4月12日の出来事に寄せて
この記事は、さいきん僕に起こった出来事についての記録として、また、語りきれなかったことを語り、自分がなにを考えたのかをストックするために書こうと思います。
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ついこの間、初めての経験をした。
Twitterで、ツイートが、バズったのだ。
これまでも、例えば出演した舞台関連についてのツイートに数百の「いいね」をもらうことはあった。けれども今回は規模が違う。
2020年4月12日の昼前にしたツイートは翌13日には1万を超える「いいね」をもらい、本日14日で1万4千の「いいね」がついたことになっている。
もちろん、世の中には数万規模の「いいね」でバズるツイートもたくさんあるので、俯瞰で見れば僕のツイートのバズり方なんて大したことない。
でも、僕はバズることを目的にツイートをするタイプのツイッタラーじゃないから、今後この規模のバズりを経験する可能性は限りなく低いと思う。そういう意味では、ちょっとした「事件」を経験したエピソードとして、記憶しておきたいと思う。
なぜそんなに「いいね」がついたのかと言うと、書いたトピックがタイムリーだったからだ。
それは、こんなツイートだ。
ここから20個のツリーが連なる、いわゆる「連ツイ」というやつで、ツイート一つが最大140字だから、単純計算すると2940字分の記述をしたことになる。ウケる。
Twitterというサービスの性質上、このツイートは新しいツイートに押されてどんどん流れていってしまうので、僕は僕自身のために、「その瞬間自分がなにを考えたのか」をストックしたいと思う。
なのでここから下の文章は、上の一連のツイートの内容をほとんどそのままに書き写したものになると思う。でも、より言葉や思考を整理したりっていうことも行われるはずだし、該当のツイート内では語りきれなかった考えも追加する予定だ。
もしご興味があれば、お読みください。
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2020年4月12日9時11分。Twitterの安倍晋三さんのアカウントに、とある動画が投稿された。同じ動画がInstagramのアカウントにもポストされているが、僕自身はインスタをあまり使わないので、Twitterの投稿から知った。
その動画を見て、いろいろなことが頭の中を駆け巡ったし、胸の内のざわつきもなかなかに複雑な波の模様を描いていて、「非常に興味深い」と思った。
日本の総理大臣という役職にある人が個人の名前を関したSNSアカウントでこのような動画を上げた、という現象自体への興味深さもあったし、それを目撃した僕自身の心の動きにも興味深さを覚えた。
この「興味深さたち」の正体が知りたくて、いろいろなことを考えた。
それについて、書いてみたいと思う。
星野源さんの「うちで踊ろう」は、InstagramとTwitterといったSNSを中心に、「stayhomeをどのように楽しく団結して過ごすか」という課題に対しての、ひとつの解決策の提示として機能していた。
正直、僕自身は星野源さんの熱心なファンというわけではなく、星野源さんのInstagramアカウントもフォローしているわけではないから、そのムーブメントの発端は目撃していない。
でも、Twitterをいつものように観測してたら、ある時期から星野源さんの動画が大量に流れてくるようになって、「これはなんだろう」と情報を辿ったところ、なんとなく趣旨を理解していった。僕自身はそれぐらいの関心度だった。
日本国内ですでに広いポピュラリティを獲得している星野源さん(そのバックボーンにはサブカルや、いじめ被害者、壮絶な闘病経験といった文脈もある)が、「みんなしんどいけど、こんなときこそ一緒に、それぞれの場所で、生きて踊ろうよ」と投げかけた動画はその歌詞のとおり、世界各地の人々に対して、歌でも、楽器でも、踊りでも、きゅうりでも、なんでもいいからコラボして、この世界的危機を「楽しく乗り越える」というメッセージを伝え続けてきた。そのムーブメントは日本のインターネットで一種のミームとなっている。
(ちなみに「きゅうり」でコラボしたさのみきひとさんは藝大出身のパーカッショニストだ。)
基本的にコラボ動画を上げる人は、なんらかの演奏やダンス的身体表現を伴った動画を上げるんだけど、岡崎体育さんと大泉洋さんは「なにもしない」というアウトプットを選択してバズった。これは、普段のそれぞれのキャラと、星野源さんとの関係性という文脈のもとで成り立つ「面白さ」だ。
どうやらより注意深くこのムーブメントを観察すると、バナナマンさんなんかも「なにもしない」を選択していた。
あと、映像クリエイターは自分で作成した映像をコラボさせてたり、アニメーターは自分の書いたアニメーションをコラボさせてたりもしている。コラボの方法は無限らしい。
そういう前提を含めてくだんの安倍晋三さんの動画を観てみると、とても興味深い。マジで興味深い。
たくさんの疑問があるが、大きなひとつとして、
安倍晋三さんとその周辺の方々は
「うちで踊ろう」というインターネットミームの
文脈を理解しているのだろうか?
