【いそがしいとき日記】その33
いそがしいとき日記も33本目の記事になりました。
僕は別段、野球ファンということではないんですけど、小学生の頃は晩ご飯の時間にテレビでナイターが流れてたことが多々ありました。父の影響です。
で、33というと、別段野球ファンでもないのに、「江藤」のことを思い出します。
僕が野球を見ていた頃の巨人軍は、「ミスタージャイアンツ」こと長嶋茂雄さんが監督でした。現役時代の背番号が3で、これは永久欠番になっていたので「33」という番号をつけていました。
(ちなみにこれは1992年からの第二次監督時代の話。第一次監督時代は90。)
2000年に広島カープから江藤智がFA移籍をしてくる際に、江藤が広島時代につけていた背番号が33だったため、長嶋さんが「33番は江藤くんに譲ります」となって、巨人に「背番号33番の3塁手」が誕生したわけです。
で、これをきっかけに長嶋さんは永久欠番である「背番号3」をつけるようになるんですけど、シーズン開幕前のキャンプの時だったか、伝説の「3」がお披露目されるときには報道陣が詰めかけて、その映像を見た徳光さんが号泣するって光景をよく覚えてます。笑
いつからか野球中継を見なくなって、それどころか民放での野球中継が少なくなって、時代は変わるものだなあって感じです。
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東京都がさまざまな施設の営業自粛要請を段階的に緩和し、5月末には「ステップ2」に移行して劇場なども営業できるように、という見通しになっているようです。
これはとっても嬉しいことですが、同時に不安もあります。
たとえばこれ。
公益社団法人全国公立文化施設協会が発表した「劇場、音楽堂等における新型コロナウイルス感染拡大予防ガイドライン」の一部です。
ここには、公演関係者への感染防止策として「各自検温」し「37.5℃以上の発熱がある場合には自宅待機」という指針が示されています。まあ、これは妥当かなって感じなんですけど。
気になっているのはその下の、「さらに、発熱の他に、下記の症状に該当する場合も、自宅待機を促し てください。咳、呼吸困難、全身倦怠感、咽頭痛、鼻汁・鼻閉、味覚・嗅覚障害、眼の痛みや結膜の充血、頭痛、関節・ 筋肉痛、下痢、嘔気・嘔吐」っていうところ。
例えば僕なんて、花粉やハウスダストのアレルギーを持っているので、どれだけ気をつけていても疲れが溜まったときなんかにはけっこう頻繁に目の充血が起こります。これは「目の痛みや結膜の充血」に該当します。
正直これまでも、うっかり喉風邪をひいてしまったまま、薬を利用して公演に出たことも何回かあります。
身体を酷使するタイプの作品では、筋肉痛が出ることは日常茶飯事です。
そういった事態の時に、どう判断するのか。ここが難しいなと思います。
僕ら舞台出演者は、身体の健康が自分の表現の資本になるため、普段の体調管理には充分すぎるほどの対策をとっている人がほとんどです。それでも、1ヶ月の公演期間を常に万全の体調でつとめるというのは至難の業。
もし「結膜の充血」が出た時点で自宅待機ということになるのなら、僕は怖くて舞台の仕事なんか受けられません。だって、自分の役に穴を開けることになっちゃうもの。
もちろん、もちろん、自分でできる限りの対策はします。体調管理もこれまで以上に気をつけます。でも、どれだけ「万全」を期しても出てきてしまう「不調」というのはあるのです。人間の身体のことですから。自分の意思ではどうにもならないこともあります。
スウィングを用意するのか。カンパニーから体調管理の予算が出るのか。ちょっとどうなっていくかわからないですけど、まだまだ考えていかなければいかないことは山積みですね。
上にあげたガイドラインはその文章の冒頭に、「すべての項目の実施が活動再開の必須条件ではありませんが、基本となる感染予防策を実施した上で、より感染予防効果を高めるための推奨事項として、今後の取組の参考にし ていただきたいと思います。」との記述があります。
また「なお、本ガイドラインの内容は、今後の対処方針の変更のほか、新型コロナウイルスの感染の地域における動向や専門家の知見、公演主催者等の意見等を踏まえ、必要に応じて適宜改訂を行うものといたします。」という記述もあります。
「絶対的なルール」ではないから、これを盲目的に守ることが正しいわけではない。けれど、現在政府から出ている対処指針をもとにしていることは確かだから、完全に無視していいものでも当然ない。
さらに、今後の社会動向や、新しい科学的エビデンスの出現、現場にいる人たちの意見などを踏まえて、改訂することを前提としています。
