狭い茶室、質素な設えなどもその範疇です。

その時代まで「良い」とされていたものに否を突きつけ、新しい「良い」を提示した。これが千利休の革新者としての凄さです。


ある意味、柳宗悦も同様のことをしたと解釈できます。

それまでは見向きもされなかった「無名の名工」による「生活の道具」を「美しい」としたわけですから。

日本の美の基準は今なお(建築や調度品といった住環境の設定も含めて)、千利休と柳宗悦の強い影響下にあるといってもいいと思います。千利休没からおよそ430年、民芸運動の成立からおよそ100年。僕らは彼らの提唱した「美」のレールの上にいます。


民藝運動に関する人気はすさまじく、民藝の美の基準を採用した雑貨店や器屋は日本各地にたくさんあります。特に東京には、老舗からオシャレな最近の若者向けの店舗まで、本当に数多の民藝的ショップがあります。

多くの人に愛され、支持されているわけです。

ですが、民藝運動についての批判的な言説を、僕はあまり聞いたことはありません。民藝運動が好きだ、民藝運動は日本という国の風土から生まれた文化を賞賛する素晴らしい価値観だという話は方々で聞きますが、「民藝運動のここがいけない」とか「民藝運動のこの点が暴力的である」といった内部批判はあまり聞きません。

もちろん、僕が不勉強で、本当はそういった内部批判も存在しているのに僕が知らないだけという可能性もあります。


僕は、民藝運動が提唱する美の理論に対して一定の共感と理解を持ちつつ、そして柳宗悦という思想家の天才性には感嘆しつつ、しかし民藝運動が巻き起こした「空気」に対しては強い懸念と嫌悪を抱いています。

「美」という問題は、この世界に生まれ落ちた誰しもの手に自然と委ねられた事柄でありながら、美術的・美学的美という範疇になると途端に高度でストイックな思考を要求してきます。

僕自身も美学についてはまだ暗く、自信を持って論を進めることはできません。が、柳には柳自身の美学的確信があって「用の美」という概念を広めていったことは疑いようもありません。柳にはストイックな美学的思考があったのだろうと僕は推測します。

しかし、「民藝ブーム」に感化された人々に、そのストイックな美学的思考が、果たしてあるのでしょうか。

民藝運動は世の中に数多ある雑器雑道具のなかからある一定の美の基準を持ったものを掬い上げ、それぞれのなかに共通項を見出し、生活空間の中にある種の美的バランスを以ってそれらを配列するという、キュレーションの役割を担いました。

だからこそ民藝運動によって「良い」とされた品々には、民藝運動的善の価値が刻印されました。つまり、柳宗悦によるお墨付きが世間に放たれたわけです。

柳や民藝運動の同志たちは、自らの足を使い日本中を周り、自らの手と目を使って有象無象の中から良いものを選び取りました。もちろんその過程では「選ばれなかったもの」の方が何百倍も多かったはずです。

しかし、民藝運動にシンパシーを感じる後世の追随者には、そのような「自分の足と手と目」を使う必要性がありません。なぜなら、柳たちがすでに「良いもの」を選び取ってくれているからです。

民藝運動のフォロワーたちは柳たちが選んだ「良いもの」を、そのまま選べばいいのです。そうすれば彼らの生活の中に「用の美」を組み込むことが約束されているのでした。

それは、カタログの中から「オシャレ」とされるものを選んで自分の部屋と生活を飾り立てる態度と、全く差異のない行動です。

その行動自体がダメだと言いたいわけではないのです。しかし、民藝運動の根幹に立ち戻ってみると、その態度には非常な矛盾が内包していることがわかります。

柳たちが見出した「用の美」は、無名の職人たちによる生活雑貨に宿るものでした。そしてそれは、南北に細長い日本という国の、土地土地に異なる風土が生み出した生活様式によって必然的に生み出された美であるはずなのでした。

しかし民藝運動のフォロワーにとっての民藝とは、生活の中に「美」を組み込むための、あるいは自らの生活を「美しく」整えるための美的道具に成り下がっているのです。「用」を求めるのではなく、「美」を求めた、いわば「美の用」の道具として選択されています。

ところでこの「美の用」のために地方の道具を取り寄せることは、「用の美」を良しとした民藝運動の哲学に照らし合わせば、全くの真逆をいくアクションなのではないかと、僕には感じられます。



さて先ほど、柳の天才性については感嘆しつつ、と書きました。柳が提唱した理論には僕も(間接的にも直接的にも)大いに影響を受けていることは事実です。そして、そこにある種の愛着も持っています。

ですが、柳がその理論を推し進めるためにとった行動は、僕にとっては否定的な意味を持ちます。

柳は自らの美的感覚に適った品を国内外から集め、展示館を作りそこに展示し、自らの理論の正当性を証明するための”人質”として利用したのでした。

ところで柳の理論はもちろん、頭によって考えられたものです。知的労働の産物です。そこには当然(執筆や、そもそもの思考という)身体的な負荷のある作業も伴ったでしょうが、とはいえひとつの理論の下敷きを得てしまえばそこから先はその理論を消し去るものはありません。

ただ、柳が選んだ品々たちは、職人たちの不断なる仕事がなければこの世に生み出されないものでした。長い時間をかけた反復作業による肉体労働の産物として、柳の言う「用の美」を湛えた民藝は生産されていくのです。

また、柳たちが蒐集した品々はもちろん、全体の中の一部でした。信楽焼締の黒釉の壺は、ある時代にたくさん焼かれたものです。しかし美術館に展示されるのはそのうちの一つです。何千何万のうちのひとつが「名品」として100年を超えても展示されるのです。