という問いがある。
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「うちで踊ろう」は「セッションしようぜ!」からスタートしている。
「うちで踊ろうコラボ」をしたいときには「セッションすること」が基本的なルールになるのだ。
セッションの方法はそれぞれに託されている。演奏でもいい。歌ってもいい。踊ってもいい。それぞれのベストな「表現方法」でセッションすればいいのだ。下手でもいいし、上手くてもいい。
岡崎体育さんや大泉洋さんのように、その人にとっての最適な表現方法が「なにもしない」だったらそれでもいい。
星野源さんは「stayhome」のムーブメントに「”うちでセッション”という選択肢」を与え、表現の場を失った表現者たちに「自己表現の場」を与えるとともに、視聴者にとってもエンタメを提供した。これはものすごく価値のあることだと思う。こんなことができる人はそうそういない。
(ところで、この連ツイをした後に知ったことだけど、厳密には「stayhome」のムーブメントとは少し違う軸で「うちで踊ろう」は提示されたようだ。これについては後述する。)
さて、そう考えたときにもう一度さきほどの問いに戻ろうと思う。
安倍晋三さんとその周辺の方々は
「うちで踊ろう」というインターネットミームの
文脈を理解しているのだろうか?
というやつである。
たぶんだけど、僕の推測としては「ぜんぜん理解してないだろうな」っていう結論になる。
きっと安倍晋三さんと周りの人々は、こういう
・セッションを
・それぞれのベストな表現方法でする
という「うちで踊ろう」についての文脈を一切キャッチできていないんだと思う。
正直、「セッション」を前提とした動画で「なにもしない」を選択するのは、非常に高度な判断だ。それこそ、岡崎体育や大泉洋じゃないと成立しない。
自分のキャラクター、つまり長所や短所と、「自分は世間からどう認識されているのか」をかなり自覚的にメタ認知していなければいけないし、星野源さんと自分との関係性の歴史みたいなものもきちんと把握していなければいけない。
だから基本的には、こういう類いのミームにおいて、「なにもしない」を選択できるのはごく限られた人物だけ、ということになる。それが許される環境をこのミーム以前から獲得していなければいけない。これは重要なポイントになるから覚えておいて欲しい。
こういう判断が成功するかどうかっていうのは、瞬間的にそのカルチャーの文脈を察知できるかどうかという、「センス」があるかないかの問題だ。
つまり、今回の安倍晋三さんのアカウントに投稿された動画は、「うちで踊ろう」のムーブメントという文脈において、圧倒的に「センスがない選択」だったと言えると思う。
これは僕の主観的感想だけれど、でもまあ、少ないくない数の人の賛同も得られると思う。
で、センスとはなにか、という話になるんだけど。
もちろんセンスには先天的なものもあるとは思うが、基本的には後天的に身に付けられる技能だと僕は考えている。
センスとは、その人がこれまでに身につけてきた知識と経験と美意識の蓄積から導き出される直感のことだ。
なんのインプットもしていずに現れるセンスは、ごく少ない事例だと思う。
「わー、この人めっちゃセンスある!」って大勢から認識されるような人物は、基本的にめちゃめちゃインプットをしてるし、とてつもない数の試行錯誤を大小繰り返してきている。
「わたしは/あなたは、センスがない/センスがある」という短い言葉でよく語られがちなのだが、これを注意深く翻訳すると
センスがない
=インプットが圧倒的に足りないし、それに伴ってチャレンジも足りてない、あと自分自身の「美意識」について考える時間も少なすぎるよ
っていうことだと思う。
だから、僕は、安倍晋三さんのSNSアカウントにあげられた動画について「センスがないな」と思うけれど、この「センスがない」という言葉で彼自身の人格を貶めたいわけではない。侮蔑をしたいわけでもない。
注意深く、より正確に言葉を紡ぐならば
「うちで踊ろう」のムーブメントに参加する方法として「なにもしない」を選択した安倍晋三さんとその周辺のチームは、ある分野におけるインプットが圧倒的に足りてなかったし、その文脈での美意識についての考えが浅すぎるんじゃないかな
ということである。
ところで、「施政者とカルチャーの分断」は、このところよく目にするモチーフだった。あいちトリエンナーレ、ひろしまトリエンナーレ、新型コロナウィルスによる公演中止要請と補償の問題。
