思考の終着駅

✅食べちゃいたい
他者が愛おしくて堪らないとき、ふと「食べちゃいたくなる」って感覚ない?僕はあるんだけど、もし全ての生物の普遍的な感覚だとしたら、カマキリのメスが交尾後にオスを食べる行為が美しいグロテスクに見えてくる。

たぶん「キスしたい」っていう感情に極めて近い感覚で「食べちゃいたい」が存在する。

犬と戯れていると、ふと鼻の頭からかぶりつきたくなる。いわゆる「食べちゃいたいくらい可愛い」というやつだ。可愛いという感情は小さいもの・弱いものに対して起こり、一般的には母性や守ってあげたいという気持ちが源と考えられている。しかし、僕が思うに実際は可愛いという感情はそれとは対極のところに源がある、それは捕食欲だ。太古、人間が狩りをしていた時代、小さく弱い生き物は絶好のターゲットになった。それゆえ現在でも小さいもの・弱いものを見ると捕食欲が湧き、その感情を可愛いと呼ぶのではないだろうか。もし可愛いという感情が母性や守ってあげたい気持ちだとしたら他人の赤ちゃんや犬に対してその感情が湧くのはおかしい。
↑かわいいという感情は弱いもの、自分より劣ったものに対して生じる感情。太古の時代、捕食対象となったのも同じく弱いもの、自分より劣ったものなので、同じとは言わないまでも「かわいい」と「捕食欲求」は近しいものなのではないだろうか。

✅「作品の面白さ」
作品の面白さ=どれだけ感情を揺さぶられたか、だと思う。
(お笑い番組を見ておこるような)「楽しさ」は複雑でロジカルに生み出すのは難しい。一方で「怒り」や「感動」は容易に生み出せるのではないか。「怒り」は主人公に対して悪役が理不尽な扱いをする構図でつくれるし、「感動」はこれまた主人公を理不尽な環境に置いて、それに対して立ち向かわせたり、自己犠牲によって弱い者を助ける構図でつくれる。
したがって主人公を一旦、理不尽な目に合わせてハッピーエンドで終わらせておけば、そこそこ万人受けする作品がつくれる。

ミュージカル作品の良さは重要シーンにおいて「詩(セリフ)、音楽、ダンス」を用いることでより強く感情を揺さぶることが出来るところだ。
またミュージカルパートを挟むことで展開にメリハリをつけたり、心の中の葛藤を不自然さなく(歌う事自体が不自然と言われればそれまでだが)効率的に表現出来る。

【entertainment】
感動、ワクワク、喜び、楽しいことだけがentertainmentではない。怒り、悲しみ、嫉妬などネガティブな感情もentertainment。
面白いコンテンツ(entertainment)=感情を揺さぶられたかどうか。
好きな人が恋人になるのはentertainmentで、同じように好きな人が死ぬのもentertainment→じゃあ殺したら手っ取り早いじゃん→死んでもそんなに感情揺さぶられないか

✅遅刻について
「遅刻を許す」→遅刻を許可する
「遅刻を赦す」→遅刻した罪を咎めない

「遅刻を許す」というのはなにか気持ちが悪い→蛇口からコップに水を注いで溢れ出した瞬間を待ち合わせ時刻とする。遅刻を許すと時間的な座標を失い、コップから溢れ続ける水のように無限大になる。つまり待ち合わせ時刻自体が無意味になる。

例えば、5時が待ち合わせ時刻で5〜10分の遅刻は認める場合、実質的な待ち合わせ締め切り時刻は5時10分であり、遅刻を許したことにならない。

遅刻を「約束の時間より遅く現れること」とすると「事前に10分の遅刻なら許すと伝える」というのは矛盾している。


✅芸術とは
俗世界からの決別
裸体

芸術とは、自分の中にあるイデアを言葉、線、音といった記号で表現すること。
絶対にたどり着かないイデアに、たかだか言葉やら線やら音といった不完全なモノを紡いでいく。
自分のなかでイデアと作品が極めて=に近い≒になったとき、はじめて芸術になる。

言語化するときに
感情のメタ観察→感情の原因の仮説をたてる→仮説に基づいて論理化(言い訳を考える)→論理が完結したから言語化終了
みたいな道筋を辿るから、自分でも完成した文章が本当に真意(自分の感情の意味するところ)なのか分からない。

自分の感情や想いを伝えるときも簡易的に同じような道筋を辿るハズで、
口から出た言葉≒感情
であって=になることは絶対にない。
成東組でよくやっている議論は言葉という記号をイデアに近づける遊びって感じがして好き。

