レフトフィールドに立つということ(声明)
どうも、こんにちは。雨季です。
今回は少しばかりシリアスな話をつらつら書き留めておこうと筆を執った次第。タイトルにもある通り、レフトフィールド、つまり「左翼」に立つということが創作者にとってかなり大切なのではないだろうかと最近考えるようになってきまして。むろん「左翼」といっても政治的な意味合いのそれではなく、飽く迄もモノを作るにあたっての「非主流派性」「革新性」。そちらを重視すべきであるという至極当たり前な姿勢に対して、漸く意識が傾いてきたとでも言いますか。確かに今更な話ではあります。けれども、あえて声明文としてしたためておくことにこそ大いなる意義が存在するわけです。
創作者は「右」に鎮座していてはいけない。「王道」を軽視するわけではありませんが、そこに拘り過ぎると進歩がない。こう書いてしまうと、なんだ古臭い「進歩主義」か――とバッサリ斬り捨てられそうで少々恐ろしくもあるのですが、その古臭いどぶ泥の中に一筋の光明を見つけたわけです。「革新性」が相反するはずの「古臭さ」の中に認められたなんて面白いことであるとは思いませんか?
もちろん「王道」を安易に否定するつもりはありません。その席に坐しておられる手練れの先達も間違いなくいるはずです。だから、これは私個人が視た幻惑の如きものだと思っていただきたいのです。そしてその幻惑の如きものを私は更に突き詰めてみたい。
まとめることなく書き散らかします。
創作者はレフトフィールドに立つことを恐れてはいけない。しかしそのまた更に逆の立場にこそ真実が浮游する可能性は否定できない。すなわち「右翼」に鎮座していてはいけないが、そこにも学ぶものはあるということ。そもそも「右」も「左」も煎じ詰めれば同一性の「生き物」なのやも知れない。それでもあえて自らを左岸に位置させ、レフトフィールドに立つという「声明」そのものに操られるのことこそが時として重要であり、それはまた、現代社会をリアルにサバイヴする創作者に課せられた逃れられぬ「さだめ」のひとつであると言えるのではないか。
書いていて混乱しているようにも思えるのですが、私の脳髄は至って明瞭です。最後に更に意識を明瞭にすべく、一曲聴いてみましょう。Leftfield-Lydonで「Open Up」。では、またいずれ。
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