その「分断」がよく表されている動画だと思う。この「分断」はつまり「無理解」に起因しているのだ。「無理解」だからこその「センスのなさ」なのである。
さきほども書いたように星野源さんは「弱者」の文脈を持っている。
そういうアーティストが発信した動画に、「圧倒的強者」のイメージしかない安倍晋三さんが「無理解に」「なにもしない」ことでコラボする。これは、もう、ただの、「美味しいとこだけ搾取」か「乗っかり」にしか見えなくなってしまう。
これはとても悲しいことだ。
そして、そう見えてしまうようなことをやる、そのマーケット感覚のなさにも驚く。
どんなブランディング判断をもとに、この動画の企画が立ち上がったのだろう。
少なくとも言えることは、この頃のSNSカルチャーやサブカルチャー、ポップカルチャーなどについての最低限の知見を持っている人間が、安倍晋三さんの周りには「いない」ということだ。これがハッキリした。
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さて、その上でもうひとつ思考を進める。
この動画によって、なにを達成したかったのだろう、ということだ。
前述したように、「セッション」が前提のミームで「なにもしない」を選択するのはイレギュラーな「ひねり」だ。「ひねり」には工夫と技術が必要。失敗したら大惨事だ。
そう考えると、たとえば安倍晋三さんが「ただ家で過ごしている風の姿」を上げることよりも、「踊る姿」を上げることの方が、失敗するリスクが低い。
そのリスク発生の機微を理解してないからこそ今回のようなことができたのだろうと思う。
でもこれは、彼らが
・インターネットミームの文脈を理解していない
という仮説からはじめたときの結論だ。
けれど、他にも仮説は立てることができる。
例えばこんなものだ。
安倍晋三さんないしその周辺の人々は、インターネットミームの文脈をよくよく理解していて、今回の「うちで踊ろう」というムーブメントの性質と、それが持っている影響力についてもしっかりと把握済みである
この仮説にからスタートして物事を考えていくと、「センスがない」という美的結論とはまったく違う答えにたどり着くことに気づく。
この仮説に立脚すると、動画をあげた彼らチーム(当然戦略的に、チームで判断した上で作成・投稿された動画だろう)にとっては、ポップカルチャーやサブカルチャーに明るい集団からの「センスがない」というリアクションは、織り込み済みだったことになる。
星野源というアーティストのファンコミュニティや、他のさまざまなアーティスト・クリエイターからの批判が噴出することも承知の上だったはずである。(何か行動を起こせば賛否の両方が起きることを知らない政治関係者なんていないから)
しかし、それでもこの動画をあげたのだ。そこにはなにかしらの意図がある。
もう少し踏み込んで言ってみれば、ある程度の批判はあったとしても、それ以上のメリットがあると判断したからこそ、「あのかたちで」あの動画を作成し、インターネット上、それもSNSカルチャーのど真ん中であるInstagramとTwitterで発信したのだ。
じっさい、今回の動画を称賛する声も多い。本当に心の底から称賛しているのかどうかは、インターネット上に溢れる文字情報からだけでは読み取れない。もっとも、批判的なリアクションにしても、本当に「内容」について心の底から批判してるのかどうかわからないものもたくさんある。
しかし、数字だけみれば菅義偉官房長官が2020年4月13日の会見で答えたように「ツイッターでは過去最高の35万を超える『いいね』をいただくなど多くの反響があ」ったわけだ。これは非常に大きな反響だ。
インターネット上で話題となっていた動画に、「首相がコラボした」という表層だけの情報を好意的に受け止めた層もたくさんいるだろうし、居間で寛ぐ姿を見せた首相に「親近感を覚えた」という方もたくさんいるだろう。
重要なのは、こういう感想の根幹には、「うちで踊ろう」というインターネットミームの文脈への関心や理解は、いっさい含まれていないであろう、という点だ。
つまり、「安倍晋三さんのうちで踊ろう」は、元々の発信者である星野源さんの意図から「切り離された場所」で、別の文脈に則して消費されたのだ。
安倍晋三さんとその周辺の人々によるチームは、この「称賛してくれるであろう集団」を念頭において、今回の動画を作成したはずだ。
