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いきのこり、マリオネット(2023.11.10)

職場から出て駐車場。暑くも寒くもない。雨が降る合間で、地面はしっかり湿っている。

少し先の土手は、大規模な草刈りが終わったばかりで、さっぱりしている。その上を定規の目盛りみたいな人影がゆっくり左から右に移動していく。

色んな音がくぐもっている。低い雲に音が吸収されている感じ。あんなに大ボリュームで生い茂っていた草がいきなりなくなったせいで、景色が無機質で、殺風景に見える。

私は同僚のTさんに「なんかさびしいな」と言った。それは景色や気温や湿度や人のまばらな感じや色んな事についての感想だったけど、変な事を言ってしまったなと今になって思う。


帰り道、暗くなるのが早い。定期的に訊いているポッドキャスト番組をあらかた聞いてしまったので、spotifyのミックスリストを聴いていた。

青葉市子さんの「いきのこり●ぼくら」という曲があって、私は別大国道を北上しながらそれを聴いていた。

曲の中で、主人公の仲間たちは凄絶な状況の中、次々に命を落とす。新しい亡骸を鳥がついばみ、空高く運んでいく。なんとか命からがら生き延びた主人公たち。新しい日常に半信半疑に慣れていこうとする。

そういうのが、弾き語りの中で訥々と歌われる。

「毎日の風景、ずっとずっと続くね。慣れなきゃ。慣れなきゃ」と生き残った「ぼくら」は言う。多分空調の効いた鉄筋コンクリート造りの部屋で、真っ白なシャツを着て。誰の血か分からない血で足の裏を汚した日々とは真逆だ。

そういう、連綿と続いている時間と、少し前まであった陰惨な記憶が事実だけに目を向けると、地続きであるという事。

昨日ストリートビューを先生(整形外科の先生)と見ていたら、その風景に不自然な断絶があった。先生がそれを不審に言うので、私はそれが写真と写真の継ぎ目で、ストリートビューは無数の写真で出来ていている事を説明した。そういう事はとっくに知ってるだろうに。

昨日のその出来事を私は思い出して、実は私たちが生きているこの世界にも継ぎ目があるんじゃないかと思った。「いきのこり●ぼくら」で歌われているように、日常と別の日常がまったく異質で、案外それは地続きではなくて、そこに継ぎ目があり、そういう継ぎ目が実はそこらじゅうにあるんじゃないかと思った。

「生活の中に、継ぎ目が」

その継ぎ目の中に時々私たちは足を取られ、出られなくなる場合もある。運良く(運悪く)その継ぎ目に気づいてそこに目を凝らし、覗き込む事が出来れば、どこか別の・・!

とか考えてたら、ミックスリストでBOØWYのマリオネットが流れてヒムロックが「イジける事にいつから慣れたのサ」と歌っていたので、あやつる糸を断ち切って自分のために踊ろうと思った。


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