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言語化との付き合い方


便利なインターネット


ネット検索は便利ですが、最近は検索をかけても引っかかるサイトの質が落ちてしまい、あまり役に立たないと思うことが多いです。
そこで読むべきは書籍か?となりますが、本もなんかパッとしません。
古い本は絶版になっていることも珍しくなく。

ネットや書籍で調べても意味がないのでは?
と思うことも少なくない。


そりゃね。
6割は有用な情報が見つかると思います。
しかし、古すぎるデータは消え果てているし、残りの4割は未だネット上に存在さえしていないのでは?となるほど見当たらない。
書籍からの情報とか?
それも、そんなに大したことではないですね。


我々は勘違いをしてしまいがちです。
ネットを駆使すれば、全ての情報が手に入るのだと。

そんなことはありえませんね。

名探偵コナンによく出てくる
「これについて調べたわよ。」
というシチュエーションは、ほぼ無理。

特殊警察のデータバンクにハッキングをしたか、さもなくば千里眼かなにかを使って調べたかだと思われます。

特殊警察・組織のデータバンクも限界があると思いますけどね。



Twitter廃人だった頃、とある方に絡んでブロックをされました。

「波動が…」
と話されていたので
「シュレーディンガーの波動関数と一致しますね」
と言ったら
「根拠は!!💢」
とめちゃくちゃに怒られました。

どうやら2ch系列のデータソースしか、その方は信じない性質だったようです。


私は戸惑いながら
「いいえ。チャネリングですけど…」
と話すと
「根拠がない、根拠が!!」
と散々否定しまくった挙げ句にブロックしてきました。

これ以外にも、私が暴言を吐いたのも理由の一つになったと思われます。

「神霊現象です。心霊ではなく。一度死んで見れば分かりますよ」

と言ったのを、「氏ね」と言われたのだと勘違いしたらしいです。

そうじゃないんだけどなあ。

あ、そうか。
普通の人は死を特別視するあまり、恐怖を抱くこともあるんだった。
と気付き、言葉を慎むことにしました。

「臨死体験により、見えることがある」
といえば良かったんですよね。

あーあーあー。
言葉足らずでした。


しかしながら、これが私のスピ観における言語化の解像度を上げるきっかけになったのも事実です。
反省から学びました。

データソースの重要性も。
という訳で、販売された書籍をエビデンスの根拠にすると良いということを知り、ヌーソロジー関連の書籍を話題に持ち出すことが増えました。

人類が神を見る時に書いてありますが…シリウス革命にありますが…奥行きの子どもたちにありますが…感性で紐解くヌーソロジーにありますが…目覚めへの道の歩き方にありますが…
みたいな感じ。

そうすると、殆どの人は「本になっているのか」と思って、半分くらい有難がって本を手に取り、情報のソースを信じるようになるのですね。

または、科学者や哲学者など、偉人とされている言葉を借りると信憑性が上がります。

この手法も限度があると思っておりますが、そうやって背景に知識としてn次前提があると、割とスムーズに話が進む、と。


お金がない人などは、ブログやサイトの情報を信じ、最近はYouTubeなどもデータソースとして扱われることが増えました。
TikTokは信じられません。
あのサイトは「動画編集ありきのネタサイト」としてスタートした媒体であるため、全てフェイクであるという前提が生まれているからです。

故に、TikTokから引用された情報を見る度に、私は軽蔑の眼差しを向けていました。
「フェイクに踊らされているわ」と。


今のところ、書籍データが最も信憑性が高い媒体として扱われていると思われますが、それは出版社や編集部を通っているからという他はありません。

誰か第三者による意識や認識により、検問を通過しているから。


所詮は人間の認識の中でしかない狭い領域と言えばそうなのですが、それでも一応「太鼓判」が押されているという訳で、信頼が生まれるわけです。


では、個人で勝手に情報を書き出している私の話はまるで嘘だというのか?というと、そうではないんですね。
私は基本的に真実しか述べないようにしています。

しかし、無料コンテンツの利用、誰でも気軽に発信できる場、勘違いやフェイクを混ぜた情報も混在する場所で、信頼を声高に訴えたとて信じきれない、となる人もいない訳では無い。

