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「チェーザレ」公演中止のご報告、と、いろいろ。


山野靖博をいつも応援いただき、誠にありがとうございます。

本日は大切なご報告があります。

さきほど、公式より発表いたしましたが、当初2020年4月13日に初日を迎えることになっており、先日その初日を2020年4月17日にずらすと発表しておりました明治座の舞台「チェーザレ 破壊の創造者」ですが

このところの社会情勢を鑑み、また、2020年4月7日に政府より発表されました緊急事態宣言を重く受け止め、公演の全日程の中止を決定いたしました。

さらに詳しい情報は、リンク先をご参照ください。

上演を楽しみにしてくださっていた皆様のお心を推察するといたたまれない気持ちになると共に、僕らカンパニーの全員にとっても、非常に苦しく、やるせない事態となってしまいました。

しかしながら、このところの社会の状況と、我々が置かれている感染症による危機を冷静に受け止めれば、公演中止の判断は致し方ないという評価以上に、社会的責任を果たすための賞賛されるべきものだと僕個人は考えています。




とはいえ!

残念な気持ちも落胆も、なかったことにはできなーーーーーい

だから、ちょっと、諸々の気持ちを含めて、みんなで一度叫んでみるっていうのはどうだろう。

根本的にはなにも解決しなくとも、自分の中にある感情を一旦外に出してみることによって、スッキリすることもあるし、何かその先に見えてくるものもある

というのは、僕が演劇から学んだ、数多くある事柄のうちの、大切なひとつです。

ってことで、叫ぼうよ、みんなで。


いきまーす。せーの。


うわぁぁぁああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああんんじゃぁああああああらあああああああああああああぅぅぅぅううううにゃああああぁぁぁああああああああああどぅぉぉぉぉぉぉぉぉっぉぉぉぉぉぉぉぉっぉぉぉぉぉぉぁあぁぁぁあああああああああああああああああああああああ!!!!!!!



・・・ふう。


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ここから先は、僕自身の思っていることを述べるコーナーです。

さいきんの新型コロナ禍に関連して、さまざまな演劇人からさまざまな声明が出されています。そのなかで、とりわけ重要だなと感じたのが、静岡のSPACの宮城聰さんが語られた言葉です。

5分ですべてを観ることができるので、まだご覧になっていない方には、ぜひ観ていただきたいと思います。

僕は、宮城さんの語る言葉と、宮城さんの目や、手や、身体から発せられる膨大な情報とエネルギーを受け取って、多分にグッとくるものがありました。

このように強く、しなやかで、確信に満ちた言葉を発することができる宮城さんという人の、長年世界の演劇のトップランナーとして走り続けてきた力を、この動画であらためて確認しました。

そして同時に、遊び心のあるユーモアをもって「つぎのかたちを見つけようよ」と呼びかけることのできる心の軽やかさに、僕自身も救われました。

ひとつ気になることがあるとすれば、誰かがマイクの使い方を、教えてあげたらいいのにな、ということです。笑



宮城さんの仰るように、演劇・舞台芸術のもっとも基本的な定義は

生身の人と人が向き合うこと

です。

しかし、新しい感染症の感染予防のために「ソーシャル・ディスタンス」を取ることが有効だとされている今、生身の人と人が向き合うことは、この地球上に存在するすべての人の身体的危険を増やす可能性があります。

「ソーシャル・ディスタンス」とは、人が集まるようなイベントを感染予防の観点から中止し、また、生活維持に必要な活動の際であっても、出会う人との物理的距離を2mほど維持しよう、ということであります。

生身の人と人との接触が、いまの社会にとっての危機につながる、という事態となってしまいました。


その中で僕らは、身体的な距離を取りつつも、心のつながりまでもを手放さずに済むような方法を、見つけなければいけません。

宮城さんはそれを、「演劇蟹カマボコ」と表現なさいました。天才かよ。


この 演劇蟹カマボコ を、いまや劇場ではなく各々の部屋にいらっしゃるみなさんにお届けするために、世界や日本の劇場・演劇団体が、インターネットを通した公演映像の配信を行なっています。

これもひとつのかたち、のように思われます。

また、制作の過程から役者同士の稽古、当然上演までの過程を、すべてオンラインでのやり取りで完結させようというプロジェクトを立ち上げたミュージカル団体や劇団もあります。

演劇人のそれぞれがそれぞれに、それぞれの最善だと思う方法を模索して、行動しはじめています。

これは、大いなる希望です。


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ところで、ふだんはあまり観ることのないYouTuberの動画を、ここさいきんいくつか観ています。

