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主体を持ち続ける。どこまでも。


今日はちょっと、難しい話を書く。


山本周五郎の「ちくしょう谷」に、こんな一節がある。

ゆるすということはむずかしいが、もしゆるすとなったら限度はない、――ここまではゆるすが、ここから先はゆるせないということがあれば、それは初めからゆるしてはいないのだ

これはとても奥行きの深い考察だと思う。


つまりどういうことか、といえば、まあ書いてある通りなのだけど。つまり、「ここまでは許せるけど、ここから先は許せないというときには、それは許すとは言わないのだ」ということだ。

「許す」と決めたときには、まるっとどこまでも「許す」ということをしないと、それはそもそも「許す」ではなくなってしまう。

これ、感覚的にわかるだろうか。わからない、という人ももしかしたらいるだろう。

そもそも「ちくしょう谷」自体が江戸時代を舞台にした話で、主人公が兄の仇を「許す/許さない」ということがテーマになっているから、現代に生きる僕らにとってはこの一節は、主人公の言葉そのものとは少し違うかたちでないと受け止められないかもしれない。


その上で「ここまでは許せるけど、ここから先は許せないというときには、それは許すとは言わないのだ」という一節を現代の僕らの感覚で受け止めてみると、どうにも苦しいことになる。

「そんな!全部許すなんて!できないよ!」

そう思うからだ。

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「すべてを許す」ということは、僕はつまり、「主体を手放すこと」だと思う。

じっさい、ちくしょう谷の主人公である隼人は、なぜ兄を謀って殺したかもしれない仇を許すのだと親しい者から詰め寄られて、「おれは兄ならこうするだろうと思うとおりにやるだけだ」と答えている。

「兄だったら許しているだろう」と思うからこそ、自分も兄の仇を許す。隼人は「許す/許さない」の判断に、自分という主体を介在させない。


でも、だ。

主体を手放すということなんて、そう簡単にできるもんじゃない。

僕は僕自身を手放して、なにか、その人のすべてを許すということはどうにもできそうにない。


「許す」ということもだけど、これを「愛する」や「好き」に置き換えることもできると思う。

私はその人のことを愛する。

私はその人のことを好きである。

これを山本周五郎の言葉を借りて書き換えてみれば

愛するということはむずかしいが、もし愛すとなったら限度はない、――ここまでは愛すが、ここから先は愛せないということがあれば、それは初めから愛してはいないのだ

あるいは

人を好きになるということはむずかしいが、もし好きだとなったら限度はない、――ここまでは好きだが、ここから先は好きではないということがあれば、それは初めから好きではないのだ

みたいなことになる。そんな聖人君主、いったいどこにいるんだ。

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ひとつ言えることは、このロジックに対して僕が取れる態度は「主体を手放す」だけではない、ということだ。

「ガチガチに主体を認識しながらも、それを手放さない」ということも選択できる。

僕は、この態度を、それはそれで誠実だと思う。


「主体を認識しながらも手放さない」というのはどういうことかというと、「ここまでは許せる/愛せるけれど、ここから先は許せない/愛せないということが、自分に起きうるのだと覚悟する」ことだと思う。

ある人の行いや、ある人の存在に対して、自分は隼人ほど寛容ではないと、きちんと認めることだと思う。

そしてそれはすべて、自分が主体を手放さないからこそ起きることなのだと、理解しておくことだと思う。

相手のせいにしない、ということだ。


今までのあなたはこうだったのに、そのあなたが好きだったのに、そのあなたではなくなりましたね。心外です、前のあなたに戻ってください。


こういう、「自分の主体を棚上げしておいて、自分の中に生じた"許せなさ"の原因をすべて相手のせいにする」ということをしないということだ。

いやー、なんと難しいことなんだろう。できるのか、そんなこと。


でもやはり僕は、山本周五郎の書いた上の一節は、ひとつの真実を言い当てていると思う。そしてその真実は、自分の人生に対して非常に誠実な態度だとも思う。

僕は、できることなら誠実に生きていきたいと思っている。

自分の人生を振り返ってみればたくさんの不誠実なことを積み上げきた後悔と後ろめたさがあるし、それについての反省もたくさん抱えているからこそ、これから先はできるかぎり、誠実に生きていけたらいいなと思っている。

でもそれは、なにもかにも他人の価値判断に善悪を依存して、社会がそれと提示してくる倫理に闇雲に従うことだとは思ってない。むしろその態度は不誠実だと思う。

何に対して不誠実か。自分の人生に対してだ。そして、自分の人生に不誠実であると、おそらくだけれど、他人に対しても不誠実な態度しか取れなくなっていくのだ、人間というものは。


なぜか稽古に行く道すがら、ふと、「ゆるすということはむずかしいが−−−」という一節が頭に浮かんだ。

それについて考えたら、「主体を手放すか、どこまでも主体を持ち続けるか、どっちかしかないよなぁ」という答えに辿り着いた。

なかにはいる。自分の主体は手放さないくせに、それを認識せずにあらゆる「許せなさ/愛せなさ/嫌悪」の原因を自分以外の誰かに押し付けるような人が。それはもう、本当に不誠実な態度だと思う。


僕自身、小説に出てくる隼人のように、自分自身の主体を手放してしまいたいかというと、それは否だったりする。僕にはそんなことはできそうにないし、したくもないと思う。

主体を持ち続けて、「ここまでは許すけど、ここから先は許せない」という現象に何度も直面するのはしんどいことだ。けれどそのしんどさに、生きることの楽しみが含まれているような気がするのだ。

あるいはそういうしんどさや葛藤や苦しみこそ、生きることの楽しみの、ある側面のような気もするのだ。



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