万葉は思考をイデアに近い形のまま扱っている気がする。やっぱ一般的には言葉っていう記号に置き換える都合上、思考する段階で言葉寄りで考える方が楽なハズ。話してて、俺や村田は結構言葉寄り(具体的)だけど万葉はイデア寄り(抽象的)なのかなって感じる。俺や村田は記号レベルで思考しているから枝葉末節まで確定しないと理解したことにならないけど、万葉はイデアレベルでみているから、話を聞いてて「あっこれは〜の木だから末端はこうなっているハズ」みたいな感じで抽象→具体の抽象がデカい

イデア(感情、構想、抽象)を表現するときに言葉っていう記号に置き換える過程が存在する。でも日常会話ではリズムとか瞬発力が必要だから既に用意された記号を使う。LINEでスタンプを使うみたいに。イデア→記号の過程で、どんな人でもスタンプは使うんだけど自分でキーボード入力した言葉(真の意味でイデアから置き換えた言葉)の比率が多い人ほど、自分の言葉で表現する魅力的な人間にみえるかもしれない。

✅フルカラー論
勉強って色を足す行為なんやなって思った。
無学な人の見えている世界が白黒テレビだとすると、博学な人の見えている世界は4Kみたいな。テレビ詳しくないけど。
自分が見ている世界ってフルカラーだと思ってたけど、万葉や朝子さん作品を見たり、千葉大組の会話の内容聞いたりしてると、あれ俺の世界、色少なくね?ってなる。現在何色持っていて、どこまでいけばフルカラーなのかは分からないけど、色欲しいなって思う。
モノクロでも日常生活で困ることはないんだよ。僕が言うモノクロっていうのは、今見えている有色の世界のことだから。フルカラーの世界って言っているのはそれ+αで感じ取ることができる色。勉強したり芸術に触れて、受信出来る情報量を増やせれば、そこから見える景色はモノクロとフルカラーくらい違うし、いままで白黒世界で生きてきた人間が色を得たとき、どんなに感動するか想像に難くない。だから勉強すると人生が楽しくなるんじゃね?と思う今日この頃でした。


✅天才
「生まれつき持っている特定の分野において有利な形質」を「才能」と呼ぶ。しかし才能がある人=天才ではない。
例えば、バスケにおいて背が高いことは有利な形質だが、天才と呼ばれるバスケ選手よりも背が高い人は沢山いる。

では天才とは何か。
天才とは結果に対する評価であって、その結果に至るまでの努力や才能は考慮されない。

【天才の条件】
・結果を残せること
・他人が理解できるレベルであること
・才能を測る環境(競争)が整っていること
・社会(誰か)にとって有益であること

努力出来ることが才能
→人への称賛なら問題ないが自分に言ってないか?
→努力が辛いから言い訳して保身しなきゃ

✅天才と志
志→努力(時間を費やす)→天才(的な能力)
飛び抜けた能力を持った人を、凡人たちが「天才」だと評価する。天才とは評価であり、相対的なもの。昔の人から見れば読み書き計算が出来る現代人は皆、天才に見えるかもしれない。
天才的な能力を得るためには努力をしなくてはならない。この努力とは頑張ってる感とか苦痛の量ではなく、ただ単純に「どれだけ時間(寿命)を費やしたか」という定義だ。もちろん天才と称されるまでにかかる努力の量は生まれ持った形質に依るところもある。
自分の命である時間を削り続けるには苦痛が伴う。この努力を続けられるかどうかの違いは「志」にある。常に志を持っていられれば、天才と呼ばれる存在になれるかもしれない。

✅努力
俺が思う現状から結果(目標、能力、結果、知識)に至るまでのプロセスは努力ではなく「時間をかけること」だと思う。このままの表現だと誤解を招きかねないので補足すると、現状から結果までのプロセスである「時間をかけること」を分類すると「努力」と「興味」に分かれる。

例を出すと「万葉が本を読んで得た知識へのプロセスは興味」「俺が〝万葉みたいになりたい〟と同じ知識を得ようとするのは努力」というように分類できる。
一方で「万葉も俺も〝時間をかけることで〟結果にたどりついた」ということになる。

俺が(このやりとりをしていた当時)思ったのは
①村田が万葉に対して〝興味は凄いけど努力はイマイチ〟的なことを言っていたが、「時間をかける」というプロセスをするに際して興味で努力を代替できるから、興味をもつことさえできれば関係なくね?
②「やまもすは努力する人間」という言葉に対して、俺にとってスプラトゥーンは興味でやっているから努力とは違う気がする。
ということだ。

「努力」と「興味」の違いを考えているうちに思い浮かんだのは、これは才能の話にも繋がってくるということ。
村田にとって勉強は興味でやっていることだとする。しかし他者からみれば「勉強は嫌々やるものだから村田がやっているのは努力だ」と認識の違いが生まれる。
自分にとって興味で、他者にとって努力である事柄の結果を才能と呼ぶのではないか?