可能な限りの安全を確保しながら、円滑な劇場運営も実現させる新しいルールを、これから試行錯誤して作っていく時期に入っていくわけですね。
かなり難しいチャレンジになりそうですけど、怯まずに、思考も止めずに、頑張っていきたいなと個人的には思っています。
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胸が痛むニュースが、連日僕らの元に届くこの頃です。
フィジカルな接触を制限されている今、交流の場としてのインターネットの役割が拍車をかけて強まってきました。
面と向かって会話するだけなら、その場にいる数人か数十人かの範囲で一旦は終わる「言葉」が、ネットを介するだけで全世界に向けて発信されることになります。
また対面して会話をする際には無視することのできない「お互いの顔を見る」や「お互いの身体の存在をそこに認識する」という段階がすっ飛ばされて、自分は「匿名」のままに「実体のない電子情報としての相手」に言葉を投げかけることがインターネット上では可能です。
「言葉」の力ということを、僕は普段から比較的よく考えながら生きてきたように思います。
言葉は、人を救うこともできるし、人を傷つけることもできる。
これは言葉を使う上でとても大事な要素だと思うのですが、これを僕が実感することができたのは、いままでの人生の中で僕自身が、目の前の人を言葉でひどく傷つけた経験があるから、なんだと思います。
あるいは、誰かの言葉に僕自身が強く傷ついた経験があるから、でもあります。
でも同時に、僕自身が誰かの言葉(それは対面の会話の場合もあれば、メールの文章の場合もあれば、歌のワンフレーズや小説の一節の場合もある)で救われた経験もあるわけです。
そしてもしかしたら、僕自身の言葉で、誰かの心をすこうしだけ救えたかもしれない、というおぼろげな実感にも依るところがあります。
啓蒙主義とか教養主義とか、そういう「ある立場からの押し付け」として、「もっと言葉を大切に扱うべきだ」と主張するのは簡単でありますが、同時に、大きな危険も孕むことになると考えています。
たとえば「演劇は社会に必要だ」という一種の「価値観の押し付け」にみえなくもない主張が、大きな反発にあったように。
数多くの心ない言葉に傷つき、追い込まれ、生を手放す。そんなことはあってはいけないことです。その人物がどんな人物であれ、です。
そういう出来事が起こるたびに、やるせなくなるし、怒りを感じます。
しかし同時に、演劇者としての視点からすると、「心ない言葉」の向こうにあるはずのココロについても考えてしまいます。
罵詈雑言をぶつけられ、追い込まれた人物も生身の人間であれば、その言葉をぶつけていった人たちもまた、生身の人間です。
もしかしたらその生身の人間たちは、僕の友人たちのなかにも存在するかもしれません。僕の家族のなかにも存在するかもしれません。ある日、僕自身がそのどちらかの立場に立つこともあるかもしれない。そうなることがないことを願うばかりだけど。
中世ヨーロッパでは教会権力が巨大化していく一方で、たくさんの一般市民が飢餓や貧困にあえぎ死んでいくことが日常茶飯事でした。
日本でも、幕府や統治者の厳しい年貢取立てによって死んでいった人々はたくさんいます。
産業革命が起きてすぐの頃は、工場労働者は使い捨てのように扱われ、大人のみならず子どももたくさん怪我を負い、命を落としました。
いまでも社会の枠組みの中で、会社や学校や家庭といった集団やその狭間で苦しさを募らせた人々が自ら命を断つ事例がたくさん起き続けています。
僕らには一体、なにができるのでしょう。
どうしたら未来をすこしでも健やかにできるのでしょう。
どうしたら悲しむ人を減らすことができるのでしょう。
正直、僕には問題が大きすぎて、自分ひとりの力ではなんにもできないような気持ちです。でも僕自身はすくなくとも、可能な限り注意深く言葉を使い、可能な限り自分の言葉で人を傷つけることがないようにしたい、と思っているのです。
もちろん、なにかを表現するということは常に、「その表現で誰かを傷つけるかもしれないという可能性」を引き受け、覚悟することでもあります。
少なくとも僕だけは、自らの言葉で誰かの心を追い詰めるようなことはしたくない、と強く思っています。でもわからない。もしかしたらそう思っていても、「私は山野の言葉でひどく追い詰められ傷つきました」という方はいるかもしれない。
これは、しばらくは答えの出ない問い、です。
読んでくださってありがとうございました!サポートいただいたお金は、表現者として僕がパワーアップするためのいろいろに使わせていただきます。パフォーマンスで恩返しができますように。