という訳で、ここに書いてあることは世間一般から見ると「信用のおけない情報」と見られることもあるということです。

私はそれを十分承知の上で
「でも、嘘は話していないよ」
という気でいます。
多少の勘違いはあるやもしれませんが、それは書籍でも映像化媒体でも何にでもあるわけで。

結局、読み手が信じるか信じないかに委ねられるのです。

これが、次元観察子Ψ7とΨ8の兼ね合いとなります。



何に真実を見出すか


ここで重要になるのは
「自分が本当に求めているものの正体を見極めること」
です。

自分の気持ちや世間からの評価、無理のない証明などがキーになってきますが、これは結構曖昧であり、時に上記のどれかを犠牲にしなければならないことも多々。

つまり、真の意味で正解はないのです。
これが Ψ4 の真髄となるもの。

「その人がそうといえば、それが本当」

というものですね。

そこで、最もカーラチャクラを回転させなければならぬのが第7チャクラのケセリック・テンプレートです。
このチャクラは、コーザル体に深く関与します。

7チャクラが、個々の認識による真実を決定づけます。

基本的に、誰かに否定されたり拒否されたりといった現象は起こって当たり前だと思うのが正しいです。

「それは変だよ」
「そうではないですよ」
言われて当然ということ。
何故なら、Ψ4の条件は個々によって違いが生じ、それに伴って自我が存在する限り人間関係に摩擦が生じるのは当然であるため。

みんながみんな、Ψ8を信じればそれで済む話ですが、そうではないのが人間です。
Ψ8はないのも同じ。
Ψ4をビンビンに働かせて、自分の思う正義を貫き続けるしかないです。
摩擦や軋轢は無視する。
少しこれが発生しただけでイジケ倒すのは軟弱がすぎます。

どうしても損が生じる以外の理由で、基本  "そうなの…" で流せない。
そこに人間としての未熟さが出てくる。

納得がいかなければ、そっと距離をおけばよいだけの話。
それが出来ないのであれば、自他境界線の自覚不足。
または、自己愛性パーソナリティ障害の疑いありです。
支配欲の塊であるという証拠になります。


ここまでの自覚が、世の人間には全く足りていません。
コーザル体の働きが弱すぎるせいです。
どうやってコーザルを強くすれば良いのか?


残念なことに…。

薬物使用により、脳幹を麻痺させるしかありません。
そうして出た行動が、その人の真実の姿となります。


薬がヒトを狂わせるのではなく、多くのヒトは元々狂っており、それが世界認識とされる条件と大きく外れているというだけです。


狂わないヒトは、覚醒剤をどんなに盛っても阿片を吸っても大麻を食べても、身体機能が低下するだけで全く変わらないです。

「これ、体に悪そうだ」

それだけです。

薬で狂う人は、中和と元止揚慣れしていないだけ。
慣れた人には屁でもないです。

これに慣れるには、転生輪廻の環を相当数重ねる必要があります。



言語化の受け止め方


「安易に言語化するな」
という意見を見ました。

それは分かります。
基本、言語化を試みている人は意味を履き違えていたり勘違いのオンパレードだったりします。

「そうじゃねえんだけど…」
というツッコミを幾数回、重ねてきました。

しかし、世の多くの人というのは
「語彙を増やせば、他者から頭がよく思われる」
という認識の元、覚えたての言葉を無理矢理自己都合で解釈をして乱発し、「知能遊び」をします。
そう。
言葉を扱うことはつまり、知能遊びなのですよ。