つまり、ふたつめの仮説である「彼らは全てを理解していた」という前提からスタートして考えると、原典の「うちで踊ろう」を愛し、ポップカルチャーやサブカルチャーやインターネットカルチャーを愛する人々は、安倍晋三さんとその周辺の人々によるチームが想定する「皆さん」や「お一人お一人」には、そもそも含まれていないのだ。
村上春樹もびっくりの「やれやれ」である。
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そうなのだ。彼らにとって、「うちで踊ろう」を愛しそのムーブメントを愛を持って育むような人々からの批判なんて、屁のカッパなのである。想定の範囲内なのである。
星野源というテレビ文化でもポピュラーな歌手・俳優が発信した動画と「コラボ」し、それによって大きな反響を得、そのことがまたテレビや新聞で取り上げられることによる利益は計り知れないのだ。
これは、すでに自身の支持者である人々へ向けたコマーシャルであると同時に、ある種の無党派層へのポピュリズム的手法を用いたアピールでもある。
ここで想定される無党派層のことを、評論家の宇野常寛さんは「遅いインターネット」という著書において
ワイドショー/Twitterのタイムラインの潮目で善悪を判断する無党派層
と表現した。
この無党派層に訴求することができれば、この動画を作成した目的は達成されるのだ。
なにを訴求したかったのか。
・家にいて欲しいというメッセージ
・安倍晋三はインターネット発の流行にも乗れる
ユーモアセンスがあるというイメージ
おそらく、こんなところだろう。
さて。
僕は俳優である。表現を生業にしている。
その立場からあの動画を見ると、こんなモチーフを発見することが。
・なんか高そうな刺繍のソファー
・小型犬を膝の上にのせて撫でる
・磁器のマグカップでお茶を飲む
・ハードカバーの本を読む
・ダイニングテーブルに座ってテレビを観る
これらのモチーフから想起されるのは、高度経済成長を経て「一億総中流」となった日本の「一般家庭」の平和な日常だ。
けれどいまは2020年だ。昭和から平成を飛び越えて、元号は令和に変わった。「一億総中流」も過去となった。若者や子育て世帯の相対的貧困率は上がり、都市部に於いては大きなソファーとダイニングテーブルを置けるような間取りの家(部屋)に住むことは「富裕層」のイメージに直結する。
もしも自分が演劇を演出するなら、「ある程度経済的余裕のある家庭」を表現するための小道具として、ソファーや小型犬、ハードカバーの本、ダイニングテーブル、テレビ、ティータイムを舞台上に登場させるだろうと思う。
こういった生活備品に手が届かないような経済状態で生活をしている人々にとっては、自分たちは無視されている、と受け取られる可能性が多分にある場面設定である。
もし、日本国民の「あらゆる生活水準、あらゆる立場の人」を想定して発信するのだとしたら、非常にリスクの高い小道具の選び方だ。
でも問題ない。あの小道具たちに違和感を感じるような人々のことはきっと、はなから想定されていないのだから。
「カメラで撮る」ということは、非常に作為的な行動だ。たとえドキュメンタリーの撮影であっても、そこには「撮影者の意図」が反映される。
そういう意味でも、安倍晋三さんとそのチームが撮影した「家での日常」は、いっさい日常ではないのである。
(わかんない、たとえばクリスチャン・ボルタンスキーのように、何十年も自宅のアトリエ内に監視カメラを設置し、24時間休みなく撮影を続け、そこで生活をする、みたいな状態になるとそこに映るのは「日常の行動」になるのかもしれない。でも少なくとも、安倍晋三さんの自宅でそういうことが行われているっていう事実はなさそう。)
画面に映し出された安倍晋三さんには、「撮られているという自意識」が存在している。これ自体は別に悪いことではない。というか、カメラを向けられていることを知っていれば、そういう自意識が働くのは当然である。
また、撮る側にも「その光景をそう撮り、そう編集した自意識」がある。風景を切り取ることにも、それを編集しひとつの映像に加工することにも、必ず意図が介在する。
あの動画での安倍晋三さんの振る舞いは、非常にぎこちなかったと思う。生気にかけていたように思う。
一般人だったら、そうなるのもわかる。カメラを向けられて何かをすることに慣れていないような人だったら、硬くなるのも当然だろう。
でも彼は、長年国会議員という仕事をしていて、いまは2回目の内閣総理大臣という役職についている。人前に立つ機会も多く、カメラの前で何かをすることも業務のひとつのような立場にいる。
なのに、なんであんなにぎこちなかったんだろう?