彼らの表現方法の画期的さに、本当に驚いています。

重要な言葉をデザインを工夫したテロップで映し出し可視化させたり、場面に応じた効果音を入れることで聴覚的な楽しさを演出したりなどと言った手法は、テレビのバラエティ番組の演出の延長だと思いますがこれもとても効果的。

絵面や音が単調になることを防ぎ、視聴者の集中力を途切れさせないような工夫として機能しています。

そしてなによりも

余分な間やいい間違え、言い淀みなどがあるであろう箇所を大胆にカットし、前後の身体的状態や時間のつながりを無視して、言葉と言葉を繋ぎあわせる編集手法、この発明は驚嘆に値します。

なにを今更いってるんだとお思いの方もいるでしょうが、YouTubeという新しいメディアの特質に合わせてこの表現技法が編み出されたという事実に、僕は改めて驚いています。

そして、すこし頭を悩ませています。


身体的な状態や時間の進み方のつながりを度外視した編集技法が生み出したのは、「淀みなくつながる言葉」という余白のない情報のかたまりです。

従来の専門的に訓練された話者が登場するテレビ番組や演劇の場では、「淀みなくつながる言葉」は基本的に、話者の「話す技術」に依存したものでした。

アナウンサーであれば滑舌の良さや、原稿の内容を瞬時に把握する力、語彙の豊富さ、その場の状況を読む力、など。

我々俳優であれば、同じく滑舌の良さや、台本を暗記する力、覚えたセリフをリアルに言葉として放つという能力、などです。

テレビ収録であれば、言い間違いや言い淀みを含んだ多くの場面はバッサリとカットされるでしょうし、どうしても「淀みなくつながる言葉」が必要な場面(番宣とか?)でミスがあれば、撮り直しということになるでしょう。

しかし、YouTuberたちが編み出した編集方法を用いれば、これまで必要とされていた話すための技術も、撮り直しも、必要ありません。

うまくいかなかったところは細切れでもいいので削ぎ落とし、身体的な状態が前後でつながっていずとも、言葉と言葉を接着してしまえばいいのです。言葉のつながりさえ維持できて身体的文脈がちぐはぐになっていても

「淀みなくつながる言葉」がそこに表出すれば、情報発信として成立するのです。

この現象を目の当たりにした僕は、こういった動画を観ることに多くの時間を割く人々の「辛抱」と「間を読む力」について考えます。



対人コミュニケーションにおいて、辛抱する力と、間を読む力は、非常に重要です。

相手の言葉に耳を傾けるという行為には常に「辛抱」が帯同するし、相手が放つ言葉以外からもさまざまな情報を受け取る必要があります。

言葉が紡がれていない時間の、相手の目の動き、手の動き、足の動き、表情の微妙な変化、相手の身体の中に渦巻いている感情の推測、相手の身体から発せられるすべての情報に対して、聞き手の感性がひらかれます。これが「間」を読む力につながります。

言葉のなにもない時間、つまり「間」には、相手の身体から発せられるエネルギーと情報だけが存在することになるからです。

(もちろん、言葉を用いて話している最中にも、相手の身体から発せられるものを読み取る力が必要になってくるのだけど)


しかし、YouTube的作法に従えば、辛抱も、間を読む力も、必要なくなります。

そもそも、言葉と言葉が常に切れ目なく貼り付けられていくので、「間」というものが存在しません。

だから、「なにも言葉のない時間からなにかを読み取る」という努力を必要としません。

また、「言葉を聞く」のみならず、感覚的に理解できるようにデザインされたテロップや、面白い効果音などによって、視聴者の好奇心は常に刺激されつづけます。

そういった見方・聞き方は、耳を傾けることへの能動的な努力を、あまり必要としません。また、言葉のない時間を待つということも、必要としません。


こういった形態の情報を受け取ることに慣れた人々が「演劇」を観るときに、どんなことが起こるだろうと考えます。

もちろん、現時点で演劇を観ることが好きだ、という方の中にも、YouTuberによる動画を観ることも好きだという人はたくさんいるでしょう。

でもこれまでだったら、演劇とYouTubeは、その住処が分離されていました。

演劇は主に劇場に生息し、YouTuberによる動画は主に液晶画面のなかに生息していました。

けれどどうやら、ソーシャルディスタンスが重要となった社会における演劇蟹カマボコは、YouTubeとおなじ液晶画面の中に生息することになりそうです。

その時に例えば、ピンターや別役実の芝居ような、多くの「間」が存在するタイプの演劇蟹カマボコに、そのフィールドで生き残れる余地があるのでしょうか。


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どうやら、ゲームチェンジのタイミングです。

産業革命は都市と地方のあり方を変え、資本家と労働者という力関係を生み出しました。

スタニスラフスキーの登場は、演劇界を「スタニスラフスキー以前/以後」という時代区分に分けてしまうほどに強烈な出来事でした。

「ソーシャルディスタンス」が善とされる世界を経験した我々にとって、「新型コロナ以前/以後」という区分が、もしかしたら大きな意味を持ってしまうかもしれません。演劇のかたちが、すっかり変わってしまう可能性は、大きいです。


