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弘前れんが倉庫美術館

弘前れんが倉庫美術館がフランス国外建築賞グランプリを受賞しました。
弘前市民の一人として大変誇りに思いますし、れんが倉庫を市で取得するため所有者との交渉を行った身としてとても感慨深いです。
今回は所有者の方とどのような話し合いをして最終的に市に譲ってくれることになったのかをちょっとだけご紹介したいと思います。

(一回3時間超の話し合い)
青森県内には青森市、八戸市、弘前市と地域の核となる市が3つありますが、当時は美術館がないのは弘前市だけでした。
文化都市でもある弘前に美術館を作りたいという当時の葛西市長の想いから、当時市役所で市政の課題解決全般に汗をかいていた私に市長かられんが倉庫の所有者吉井千代子さんと会って話し合いを進めてくれという指令が出ました。
吉井酒造社長吉井千代子さんとの話し合いは、弘前駅近くの吉井酒造本社の玄関横の応接室におじゃまする形で行います。
一度会社に赴くと午後の勤務時間はほぼ潰れます。
80代後半の吉井さんの話は戦前の出来事から始まり、戦時中に弘前の連隊から出征する部隊が明け方に家の前を行進していった話、学徒動員された美術大生だった叔父さんの絵が長野の無言館に展示されている話、弘前大学の運動場がもともと吉井酒造の所有で父親がもっと狭い土地(変電所跡地)と交換してあげた話などなど、最低3時間は吉井さんの話を聞きます。
ようやく話が途切れたタイミングで「ところで吉井さん、れんが倉庫を市に譲る件は・・・」と切り出すと、色々とやることがあってまだ具体的に考えていないと都度はぐらかされました。

(山本さんは刀を置かない人だ)
月に一回程度吉井さんとの会話を続けていきました。
その中で吉井さんの暮らしぶりというか気質にも触れることができました。
行くたびに出される茶菓は市内の名店のもの、コーヒーは京都のイノダコーヒーのコロンビアンエメラルド、果物は千疋屋から取り寄せしたもの、吉井さんから出されるものはどれをとっても一流のものでした。吉井さんと同じようにはできませんが、私はその時からイノダコーヒーのコロンビアンエメラルドを愛飲しています。
何度も何度も同じことを繰り返し2年ほど経ったころに人づてで「山本さんは刀を置かない人だ」と吉井さんがおしゃっていると耳に入りました。
私は、何度もお会いするうちに吉井さんとはコミュニケーションが深まってきたと思っていましたが、吉井さんはやはり「仕事で来ている私」に一定の距離感を覚えていたのだと思います。
そこからは、一方的に話を聞くだけではなく途中私の意見を言ったり、私個人のことを話たりと、仕事を超えて自分の人となりをわかってもらえるよう努力しました。
そして、美術館を単に作るのではなく、「弘前のへそとも言える中心地に、地域に変化を起こせる場所を作りたい、そのことが弘前の将来にとって必要だ」という私の想いもお伝えしました。
吉井さんからは、独身の吉井さんが唯一お見合いした話、弘前を代表する作家の石坂洋二郎の息子さんと見合いさせられ、真っ赤な洋服をきた母親が付き添ってきたのを見て「このおうちには嫁に行けない」と丁重にお断りしたことなど、吉井さんの個人的なことも話をしてくれるようになりました。

(山本さんに任せる)
そんな会話を重ねて1年ほど経ったころだと思います。
「山本さん、あの倉庫のことは山本さんに任せる。値段も山本さんの方で決めた値段でいいよ。」とすべて私に任せてくれると吉井さんがおっしゃいました。
私はようやく折れてくれたかーという安堵と同時に吉井さん個人から信頼を得たことを心から喜びました。

吉井さんは、れんが倉庫美術館の開館を前にお亡くなりになりました。かっこよくタバコをくわえ倉庫の横で腰かけている遺影をみて「吉井さんらしいなー粋だなー」と思いました。
弘前れんが倉庫美術館は、開館がコロナ禍と重なって厳しい船出となってしまいましたが、「弘前に変化をもたらす拠点」として将来にわたり市民を感化する場所であってほしいと切に願います。


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