意味なんてどうでもいいから、言葉を使いたい。
いろんな言葉を操りたい。

そういう欲求が根底にあります。

体育の鉄棒の授業で、前回りしか出来ない人よりも逆上がりが出来る人は尊敬の眼差しで見られる。
そのフラクタルです。

尊敬と称賛を求めて、「技」を増やそうとします。
コミュニケーションにおける「技」が、語彙です。


だからさ。
私は、間違った用法の語彙を増やそうとするより、全てをヤバイで済まそうとするヤンキーの方がよっぽど賢いんじゃないか、と思っています。

間違っていませんもの。
無学なヤンキーより、知識人ぶって言葉や認識を勘違いし間違っている偽インテリの方がよっぽど恥ずかしい。

語彙を増やすのは大変なんですよ。
過去に書きましたが。


一番頭が悪いのは、「語彙」という言葉を耳もしくは目にした時

「ああ、その話題ね。僕の知っている認識では〜」

と、勝手に勘違い自論を展開してくる人です。


間違った認識を正そうとせず、その土俵で勝負しようとしてきます。
記者やライターに多い。

知識披露ごっこが大好きみたいで。

「あなたはそう思っているみたいだけど、そうじゃねえっつってんだろ」
という言葉が見えない。
一種の自閉症ですな。

とにかく好戦的。
負けん気ばかり強くて、話にならない。

こういうのは基本、無視するしかないです。
知識汚染されます。


その上で
「どのように語彙を増やせば良いのか」
という具体案。


まず、現象が存在します。

それを、誰かが言葉に現します。

それを見て、興味が湧くかどうかで分岐が分かれます。

興味が湧かなかった人は、他のことに集中します。

興味が湧いた人は、どこに興味が湧いたのか?を分析します。

その後は、調べ物の連続。
すぐには答えは出ないので、メモをしておきます。
忘れた頃に、何故か答えを得ているパターンが多い。

そうして、意味を理解した時に初めて語彙が増えます。


重要なのは、焦らないこと。
メモをしておくこと。
そして、熟すのを待つこと。

覚えた言葉は、すぐに使えるとは思わないこと。

明日使えるライフハックなんてものは、この世には殆ど存在しないです。
いつか使えるライフハック。
そう思って、腰を落ち着けていかないと間違えるばかり。
正確性を失うと、ここぞという時に何故か負けてしまいます。

真の意味で勝ちたかったら、落ち着くしかない。
訓練です。



意識の運転で重要なもの


車の運転は

  1. 走る

  2. 曲がる

  3. 止まる

で成り立っています。


この中で最も重要なのは?

答えは 3.止まる です。


これは、精神状態でも同じことが言えます。
如何に止まれるか。
ブレーキをかけられるかで、人間の真価が発揮されます。


男性は基本、思考のブレーキがかかりにくい脳構造をしております。
これは、訓練で僅かですが改善が可能。


まず、意識というのはエネルギーの塊だという認識を持つことが重要です。

  1. 走る


車のエネルギー量と同じものです。
やる気
カロリー
肉体の訓練
可動域

これらをガソリンにし、行動に移すことが可能となります。


そして、車窓から覗く景色が世界の全てです。
見づらいですけど、これが普通です。
後ろは、ルームミラーとサイドミラーでしか確認出来ません。

これは男女ともに共通。
人体の限界。

バックモニターは魔法の世界です。
生きている人間には、この機能は搭載されておりません。

神の神殿で修業をしない限りは会得は無理

精神的な意味でも、やはり神様学校に通えるくらいでないと難しい。


視界の話はこのくらいにして、走る です。

エネルギーというのは、急に消すことはできません。
停止まで減速しなければなりませんね。
急ブレーキをかけるにしても、制動距離がどうしても発生する。

意識も同じです。
急な方向転換は出来ません。

我慢をすると、後になって余剰エネルギーがどこかのはずみで暴れ出し、反動により暴走したり元来備わったブレーキが損傷し、効きにくくなったりします。

アンガーマネジメントは不可能。
出来る人は言われるまでもなく、とうの昔に普段から行っています。
出来ないというより気付かない人は、最初から実行は不可能であると思うのが正しいです。

素直に怒るべし。
場所を変えて怒る、という理性がある人は、それが出来れば合格点です。
大体こういう人は、ネットで罵詈雑言を連ねています。
逮捕されたり訴訟問題まで発展してしまう人は、やはり理性が足りないですね。
怒りの発散場所の矛先を複数用意し、小分けに怒るのが良いです。

リラックスの場より、鬱憤の発散場所を増やすほうが歪みにくいかも。


男性脳なるものは、この辺りが鈍くなっています。

停止出来ない。
制動距離、空走距離の計算が出来ない。

ここで男性性・女性性は無関係です。
脳構造がどうしても働いてくる。
脳科学かな。

右脳・左脳は関係なく、染色体で決まります。
表相の場合は、ですが。


女性脳はどうなの?
我慢しすぎる。
ブレーキをかけすぎているのです。
めちゃくちゃ怒っている人は、実はそこまでいくのに何度も急ブレーキをかけて、ブレーキの機能そのものを壊してしまったのです。
脳は消耗品ですからね。


適度なブレーキを心がけ、無謀と思われる振る舞いの前は、石橋を叩いて渡るくらいでちょうどいい。
走る行動そのものが、ストレスフルなものであるという認識を持つのが的確です。