しかもロケの場所は「自宅」で、そこで演出されていたアクションは「日常を日常通りに過ごすこと」だったはずなのに。
彼らが設定した目標を達成するために、もっと効果的なロケーションの選び方、もっと効果的な小道具の選び方、もっと効果的なアクションの仕方、もっと効果的なライティングの仕方、もっと効果的な編集の仕方は、あったはずだ。
でもいいのだ。こういう「映像表現としてのクオリティ」が気になる層のことなど、はなから想定されていないのだから。
あと、メッセージとして「皆さん、家にいてください」ということを伝えるためにあの動画が作成され、それをより広く遠くまで届けるためのビークルとして「うちで踊ろう」が選ばれたとするならば、「家にいられない人」がたくさんいるということにも配慮の行き届いた映像が作られるべきだったと思う。
国民の生活インフラのために働いている人。医療現場で働いている人。働きに出ないと生活が成立しなくなっちゃう人。家が自分にとっての「安全な場所」じゃない人。そもそも家を持っていない人。
こういう人たちがいっぱいいる。そして、そういう人たちもこの国の国民なのである。
でもいいのだ。過ぎし「一億総中流」的な暮らしに親しみを持ち、いま働きに出ずとも問題がない人たちに届けばいいのだから。この映像に描かれた「日常」に違和感を持つような人々のことは、はなから想定されていないのだから。
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この社会には、大きな壁がある。それは目に見えない壁だ。
「うちで踊ろう」が生み出したムーブメントに救いを感じ、愛を持ってそれを楽しんでいた人たちにしてみたら、今回の安倍晋三さんとその周辺の人々によって投稿された動画は、
「わかってはいたけど改めて、私たちへの無理解、ヤバくね?」という分断を可視化させる出来事になった。
そして、その感情を起点にした批判の言葉や行動は、インターネットカルチャーやポップカルチャー、サブカルチャーから遠い人たちや、どちらかというとそういうものに恐怖や嫌悪感を感じている人たちにとっても、
「安部さんは善意であの動画をあげたわけだし、コラボなんでしょ?いいじゃん。やっぱりあの人たち、批判ばっかりで恐ろしいよね。」という分断を再認識させる出来事になった。
この壁は、分厚く、高い。
この壁を、どうにか取り壊したいと思う。
あるいは、取り壊すことは不可能かもしれないけれど、ならば少なくともその高さを削り、格子窓をつけ、可能ならば大きなドアをそこに埋め込みたいと思う。
望むならば、誰もが自由に行き来ができるようなドアを。交流が生まれ、対話が生まれ、同じ場所には住まずとも、互いを尊重しあえるようなきっかけとなる美しく頑丈なドアを。
文化が蔑ろにされがちな社会で、文化が蔑ろにされていると実感しながら、文化を愛して生きることはとてもつらいことである。しんどいことである。
その「つらさ」を耐えるために、アルマジロのように自分の表皮を硬化させ、もしくはヤマアラシのように社会に向けての威嚇のためのトゲを身につけた人もたくさんいるだろう。そういう僕だってそうだ。
でも同時に、壁の向こう側にいる人々もまた、アルマジロでありヤマアラシなのである。
なのに、僕らはなぜ、こんなにも分断されているのだろう。
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ここから先は、少し違う話だ。
長い長いツイートをしたのちに知ったことがある。
星野源さんによる「うちで踊ろう」はその英題を "Dancing on the Inside" としている。
at home ではなく Inside であるのは、「家で」ではなく「うちで」というのが重要なのだ、ということだ。
この「うち」は「屋内で」でもあるし、「心の中で」でもある。
「うちで」そして "Inside" にすることで、外出自粛要請に従って自宅待機をする人でも、外に働きにでなければいけない人でも、屋外にいなければいけない人でも、共に「うちで踊」ることができる。
ここまでの配慮がなされているのいうのは、本当にすごいことである。
また、「踊る」という行為にも僕は思いを馳せてしまう。
人類が文明を獲得する以前から今日(こんにち)に至るまで、「踊る」という行為は祝祭的な意味を持ってきた。