蒐集品は、たくさんの数の同種のものから選り出されたものだったり、たくさんの数の同種のものがほとんど壊れてしまった時代にどこかの蔵や小道具屋の隅からひょいと救い上げられたものです。

たしかに柳たちの理論は無名の職人たちの手仕事を賛美しますが、その手仕事の「すべて」を評価するわけではありません。日本各地の数百の村々で繰り返されていた何万何億という回数の肉体労働の総量、そのてっぺんのほんの一部分を掠め取って「用の美である」としたのです。

これは、「知的活動による肉体労働の搾取」と呼べる種類の構造を持っている事象だったのではないでしょうか。

柳たちは新しい時代の新しい美として、民藝を「発見」しました。しかし民藝たちはそれに民藝という名がつけられる前から、連綿とその土地にありました。名もない人々の手で作られ、名もない人々に使われ、名もない赤ん坊の生まれるのを見守り、名もない老人や若人の死を見送ってきたのが、いま「民藝」と名のつけられた品々たちです。

「民藝」の「発見」は多分に、中央集権主義的な眼差しです。まるで、コロンブスがアメリカ大陸を「発見」したときのような社会構造的ヒエラルキーが民藝運動からも香ってきます。

ひとつ、柳の名誉のために言うなら、柳は収集や調査のために地方(特に沖縄)に赴く際に、自分たちの滞在によって現地の文化や生産が変質してしまわないように充分に気を付けるようにと、同行する同人たちに強く語っていたそうです。

これはひとつ評価できる姿勢であります。

が、同時に、日本の地方を収集・調査のために歩き回る柳ら数人の同志が、揃いのスリーピーススーツに身を包み、揃いの鼈甲の太いフレームメガネをして行脚している姿の写真も見たことがあります。

あの写真に映る柳たちには「私たちは志を一つにする同族である」という都市由来のボーイズクラブ的快楽が果たしてなかったか。彼らのこの自己陶酔はおそらく、否定できないでしょう。


もうひとつ、柳たちが提唱した理論で使われる言葉が、使い勝手が良すぎるというのも僕の苦手な点です。

たとえば今回の企画展の副題になっている「美は生活のなかにある」というフレーズですが、民藝運動とはまさに生活の中にある美を拾い上げ、再評価する運動だったため、その言葉に矛盾はありません。

しかしこの言葉が柳のストイックな哲学的思索から切り離され、たとえば雑誌の中のキャッチコピー的に使われたときにどんな影響を持つでしょうか。

まるで、私たちの生活のなかにすでに美が潜在しているのだ、というように響きませんでしょうか。僕は、この意味の変容に、強い嫌悪を感じます。

柳が用いた「生活の中の美」とは、テクノロジーも満足に発達していなかった時代の日本の周辺地域の厳しい生活のなかで切実に作り上げられたものに宿る「美」のことです。

生まれた子どものほとんどは死に、子を産んだ母の多くが死に、病弱者や充分な蓄えのない者は冬を越えられずに死に、自分たちの身の回りにある海や山で採れるモノを用いることでしか生活のさまざまな用具を手に入れられない暮らし。

そのなかで何かの結晶のように長い時間をかけて定まった形を持った道具たち。それこそが柳たちの驚嘆した「用の美」を持つ「民藝」なのでした。そこには生活の苦労と、その苦労の大きさが反転するからこその暮らしへの祝福が息づいています。

しかし、現代の暮らしの中にそのような切迫と切実さを持った「美」はあるのでしょうか。僕個人の話で言えば、僕の生活の中には、全くありません。

あるいは、ほかの誰かの暮らしのなかにはあるのかもしれません。

でも、どれだけ優しく見積もっても、東京という街に住んでいるほとんどの人の生活には、柳たちのいう「美」は存在しないでしょう。

にもかかわらず、「美は生活のなかにある」と言われると、いまこのときの自分自身の生活のなかにもまるで美があるかのように錯覚してしまいそうになる心が、僕らの中にはあります。

このごく平凡で、小汚くって、惨めったらしく、不整理な僕らの生活に対面して、「でもそこには美がありますからね〜」と大きな手のひらで頭を撫でてくれるような安らかさが「美は生活のなかにある」というフレーズに潜んでいます。

いや、むしろ、ストイックな柳的思想から生み出されたその言葉に、自分の怠惰を甘やかす響きを聞くのは、それを受け取るこちら側の浅ましい心です。

僕は、民藝運動に群がる多くの人々の姿を見ていると、そういう人間の浅ましさをまとめて束ねて見せつけられたような気がして、ずいぶんと居心地が悪くなるのです。

そう、これはそういう人々を批判しているというよりは、その光景からそんな居心地の悪さを想起してしまう僕自身の心の薄汚さを嘆いているのです。自己嫌悪なのです。

ただ、これはひとつ言えることだと思うのですが、美術館の空間で柳たちの厳しい審美眼によって選び抜かれた品々の陳列を見ながら、かしましくペチャクチャ喋り通し喋る人々のその姿には、とても美が宿っているとは思えません。


嫌なら観にいかなきゃいいじゃないかと言われればその通りなのですが、数年ごとに民藝関連の何かしらを観にいくのがこのところの習慣です。

そこには期待があるのです。つまり、民藝運動の起こりから100年経った現代にいよいよ、民藝運動を相対化した批判的まなざしを以って民藝運動を批評するような展示に出会えないものだろうか、という期待です。

そんな展示やそんな本を、知ってるよという方がいらっしゃったら、ぜひ情報をお寄せください。







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