身体的距離を取ることは、公衆衛生のためであると同時に、人々の不安感情を増長させないための施策でもあります。

「人と出会う」という出来事に、「不安」が付随するようになってしまいました。

この不安が払拭されるためには

①新型コロナウィルスに対するワクチンが開発される
②世界中の人々が集団免疫を獲得する
③効果的な治療薬が発見される

このいずれか、ないし全てが達成されなければなりません。

①と②については少なくとも1年以上の月日が必要です。つまり、①と②を期待するならば、「ソーシャルディスタンス」の処置が最低1年は継続するということです。

③についてはいつ達成されるかがわかりません。既存の薬で効果的なものが明日みつかるかもしれないし、永遠にみつからないかもしれません。新しい薬が開発されることを待つとすれば、これも、あり得ないぐらい楽観的に考えるとしても1年以上の歳月が必要です。

新型コロナウィルスが季節性のインフルエンザのような状況(予防接種があり、効果的な薬(タミフルなど)があり、地球上の多くの場所で集団免疫が獲得されている)になれば、人々の交流は徐々に復活していくでしょう。

しかし、近い未来にはさらに新しい感染症がまた登場するでしょう。

「人が集まること」のリスクに社会が自覚的になった時代で、演劇にできることはどんなことなのでしょうか。

僕としてはやはり、液晶画面の中を主戦場とした演劇蟹カマボコ隆盛の季節の先には、演劇が再び劇場に戻ることを期待したいと思います。

その際にはもしかしたら、観客は全員マスク着用で、座席の距離は十分に離れ、劇場の換気システムが進化し、舞台と客席を隔てる「第四の壁」の位置にアクリルの不可視な板が張られるかもしれません。

「第四の壁」の物質化は、演劇史上のささやかなニュースになるよね、きっと。笑



ソーシャルディスタンスの求める「取るべき距離」は2mほどとされています。

しかし、例えば帝国劇場ならば、舞台上と、いちばん最後列の座席との距離を考えると、2mのディスタンスどころではおさまらないわけです。

けれど僕ら俳優は、その距離をも飛び越えて、最後列にいるお客様ともなにかしらのつながりを持とうとします。

巨大な空間を満たすような「なにか」を自らの身体から発し、最前列の人との、2階席の端っこの人との、音響卓真横の座席の人との、その劇場にいるすべての人とのつながりを生み出そうと思っています。

可能ならば、劇場の外の、それぞれの職場、家、学校、病院にいて、それでも劇場に思いを馳せてくれるすべての人とも、つながりを持ちたいと思っています。

そしていま僕は、この文章を書きながら、この状況でもなお劇場に思いを馳せてくれている「演劇を必要としているのに 演劇を絶たれた者」であるみなさんと、どうにかしてつながろうと思っています。

何十キロ、何百キロの距離を超えてもなお、その隔たりを満たしてくれるような「なにか」を自分の身体から発せないかと思いながら、一文字一文字を綴っています。


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多くの舞台公演、芸術を介した集まり、エンターテイメントが中止となり、いま世界は、多くの落胆のため息で満ちています。

しかしそのため息たち自体を僕は、ネガティブなものだとは思いません。

真に悲しいことがあるとすれば、落胆のため息に自分自身を絡めとられて、どこかで誰かが生きる希望を失ってしまうような事態が起きること。

それだけはなんとしても避けねばなりません。


まずはこの状況を、この巣ごもりの季節を、なんとか乗り越えることを考えましょう。身体の健康を保ち、可能な限り心の健康も保ち、多種多様な蟹カマボコを食べ、あるいは本を読み、自らの足で踊り、歌い、時には泣き、自らの悲しみを慰め

この季節を一緒に、なんとか、乗り越えましょう。

そしてまたいつの日にか、劇場で出会えたならば、「私たち、よく頑張ったよね」と互いに褒め称えあいましょう。

そのときは、必ずきます。


いつも応援をありがとうございます。

みなさまへ、僕からも愛を。


山野靖博

読んでくださってありがとうございました!サポートいただいたお金は、表現者として僕がパワーアップするためのいろいろに使わせていただきます。パフォーマンスで恩返しができますように。