踊りは長く「祈り」を伴う行為でもあり、また、喜びや幸福を表現する手段でもありながら同時に、喜びや幸福そのものでもあった。
さらには、怒りや悲しみ、憤り、恨みといった感情も踊りの原資になった。
踊り続けることで人は祈り、自分や他人を鼓舞し、慰め合い、もてなした。
だから「うちで踊ろう」は「楽しく過ごそう」という理解だけには止まらないのだと思う。
その「踊り」には怒りが
その「踊り」には悲しみが
その「踊り」には絶望が
その「踊り」には喜びが
その「踊り」には不安が
その「踊り」には憧れが
ありとあらゆる心が含まれていていいのである。
美しくてもいいし、醜くてもいいのである。踊りとは元来、そういうものだから。
僕は今回、非常にタイムリーな事柄に対して、自分の考えを自分の言葉で綴った。
そして、それに対して与えられたリアクションからたくさんのことを学んだ。
僕が想像していた以上に、長い文章を読むことができる人がTwitterコミュニティにはいるんだなあ、ということ。
これだけ字数を割いて考えを表明すると、140文字で反射的な嫌悪感を直接あらわすようなツイートよりも、話の噛み合わない攻撃的なリアクションが格段に少なくなるのだな、ということ。
僕の書いたことに賛成してくれる人の中にも、ある特定の言葉だけをピックアップして自分の言いたいことを代弁させるような方法で称賛するような人が少なくない数いるんだなあ、ということ。
たとえば実生活で、長く書かれた文章に対して「ごちゃごちゃうるせえ」というような反応をしてくる人と出会ったときに、どう対話をしてったらいいのかいまのところ皆目見当もつかない、ということ。
非常に面白かったのは、僕の文章に対して「考えすぎ。疲れませんか?」というようなリアクションをする方がいたということ。
僕は昔からよく「考えすぎだよ」と言われてきたタイプの人間なのですが、基本的に自分では「考えすぎで何が悪いんだろう?」と思っています。
たしかにたくさん考えると疲れるんですが、だからといってそれが悪いことだとも思いません。
僕は考えることが大好きだし、だからこの頃のあらゆる出来事もむしろ、「考えるためのタネ」がたくさん降ってきたように思えて、それはそれで楽しかったりしてます。
たとえばテニスが好きな人に、「テニスしすぎ。疲れませんか?」って聞くのは、なんとなく愚問のように感じますよね。テニスやって疲れるのは当たり前ってみんなわかってるし、いいじゃんテニス好きならやらせとけば、って思うと思うの。
でも、ことに「考えること」になるとけっこうな頻度で「考えすぎだよ」「もっと気楽に生きなよ」とか言われるんだよね。どうしてかなーどうしてかなー。
それはきっと、「考えること」を「たいへんなこと」だと思っている人が多いからなんでしょう。あるいは「考えること」を「難しいこと」だと思っている人が多いことなのかも。
もしかしたら、むかし「考えたこと」によって大きな失敗をした経験がある人もいるのかもしれない。自分が「考えた」結果行動したら、その「考え」が一切認められないというような、挫折の経験があったりするのかも。
僕自身、「考えたこと」でたくさんの間違いを経験してきたのだけれど、だからって「考えること」自体を嫌いになってないし、なんならますます好きになっていっちゃってるし、だから当分はこの「考えること」を続けていこうと思う。
この記事で書いたことが、この「事件」の全てではないし、僕の考えが唯一の正解ではない。これは当たり前のことですね。
でも、世の中にはありとあらゆる人がいて、そして、それぞれに別々のバックボーンを持っていて。そういう人たちの、それぞれの立場からの「考え」が提示され、それを互いに知り合うことで、不確定でカタチのない「いま」や「政治」といったものに、なにがしかの形状が見えてくるような気がするのです。
僕は、クリエイター寄りの立場から今回の「事件」を読み解き、考えました。
ネオコンサバティブな人たちや、ナショナリズムな人たちの立場からは、またぜんぜん違った風景が見えるんだろうと思います。
長々と読んでいただいて、どうもありがとうございました。
読んでくださってありがとうございました!サポートいただいたお金は、表現者として僕がパワーアップするためのいろいろに使わせていただきます。パフォーマンスで恩返しができますように。