ブレーキをかけられない男性というのは、認識のアップグレードが苦手な人です。
古い認識をいつまでも引きずる。
思い込みが激しすぎる。
それを認めることが出来ない。

上記に書いたことは、人生のどこかでブレーキをかけることで回避が可能です。

しかし、リスクもある。

古い認識をいつまでも引きずる
これを意識しすぎて、今度は新しいものばかり求めるようになります。
そうして「新しいもの、新しいもの」と普段から口癖のように言い続け、古いものを排除するようになります。
温故知新を失った状態。
それはいいんですけど、周囲が全く見えなくなっているので、周囲から見てどう見ても古臭いものであっても、本人が「新しいものである」と一度判断すると、そのままそれを振りかざすようになります。
結局、時代遅れから抜け出せぬまま。
「新しさ」を求めるのは一時的なスタンスとして扱うのが望ましい。
それが、真の意味でブレーキをかけること、となります。
自覚は難しいですけどね。


思い込みが激しすぎる
自己擁護の現れ。
独善に走る、というやつ。
全てが全て周囲に従う必要もないですが、反骨精神が過ぎると手に負えないくらいの虚栄の権化となります。
これは治らないです。
さようなら。

それを認める事ができない。
老害の一歩です。
さようなら。
ひとりで生きてください。


車というのは、まず止まれないことには曲がることが出来ません。
曲がれない、それは思うような人生が歩めないことを意味します。

停止線で止まる。
左右後方の確認。
任意の方向に進む。

それが出来ないことには目的地に辿り着くことは叶わず、人生の勝利は掴めません。


勝ちたい慾が強い人ほど、実はこれが出来ない。
そして、ここに語彙はあまり必要ありません。
車種、もしくはアクセサリーに過ぎないのです。
車種はなんであれ、走るだけは取り敢えず出来ますのでね。

自覚が大事。
自分はポルシェに乗っているつもりでも、実は車体は軽トラだった、なんてことも少なくないです。
良い意味でも悪い意味でも。


止まる。
方向転換。

この技術を身に着け、または訓練することが大事。


新しい言葉を見つけたら、辞書で調べる癖を付けます。
または、ネットで調べて。
コトバンクに大体載ってます。

単純に語彙を増やしたかったら、辞書を読めばOKです。
出来るだけ古いもの(昭和〜平成中期まで)がよい。
最近のものは頭が軽めです。
逆にバカになるかもしれない。


そして、流行りにのらない。
祭り気分を完全に捨て去ります。
テンション低く、ダウナーくらいでちょうどいい。

ハイとダウナーを適度に切り替えられれば猶良し。

しかし、誰かがハイ状態であるのを見て、気後れする人も出てくるかもしれません。
「明るくて羨ましい」と。
それはその人が未熟な証です。

そういう相談を受けたりしたら(めったにないでしょうけれど)
「ハイ状態は、実は仮面よ。」
と言うしかないですね。
ハイテンション・ペルソナ。

それで疲れて躁鬱になったというのなら、その人生や人間関係は向いていなかったということ。
テンションの高低の調整が出来ていないのですね。


消耗した脳を元気にするには、実はアルミニウムとカルシウムが有効です。
アルミでアルツハイマーにはなりません。
アルミがあったから、逆にアルツハイマーが軽度で済んだのです。

アルミのミルクパンで、小松菜と胡麻の和物を食べればそれでOKです。



意識の運転は、めちゃくちゃ難しいです。


そして大事なのは、認識の殻を破ること、なんですが…。
それを元止揚空間と勘違いしてしまう人が多いです。

これは、手の施しようがないです。


とにかく、誰かに笑われるとかあまり考えないで、一生懸命に生きる。
それしか方法はない。

思考の型というのは、けっこうコロコロ変わります。
思考の癖を変えるだのなんだの、そういうのが地味に人気みたいですが。

そういうことを喜びいいさんで口に出す人程、思考の癖を直せていないですよ。

一番の近道は、落ち込むこと、
底の底まで。
そこからの浮上。

それを繰り返すうちに、段々と地頭が良くなっていきます。
無理に明るく振る舞おうとしない。
そして、周囲もそれを強要しない。
マジで害悪っすわ。


「あんたを喜ばすピエロになるために生きてるわけじゃないから。」

と、はっきりと言い切ってしまうのが大事です。
ご機嫌取りは、生き延びるためのテクニックのひとつなのよ。



認識を育てる為のさわりの文章でした。


ここまで読んで頂き、ありがとうございました。


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