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【いそがしいとき日記】その4


和歌山県立近代美術館の学芸員、青木加苗さんが書いた文章に非常に共感しました。

そのなかに

作品を鑑賞する楽しさや、「(いまの自分には)わからない」、「自分はわからなくても誰かにとって意味があるかもしれない」ということを受け入れるキャパシティ、多様な美術の価値は誰しもが生み出しうるという当たり前の事実と、それを育むコレクションが有する可能性、そしてこれらすべてを結びつけることができる美術館という存在の公共性

という文章があって、これに感激しすぎてTwitter上では赤線を引いて画像でシェアしちゃったんだけど。

ここで書かれている美術館が社会に与えることのできる価値は、そのまま、舞台芸術が社会に与えることのできる価値につながると思う。


「(いまの自分には)わからない」、「自分はわからなくても誰かにとって意味があるかもしれない」ということを受け入れるキャパシティ、多様な美術の価値は誰しもが生み出しうるという当たり前の事実


本当に大切なことだと思う。

商業主義的に考えると、「わからなさ」は悪として評価されてしまうことがある。

「わからない」という体験は、鑑賞者(消費者)にストレスを与えるからだ。

ストレスを与えられることがわかっているような商品を買うような消費行動を積極的に取る人は、たしかに少ないだろう。

だから、舞台芸術、特に商業舞台の世界では「わからなさ」は極力排除される傾向が強い。「わかりやすさ」に重きを置いて作品が作られていく。



ところで先日、甲府市役所のロビーでコンサートをした。

毎年恒例のクリスマスコンサートで、クラシックの演奏家を共演者として招いて、クラシックの楽曲やクリスマスソングを演奏する。

僕はワーグナーが作曲した「タンホイザー」というオペラから、ヴォルフラムという役名の人物が歌う「夕星の歌」を歌った。

とても美しい旋律を持っている曲で、バリトンやバスバリトンの重要なレパートリー。

その演奏前に僕はあえて、仔細な楽曲解説をしなかった。


外国語だから意味がわからない、というところで鑑賞行為をストップして欲しくなかったからだ。

たとえばビートルズが日本に輸入されたとき。

その歌われている意味はわからなくても、音楽のカッコよさや、英語の響きに心惹かれた経験を持った人はたくさんいたはずだ。

オペラの曲だって、それでいいと思う。はじめは、意味なんかわからなくってもいいのだ。

僕たちには、意味をわかろうとしなくても、そこに起きている現象から意味以上の何かを感じとるという素晴らしい能力がある。

社会生活では「意味と言葉とルール」に縛られて生きざるを得ないけれど、芸術の元ではそういったものから解き放たれて、「意味に頼らないコミュニケーション」を育むことができる。


だから「夕星の歌」の後奏もカットせずに演奏した。

1分近くある穏やかで淡々とした後奏は、ともすればお客さんを「飽きさせてしまう」という理由でカットされることがある。

でも、そこに僕が「ヴォルフラムとして立ち続け」て、美しいピアノの響きによる音楽が存在すれば、必ず何かが伝わるはずだ、と思ったのだ。

じっさい、伝わったのかどうかはわからない。確かめる術はない。

それでも僕は、舞台芸術を生業とする以上、「わかりやすいものだけが全てじゃない」ことを信じて、「いつか、誰かには伝わるはずだ」と信じて、歌い続けると思う。


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