才能フラット
見られる能力は限定されているから
無駄なところに振ってないやつが才能のあるやつ


✅単語覚えるみたいに返しを覚えればコミュ障治るんじゃね?
俗に言う〝コミュ障〟とはコミュニケーションが苦手という意味である。思うに、単なる苦手であれば克服が可能である。コミュニケーションとは言葉のキャッチボールである。つまり、相手の言葉に対してどの様な言葉を返せばいいのかさえ分かってしまえば、コミュ障は克服できるのだ。想定できる言葉への返しを考え、全て暗記することで、コミュ障は克服できる。もちろん、想定外の言葉に対応できないからコミュ障は克服できていないと思う人もいるかもしれない、だが、コミュニケーション能力は経験値によるものがほとんどを占めるその経験値を暗記という方法で補えば、おのずと応用力がつき想定外の言葉にも対応できるようになるのだ。

✅倫理
もしも感情のない身体だけの人間を造れたなら、その身体を移植のパーツ取りに使っても許されるのか?
感情・痛覚がある家畜を殺して食うよりも人道的だが見た目は完全に人間なので倫理的にアウトかも
倫理の壁を越えられたなら
・臓器移植のパーツ取り
・ニンゲンの丸焼き
・どの遺伝子がどの形質に対応しているかの研究
・ゾンビ兵隊

✅フランス文化
フランスの歴史を学び、フランスという国の根幹が垣間見えた気がする。僕はフランスが大好きになった。「レ・ミゼラブル」「オペラ座の怪人」「ノートルダムの鐘」「イノサン」「ベルサイユのばら」「美女と野獣」「パリは燃えているか」といったフランスが舞台の作品を見た。それらの作品はフランスの良さを様々な角度から映して、僕の世界を豊かにしてくれる。僕のフランスでは、王妃がオペラ座に行きたいと言えば、オスカルが護衛するし、王妃は怪人によって地下へ連れ去られる。処刑人が出ればシャルル=アンリ・サンソンが剣を振るい、カジモドが時を告げる。修道院にはジャン・ヴァルジャンが隠れているし、郊外の城には野獣と本好きの少女が住んでいる。
特にフランス革命期の混乱は、今日でも様々な作品の舞台として取り上げられており、レミゼラブル、ベルサイユのばら、イノサンの登場人物たちも時代のうねりに苦しめられていた。
フランス革命前後について述べるとき、ほとんどの問題は「身分の違い」に集約すると思う。ひとつの国の中に、この世で最も贅沢を尽くした人間とこの世で最も貧しい生活を強いられた人間がいて、お互いに身分や軋轢に悩んでいる。そんな歪な状況が人間の本性を暴き出すからドラマチックな作品が生まれるのだと思う。ベルサイユ宮殿での贅沢三昧や人間関係に飽きたマリーアントワネットが、プチトリアノン宮殿の中に田舎風の農村をつくり、信頼できる人だけと過ごしたのも、星新一の小説のような皮肉を感じて面白いし、第三身分の視点では、憎き貴族・王族を倒す勧善懲悪の構図も面白い。
僕がフランス文化を知ることによって得た一番大きなものは「フランスへの興味」かも知れない。フランスの歴史が育んだ文化や国民性、先ほど挙げた作品はどれも芯の強さと美しさを持っている。

✅学歴社会廃止
低学歴の言う学歴社会廃止
学歴がないから良い職に就けない。学歴社会が悪い。無くしてしまえ!

高学歴の言う学歴社会廃止
学歴は誰もが努力すれば得られる最低条件。論理的思考力など+αが大切だから学歴だけで判断しないで欲しい。

低学歴にとって学歴社会廃止は、そこから努力して学歴を得れば良い職につける社会を廃止し、学歴を得て、なおかつ+αの能力もつけないと職に就けない難易度の高い社会になる。


‪✅いじめ‬
‪いじめっ子を自分に、いじめられっ子をゴキブリに、コミュニティを家に例えましょう。‬

‪家にゴキブリがいることに気がつきます。ゴキブリには実害はないので共存するという選択肢もありますが、やはり見た目が気持ち悪いのでゴキブリを殺してトイレに流しました。ゴキブリがいないので家族と快適に暮らせます。めでたしめでたし。‬

‪経験談からだけど道端とかでゴキブリをみても殺そうとは思わない。でも家って離れられない(離れたくない)場所じゃん?そこにゴキブリがいる間はずっと不快な気持ちになるから排除したくなる。つまりゴキブリは常に殺される訳では無くて〝離れられない場所に長期間ともにいなくてはならない場合〟に殺される。‬

‪これをいじめに戻して考えた時、いじめをなくすにはコミュニティという存在を小さなものにする必要がある。いじめる側にとってコミュニティが離れられない場所でなければ排除せずとも自分が離れることもできる。‬

‪大人はクラス分けやら(離れづらい)部活とかいうシステムでいじめの温床をつくっておきながら、子供にいじめは良くないことだと講釈を垂れるが本当にやらなければならないのは根本的な原因を潰すことではないか。‬

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